山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

安倍元総理暗殺をめぐる日本の政治風景

安倍元総理暗殺を経た内外の反応

安倍元総理の暗殺から10日間の時間が経ちました。安倍さんに最後にお会いしたのは暗殺が起きる4週ほど前のシンポジウムの席でした。同時代の日本政治を論説してきた身として、それほど自覚はなくとも精神にダメージを受けるものであると再認識した10日間だったというのが偽らざる気持ちです。それでも、過去の経験を振りかえれば、荒んだ心を癒してくれる一番の特効薬は「時間」でしょう。一定の時間を経て、日本社会が安倍元総理の暗殺とどのように向き合っているのか記しておきたいと思います。

安倍元総理が凶弾に倒れたことを受け、各国からは直ちに最大限の哀悼の言葉が寄せられました。各国の元首クラスから、個人的なメッセージが寄せられました。同盟国の首脳はもちろんのこと、難しい関係にある中国の習近平国家主席や、ロシアのプーチン大統領からも元総理の功績を称える言葉が寄せられています。米国やインドは、全国の公共施設において半旗を掲げるという前代未聞の対応を取りました。家族葬で行われた葬儀の前後には、米国から国務長官と財務長官が揃って来日し、ブリンケン国務長官は大統領のメッセージとして「同盟を超えた友人」との言葉を残しています。

民主主義のリーダーとして当然のことかもしれませんが、国内において、安倍元総理は、より対立を呼び起こす存在です。国民の雰囲気を総括することは固よりできませんが、同世代でもっとも存在感のあった政治家の暗殺に対し、虚脱感が広がったように感じます。それほど大きな論争を経ずに、霞ヶ関の官庁街にも半旗の日の丸が掲げられていました。

もちろん、人々が虚脱感から抜け出すまもなく、左右の対立が始まりました。この対立の内実が本稿の主要な関心事であるので、どのような論争が展開されたかについては後ほど詳しく述べたいと思います。死者を悼むために与えられる時間はあまりに短く、とめどない対立としての政治が続いていくということが、民主政治に宿命づけられた残酷な運命であるかのようです。

私が感じた最初の違和感は、「暗殺」という言葉を避けようとするメディアの空気でした。諸外国では固より、どのような定義に当てはめたとしてもAssassination=暗殺であることは明らかであるにも関わらず、銃撃によって死亡という言葉が、報道機関において横並びで使われます。そこにあるのは、死と暴力を極端に忌避する精神性であり、暗殺と表現することでそこに政治的意味合いを存在させてしまうことを恐れているかのようでした。

銃撃犯が、社会的あるいは政治的な効果を狙って犯した犯罪である以上、それを暗殺と呼び、テロと呼ぶことはグローバルには当たり前の表現です。しかし、多くの日本人はそれにどうやって対応したらよいのかを分からないまま、手探りでこの10日間を過ごしました。逆説的には、この国の政治の健全性を象徴しているのかもしれませんが、相次ぐ警察からのリークは、犯人の個人的な怨恨が原因の単独行動という文脈になるべく早期に押し込もうという誘因が働いているかのようでした。当初、メディアは旧統一協会という具体名を報じなかったため、報道機関以外の者は確証をもってこの問題について話すことができませんでした。もちろん不確かな情報は流布すべきでなく、裏取りが重要であることは論を俟ちません。しかし、知っていた人が報道において具体名の言及を手控えたのだとすれば、その一部の動機はこの国の事なかれ主義を表すものでしょう。言論と民主主義を不健全にしている要因であると同時に、社会の一体性を保持するための安全装置が発動されたかのようでした。

容疑者をめぐる事実関係と左右両極のご都合主義

事件から10日間が経って、犯人の供述に基づき警察が発表した動機と、その動機を形成するに至った容疑者の環境が明らかになってきています。容疑者の母親が旧統一協会に入信し、多大な寄付を行ったことをもって破産するに至ったこと。本人は、一定程度の教育水準を有していたこと。それにも関わらず、家族の崩壊に直面して経済的・精神的困難に直面し、結果的に定職にもつけず不本意な社会的生活を送っていたであろうこと、などです。

そして、本人の不遇は、旧統一教会への怨恨という形で結晶化されていきます。本人のものと報道されているツイッターのアカウントを見る限り、本人は安倍政権をときに好意的に受け止めている節すら見受けられますが、供述では安倍総理の暗殺を通じて旧統一協会への社会的非難を巻き起こすことを目的に犯行に及んだとしているというのです。事件をめぐって、検察は念のために精神鑑定を実施しているようですが、むしろ浮かび上がってくるのは、手製の銃の制作に(おそらく2年はかけて)のめり込み、入念に試射を行い、他会場の視察を行うなどといった周到な計画性でしょう。容疑者の心の裡はまだこれから明らかになっていくでしょうが、自身の不遇と旧統一協会への憎しみについて日常的に綴るかたわら、彼の中で銃製作が具体的なプロジェクト化しており、それが完成してしまったので一足飛びに要人殺害に踏み切ったという部分も大きかったような印象を受けます。

私が強い警戒心をもって見ているのは、国内における言説が、容疑者の意図に沿って進んでいるきらいがあることです。容疑者が、安倍元総理と旧統一協会との「結びつき」に基づいて犯行に及んだと供述していることにより、あたかも安倍総理の側に帰責性があるかのような言説が、一部の識者や公党の党首からも平気で行われています。もちろん、それらの言説のうちでも周到なものは、「暴力については非難するものの」という枕詞をつけることを忘れませんが。

安倍元総理が選挙期間中に白昼堂々と殺されたことではなく、むしろ、安倍元総理や自民党が旧統一協会と「結びつき」があったか否かが焦点であるかのような論点のすり替えが堂々と行われているわけです。仮に容疑者の身の上に同情できる部分があったとして、そのような身勝手な殺人の動機をまともに受け取ってしまえば、さまざまな怨恨による襲撃を促進してしまうとは思わないのでしょうか。それは治安を重んじる立場からすれば極めて問題を孕んでいます。

こうした主張は、暗殺の一報があった当初に、安倍元総理に対して口を極めた攻撃、時には暴力的な発言を行っていた左派政治勢力への批判が、右派から高まっていたことへの反転攻勢という文脈があります。つまり、左右両極の政治勢力は安倍元総理の死に対しても、自分達に都合の良いストーリーを探してマウントを取り合っているという十年一日の構図を繰り返しているわけです。

テロという言葉を嫌う日本のメインストリームの事なかれ主義と、故人へ哀悼や人間としての共感さえも政治的主張泥仕合に利用しようとする左右両極。今回もまた、日本の政治的言論空間の奇妙な二層性がいかんなく発揮されたと言えるでしょう。

戦後リベラリズムが守るべき一線

言論のレベルが低いというのとは別次元で危険なのは、「統一協会との結びつき」というレッテルを、批判対象の社会性を傷つける目的で武器化する言説が大手を振ってまかり通っていることでしょう。それは、あたかも20世紀中盤の赤狩りのリストのごとくであるのですが、その類似性に警戒心を向ける向きがあまりにも少ないのは何故でしょう?

統一協会とは、朝鮮半島に起源をもつ新興宗教であり、信者に対して、合同結婚式や極端な布施の強要を行うことで知られており、カルトとして多くの被害者を出し、社会問題化してきた存在です。その後、名前を変更し、友好団体と称して国際勝共連合、あるいは世界平和連合等の団体などとして国内外で分派化して活動を継続しています。問題の多い組織・団体であることは広く社会的に認知されています。ただ、日本国憲法下では、教義に基づき団体を裁くことは困難という建前があり、これまでは詐欺に当たるような商法などが、個別具体的に取り締まられてきました。

事態を複雑にしているのは、旧統一協会が反共のイデオロギーと絡まることで歴史的に反共主義を共有する自民党との関係が強かったということでしょう。反統一協会の社会運動や、被害者やその家族の支援を続けてきた者達は、旧統一協会が資金や運動員の派遣を通じて自民党との関係を強化していったと証言しています。問題の多い団体の支援を受け、そこに社会的正当性を与えていたことは、道義的責任を免れ得ないものでしょうし、今後改められるべきものでしょう。

他方で、日本国憲法の下では、信教の自由を掘り崩すような展開には慎重でなければなりせん。そもそも、カルトと通常の宗教を峻別する絶対的な方法論は存在しません。各国の例を出すまでもなく、宗教というのは政治的アイデンティティーへとつながる主要な要因の一つです。長らく、ドイツの保守政治を担ってきたのはキリスト教民主党であるし、米国共和党の屋台骨を支えるのは福音派キリスト教徒達です。

日本でも、仏教系、神道系、キリスト教系等の様々な宗教団体が政治的活動を展開しています。日本国憲法は、戦前の失敗と米国リベラリズム流の宗教的多元主義の原則に則っており、他者の信教の自由を害し、あるいは行政と宗教を分ける政教分離の原則に反しない限り、信教の自由を尊重するというのは戦後リベラリズムが守ってきた一線なのです。

冷戦期の亡霊たち

統一教会には、カルトと政治との関係というよりも、もう一段深い歴史的文脈があります。朝鮮半島における反共イデオロギーと日本の一部保守が結びついた歴史を背負っていることです。朝鮮半島や大陸を舞台に展開した日本の植民地経営は、1945年の大日本帝国の崩壊をもって清算されたはずでした。日本のみならず、欧州の植民地経営や帝国経営においてしばしば見られる現象ですが、本国の秩序や序列から離れた富や権力を生じ得るものとして特殊な影響力を手に入れることがあります。

安倍元総理の祖父であり、統一教会との関係を構築した岸信介元総理は、戦前の大陸経営の中心人物であり、戦後も、台湾の蒋介石政権や、韓国の朴正煕政権との重層的な関係を有していました。それは、米国が反共的意味合いを込めて支援した結びつきでもありました。ソ連、中国、北朝鮮において展開された共産主義に基づく悲劇を考えるとき、敵の敵は味方との論理には一定の説得力があり、政治的・宗教的勢力と関係を取り結ぶことを正当化し得えた時代背景があったのだろうと思います。

反省すべきは、その子孫たちが政治的現実の中で、問題ある宗教団体との関係を清算できなかったことでしょう。そこには、国益を守るために厳しい判断をせざるを得なかったかつての世代の緊張感とは違った、選挙の利害のために原理原則を曲げたご都合主義が感じられるとするのは言い過ぎでしょうか。とはいえ、人気稼業として様々な団体に無節操に愛想を振りまく政治家の活動の一端を取り上げて、あれもこれもと壮大な陰謀論に仕立てるような針小棒大な言説は好ましくありません。容疑者のものとされるツイッターのアカウントが、産経新聞デジタルが掲載した「美しい日本の憲法をつくる国民の会」にビデオメッセージを寄せる安倍総理(当時)の写真を見て、そのイメージから「統一協会」が浸透していると短絡的に結び付けたように、陰謀論とはファクトよりも直観に頼る態度なのです。

あらためて、先進各国において冷戦が終わり、むしろ、ロシアのウクライナ侵攻によってポスト=冷戦が終わろうとしている時代に、未だに冷戦の亡霊たちを引きずっている日本政治の特異性を突きつけられる思いです。防衛費の水準や具体的な装備や訓練のあり方などの現実的な安全保障論議が、結局は憲法論議の神学論争に回収されてしまうことに表れている、今なお日本政治を支配する冷戦の亡霊たちの存在感の、いかに強いかということでしょう。

 国葬によるサイレント・マジョリティーの統合

岸田総理は、秋に国葬をすることを発表しました。早くも賛否が広がっています。望みは薄いのかもしれないけれど、国家のために長年尽くして、選挙戦中に銃弾に斃れた人物に哀悼の意を捧げる機会にできないものでしょうか。国家の存在を重視する者は、内閣総理大臣という職責を長期にわたって担ったということを重んじられるでしょう。米国などでたびたび口にされる、“respect the office, not the man”(個人ではなく、職責を尊重する)という感覚は日本には乏しいのかもしれませんが。

もとより、政治家の貢献を顕彰することは、その政治家の足らざる部分を免責することを意味しないし、人間としての足らざる面を有していたことは、顕彰に値することを妨げるものでもありません。安倍元総理は、不完全な現実を生きた政治家として、その成果も現実の制約を受けています。半ば無理と分かっていても、安倍元総理の国葬が、左右両極の極論を排して、サイレント・マジョリティーの統合と落ち着きに資することを期待しています。

By Getty Images (Yuichi Yamazaki)