山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

20世紀の冷戦と21世紀的な冷戦構造(2)イージス・アショア見直しに際して

前回は、急速に形成されつつある米中の「新冷戦」的な構造が、日本の国内政治に与える影響について考えました。現在の日本政治は、国民の圧倒的多数が中国に対して強い不信感を抱いていることを前提としており、「新冷戦」が国内政治に投影されている部分は限定的です。現在の野党には、かつて見られたような非同盟的な発想や米中正三角形論的な発想は希薄であり、新しい時代の現実を反映した与党との差分を示せずにいます。他方で、日本の政治には、いまだに20世紀的な国内冷戦構造をも引きずっているという側面もあります。本日は、そのあたりについて見ていきたいと思います。

対中政策をめぐる構造

「新冷戦」的な現実がしだいに積みあがっていく中で、国内政治にもそれが投影されることとなるのかというのは今後何十年かを見越して大切な視点です。政治は、絶えず複数の複雑な要素によって決まってきます。それは、国際社会や経済社会の構造を踏まえた「コップの構造」が重要な局面もあれば、その中での利害や人間関係などの「コップの中」が重要な局面もあるからです。現在のところは、新冷戦はコップの構造にはさほど影響を与えてはいないと言っていいでしょう。結果的に、日本政治における新冷戦への対応はそれほど政治化されていません。その対立構造が政権与党内の実務的な路線対立に落とし込まれている程度だからです。政党政治というゲームのルールの中では、現在のところ、政治問題化するための要素に欠けているということです。現在の日本の対中政策は、大きく二つの基盤に立脚していると言って良いでしょう。
一方には、中国への不信感や脅威感に基づく保守的なイデオロギーが存在します。日本国民全体の反中感情はかつてと比較して大きく高まりました。反中感情は、ナショナリズム的な感情に支えられています。原理的には、中国の人権状況や、権威主義的な政権の特質を背景としたリベラルな反中ということもあり得るでしょう。が、一部野党のポーズにはなっていても、現在のところはそれほど強い浸透力を有するには至っていません。
もう一方には、一定の反中感情と実利とをバランスさせる発想があります。過去10年以上にわたって中国が日本の最大の貿易相手国である現実を踏まえ、経済界は中国経済と強く結びついています。当初は、生産拠点としての中国という位置づけが強かったものの、しだいに市場としての中国、あるいはインバウンド需要の供給元としての中国と、拡大していきました。当然、対中国で利害を持つ層も拡大していきました。日中間の政治問題には、深刻なテーマが多いものの、政治と経済はある程度分離して臨むべきという発想です。
外交を直接的に担っている政権の上層部や外務省内には、上記の二つの考え方の双方が存在します。直近の流れは、習近平国家主席国賓での訪問というイベントに向けて後者の流れが強くなっていました。反中イデオロギーに立脚する立場からは、対コロナをめぐっても中国との往来を早期に遮断すべきとの意見も強かったものの、各国とのバランスに配慮すべきとの立場から慎重な姿勢が取られたのも外交日程が念頭にあったからでしょう。
そもそも、対中関係において改善局面の流れが強まったのは何故かというのは、興味深い問いではあります。私自身が重要と思うのは、日本の変化というよりも中国の変化です。上述のとおり、日本には対中国をめぐって実利を重視するという流れは絶えず存在してきました。過去2年程度は、中国側がその流れに呼応してきたということが重要な変化であったろうと思います。中国側の動機は比較的はっきりしています。トランプ政権の誕生によって米中の対立が深まったので、それ以外の対外関係で融和的な姿勢を取るようになったということです。その意味では、日中関係の改善局面は、中国側から見れば明確に新冷戦的な文脈を投影しているわけです。

20世紀的な冷戦構造の残滓

対して、日本の対中政策は新冷戦的な構造をほとんど反映しておらず、ほとんど政治化もされていません。安倍政権自体が、反中イデオロギーと実利的な対中関係改善の流れを使い分けており、そこには与党内の対立も、与野党を超えた対立の影響もほとんどないように見受けられます。これは、日中国交正常化前後の自民党内に親中派と反中派がいた時代、あるいは対米政策をめぐって与野党が激しく対立した時代と比較して奇妙な現象と言えるかもしれません。
とは言え、私自身は対中政策において野党にほとんど存在感がないことは必ずしも悪いこととは思いません。日本政治は、20世紀的な冷戦が終結した90年代以降、政権交代可能な勢力の存在を前提とする仕組みへと改組されました。そして、政権交代の可能性と国家にとっての外交の一貫性の双方を確保するためには対外関係における極端な路線対立は必ずしも健全とは言えないからです。鳩山由紀夫氏が唱えたような日米正三角形論は、現在の国際政治情勢に照らして現実的ではありませんから、野党がその種の前提に立たないことは健全な変化として歓迎すべきでしょう。
他方で、日本政治は20世紀的な冷戦構造についてはいまだに引きずっている部分があります。毎年行ってきた国民の意識調査では、与野党の支持者を分ける最大の要素はいまもって安全保障、憲法、日米関係などのテーマなのです。日本政治においては、これらの20世紀的な冷戦の影響を受けるテーマをめぐって根本的な色分けがなされた後に、経済問題や社会問題などが登場するという構造が継続しているのです。他の先進国の政治的な構造と比較してとてもユニークな点です。
日本政治において、制度設計上は政権交代可能な二大勢力の誕生を想定しながら、自民党の長期一党優位が継続しているのも、ここに原因があります。日本の野党は、外交安全保障において現実主義的な政策を採用できないことで、永遠に野党であり続けることを自ら選択しているわけです。21世紀的な「新冷戦」においては、国民意識や経済的な国益を踏まえた現実的な路線対立の中にいるにも関わらず、20世紀的な冷戦の残滓は引きずっているという、なかなか理解しがたい現象と言えるかもしれません。

専守防衛というピース

もちろん、日本政治が20世紀的な冷戦を引きずっていることを野党だけのせいにするのはフェアではないでしょう。戦後の日本政治そのものが、憲法9条をめぐるストーリー作りとその空文化の歴史であったと言っても良い側面を持っているからです。
私自身、いろんなところで発言してきましたが、憲法9条は中学生が普通に読めば違憲のように思える文面です。世界でも有数の軍隊を戦力でないと表現するのは、自衛隊の発足当初から無理がありました。結果として、自衛隊を必要とする現実と、平和憲法の理想主義からくる矛盾を手当てするために、様々な追加的な制約が編み出されたのです。戦後政治の中でも、1970年代までは、憲法には直接は書かれていない原則が追加されていきました。専守防衛集団的自衛権の非行使、非核三原則、防衛費の上限などの概念はこの時期に形成されたものです。
1980年代以降は、これらの概念を解きほぐしていく過程に入りました。防衛費のGNP1%枠の撤廃。自衛隊の海外派兵容認などは80年代から90年代の日本政治を大きく動かすテーマでした。21世紀となって以降の最大の変化は、2015年の安保法制による集団的自衛権の一部容認でしょう。足下では、イージス・アショアの見直しをきっかけにその大きなステップとしての専守防衛の見直しが俎上に上がっています。抑止力という防衛政策の根本に存在する概念を許容する以上、相手国からの攻撃を抑止するためには相手国を攻撃できる必要があります。ミサイルへの抑止力もまたミサイルであるということです。
敵基地攻撃能力の容認は、世界の安全保障の常識から言えば、特に論点となるようなものではありません。20世紀的な冷戦の残滓の最後のピースの一つがようやく乗り越えられようとしているのは大変に良いことであり、新冷戦的な現実を前にして時宜を得たものでもあるわけです。
そこには、安倍政権にとってのレガシーという文脈も付与されています。安倍政権が当初から抱えていた政治目標の最大のものが、憲法改正です。政権は、本気で憲法改正を追求するつもりがあるのか、政権の求心力を維持するための方便にすぎないのかをめぐって随分と論戦が戦わされてきました。私自身は、安倍政権による憲法改正へ向けた努力は真摯なものがあったと思っています。他方で、自民党自民党たる所以は政権維持と天秤にかけたときに優先するテーマを持たないという点です。
最近では、政権のレガシーということがしばしば話題に上るようになっていますが、現実の政治日程上は、改憲に向けたハードルが上がっていることは否定できないでしょう。改憲まではいけない代わりに、憲法9条の周辺に付加された最重要のルールの一つである専守防衛を相対化することができるとすれば、「戦後レジームからの脱却」の大きな一歩となることは間違いありません。安保法制を通じて集団的自衛権が容認され、専守防衛を乗り越えることができたならば、米国の退潮という新冷戦的な現実の中で日本の防衛政策を大きく刷新する道が開けるからです。それは、レガシーと言う名に値する変化でしょう。
国家には自衛の権利と義務があり、練度の高い、民主主義の制度や文化と整合的な軍隊が必要です。新冷戦の現実が目の前に迫っている今こそ、この原点に立ち戻った議論が必要であり、その延長線上に改憲の意義と必要性があります。
日本国民は、イデオロギーが走りすぎた政治家の野望には冷淡である一方で、現実政治の必要性の中から生じている変化を追認することには柔軟な傾向があります。あれだけの政治的対立を生みながら誕生した安保法制が、もはや大きな政治争点でないのも日本独特の現実主義なのかもしれません。一定の防衛予算の中で、効率的で効果的な装備を整備する上で専守防衛という20世紀的な残滓は乗り越えられるべき時期に来ています。北朝鮮や中国からのミサイルの脅威や、費用対効果に疑問のある高額の兵器購入によって財政が逼迫している現実も国民は理解しているでしょう。
現実は、それほど甘くはないでしょうけれど、私がうっすらと期待しているのは、日本の防衛政策の重要な転換をめぐる論戦が、20世紀的な対立構造に基づくものではなく、21世紀の現実を踏まえたものとなることです。

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*本稿は三浦瑠麗公式メールマガジン「自分で考えるための政治の話」7月8日付配信記事から編集・転載したものです。