山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

死ぬなら一人で…論争に思うことーー川崎登戸殺傷事件&農水省元次官息子殺傷事件

2件の深刻な殺人事件が起きました。細かく説明する必要はないでしょう。カリタス小学校の児童と保護者を襲い、犯人が直後に自殺した事件と、それに触発されたとおぼしき、家庭内暴力を振るっていた息子が世間に迷惑をかけないように殺害したと供述している農水省元次官による事件です。

ここで、人の手にかかって亡くなった方々のことを振り返ってみましょう。外務省職員の小山智史さん。ミャンマー語スペシャリストで、カリタス小にお子さんを通わせている保護者でした。小5だった栗林華子さん。こんな小さな女の子が犠牲になってしまいました。そして、父親に殺された熊沢英一郎さん。加害者は、岩崎隆一(自殺)と熊沢英昭(逮捕)の両名です。

不条理が突き動かした人々の怒り

こうして名前を並べて見たとき、まず私たちは自分たちを襲うかもしれない「不条理」に胸を衝かれます。親として目を行き届かせ、安全に通学させていたつもりだったのに、子どもが見ず知らずの大人の凶刃にかかって殺される。朝、子どもを送っていってくれた夫が、通り魔に刺されて殺される。通り魔殺人は憎んでも憎み足りないほどの凶行であり、我が身がその犠牲者の家族であったならばいかばかり苦しむだろうか、と容易に想像ができます。

周到に準備をしていくつもの凶器を携えた殺人者による短時間での犯行は、どう見ても防ぎようがなかった。なのに、どうにかして防げたのではないかとつい思ってしまう。私たちの胸はショックで引き裂かれ、溢れ出た感情は何か別の隘路、理性的な説明を探し求めます。

そのひとつが、加害者が犯行に及んだ真の動機であり、もうひとつが何らかの人間関係のような脈絡です。しかし、この場合、犯人は自殺しており、ネットの事前予告や遺書、動機などの書き込みなどもないとみられ、まるで手掛かりが得られない。そして、快楽のために殺人を繰り返す愉快犯であったようにも見えない。後者に関しては、幼い時に両親が離婚してから叔父・叔母に引き取られ、孤立した少年時代を送ったといわれる岩崎容疑者のいとこ2人がカリタスに通っていたという事実が明らかになりました。これがかろうじて脈絡を構成しうるのかもしれないのですが、だからといって被害者たちはまるで加害者と面識がなく、たとえば良く言われる「痴情のもつれ」とか「親子間の憎しみ」といった人間関係で説明することには無理があります。この時点で、私たちの感情は行き場がなくなり、どうしても理解できないこの凶行の前で、ただ立ちすくみます。

そこで、最後にほとばしるような怒りの言葉として多くの人から発されたのが、「死ぬなら一人で死んでくれ」だったわけです。どうしようもないから、怒りの持っていき場がないから、自死を選んだ犯人に問うても答えがないから、せめて、巻き添えにしないでほしかった、という心の叫びなのでしょう。これは、発している本人たちからすれば、刃に晒された「弱者」の側の叫びのつもりで言っているのです。朝穏やかに、バイバイ、と挨拶をして家を出た愛しい家族がそのような目に遭ってほしくないから、丸腰の自分たちは身を守ることができないから、と。

「一人で死んでくれ」への批判

それに対して、幾人かの活動家や専門家から非難の声が上がりました。

死ぬなら、という前提付きだとしても「死んでくれ」というのは穏やかではない。むしろここまで孤立に自らを追い込み、あるいは追い込まれた犯人をその手前で引き返させる手段が必要だったのではないか、という意見。「引きこもり」に過度に注目した報道と併せ、孤立した人はあたかも他人を自殺の巻き添えにする願望があるかのような印象操作に繋がる、という意見もありました。あるいは、たったいま孤立し、自殺願望に囚われている人にとって、「一人で死んでくれ」という言葉が突き刺さってしまい、自殺を誘発するのではないか、という意見もありました。最後の自殺誘発を懸念する意見については、今回の殺人とはまったく無縁の「弱者の声」として立ち上ってきたものだということには注意が必要でしょう。いま死を考えている人にとって、世間の「一人で死んでくれ」コールは最後の綱を断ち切る作用があるかもしれない、ということです。

いずれも、もっともな意見です。もちろん、世間の感情からすれば、先ほどの表現が自然に湧いてくるのだろうけれど、精神ケアの専門家はまた別の角度から警鐘を鳴らさなければならない。引きこもりに対する偏見も諌めなければならない。そして、「ある種の弱者」を代表する活動家からすれば、その具体的な弱者にスポットライトを当てるのが彼らの仕事だから、こうした意見が出るのは当たり前のことです。

とりわけ今回憂慮すべきは、「引きこもり」に関心が注がれた結果、世間に迷惑をかけるな、家庭の中で問題を処理しろという古くからある社会規範が、その次の事件で熊沢(父)を凶行に駆り立てただろうことです。彼は、家庭内暴力を振るう長男とひとつ屋根の下にいて身の危険を覚え、息子が殺人を犯すのではないかという懸念を持ったという。けれども社会的な支援は得ておらず、頼るべき相手を持たない中で凶行に走ってしまった。追い詰められていたことは想像に難くありませんが、だからこそ明らかに判断能力を欠いた短絡的な犯行といえます。家庭内暴力をどうやって止めるか、というところにもう少し彼が支援を得られていれば、殺人にまでつながらなかった可能性があります。

さて、ここではじめて、世間の多くの人が追い詰められた容疑者の苦しみに共感する余地が生まれ、もし自分の息子が殺人を犯しそうな兆候を示したらどうしようか、と自分事化しだしたと言えるでしょう。それまでは、「外部」の人間でしかなかった、引きこもりや家庭内暴力を振るう息子といった問題が、殺人に走ってしまった父親に対する同情を通じて「我が事化」されたからです。

世間の感情の動きに初めから完璧を期待することはできません。個々が覚える怒りを表明することも精神的には必要だし、バッシング合戦というよりもこうやって意見が交わされることで議論が進むのはいいことです。凶行を恐れる多数の「弱者」としての世間の視点に対して、孤立しているほかの寄る辺なき「弱者」を偏見から守ろうとする別の意見が出てきた。専門家による家庭内暴力への対処に関するアドバイスも出てきました。問題は複雑であり、簡単に解決ができない、けれども何をすべきでないか、何をしたらいいかを教えてくれる大事な見方です。

個人的な意見としては、世間からまず出てきた「死ぬなら一人で死んでくれ」という言葉をことさら悪意に解釈する必要はないと思います。人にはそれぞれのストーリーがあります。人々は好ましくない意見に対してはすぐに「強者の鈍感さ」レッテルを貼りがちですが、例えば反感を呼びがちな有名人として「お前の子を殺すぞ」という脅迫に日々晒されてきた人の気持ちを自分は分かるだろうか、といったん胸に手を当ててから、穏やかに反論してほしいなと思います。目的は物事の理解がだんだんに深まることであって、攻撃し合うことではありません。

そして、誰しも我が身と我が子の方が他人様よりも可愛いのは当たり前です。世間から冷たさを完全に取り除くことはできません。色々な意見が出てきてこそ、私たちは社会を自省的に顧みることができるのです。おそらく今のところ、この論争は落ちるべきところに落ち着きつつあるのではないかと思います。

なぜ私は発信しなかったか

私はというと、このニュースをその日の夕方の報道枠で取り上げたときも、親としての恐怖や哀悼の意以外に特段コメントはしていません。そして、「死ぬなら一人で死んでくれ」とは言いませんでした。大量殺人をしようとする犯人にそんなことを言ってもおそらく通じない。彼自身、社会的注目を引きつけることを重々承知の上で、それを望んで事件を引き起こしたのだろうと思います。遺族の行き場のない怒りの表現としてはおそらく正しいのだけど、私がそんなことを言っても仕方がないからです。

新著『孤独の意味も、女であることの味わいも』に書いた通り、私は殺されると感じたこともあるし、その後、何度か自殺を考えたことがあります。自分が生死の際をさまよった人間からは、そういう表現が多分出てこないのです。それは倫理的とかそうでないとかではなくて、単に生死をめぐる真実を体験してより多くを知っているというだけのことなのです。いまわの際に言えるのは、大抵、ただ、どうか殺さないで、ということだけ。

孤立して自分を弱者だと感じていだであろう岩崎。引きこもりを心配した伯父伯母に腹を立てたという彼は、包丁を2人の被害者に突き立てた時には、命を奪う強者だった。世の中には完全な弱者も完全な強者もいません。確実な真実性のある言葉は、殺さないで、という一言だけです。

(*本記事は6/5付の公式メールマガジン三浦瑠麗の「自分で考えるための政治の話」から抜粋編集したものです。写真は娘が最近オフィスの壁に描いた絵。)

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