山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

沖縄県知事選とアメリカとの付き合い方(1)

 沖縄県知事選が始まっています。実際の沖縄県民の空気はいろいろだろうと思いますが、中央のマスコミが切り取る限りにおいては、普天間から辺野古沖への基地移転の是非が主要な論点のようです。こじれにこじれ、言い尽くされた感のある論点ではあるのですが、知事選によせて、どうしてこんなことになってしまったのか考えてみたいと思います。

 まず指摘すべきは、次元の異なる問題を十把ひとからげに論じてはいけないということでしょう。沖縄問題の一つの側面は、他国との合意事項がいつまでたっても実行できず、基地の再編という国家レベルの問題が、立地する自治体の選挙と言う形で問われていることです。これは、日本という国の政策決定過程と実行力に関わる問題であり、広くガバナンスの問題です。もう一つは、日本の安全保障をどのように捉え、その中で欠くべからざる要素であるアメリカとの同盟関係のあり方をどう考えるかという側面です。こちらは、戦略や理念をめぐる問題です。これらの二つの次元は、もちろん相互に連関して影響しあっていますが、ごっちゃにしていると変なことになりがちですので、一つずつ丁寧に論じないといけません。

 ガバナンスの問題の本質は、現行案の普天間移転が合意されてから10年以上が、同問題の政治的発端であった沖縄少女暴行事件から20年近くがたとうとしているのに、いまだに普天間を移設できるかが論点であり続けているという点です。この原因は、もちろんいろいろあります。

 まずは仕組みの問題が大きい。例えば、埋立てを許可する権限は知事が有しており、現職知事がその許可を出したからこそ基地問題が知事選のテーマとなってしまうわけです。少し考えれば、これは現行制度の中でしか考えられない官僚的な課題設定と言わざるを得ません。普天間基地の移設は、安全保障の要請と基地の安全性とをどうやって両立させるかという問題です。沖縄の知事や市長達は安全保障に責任を負う立場にありませんから、この判断は国の責任で行わなければいけないのです。

 日本の地方自治制度は、それこそ箸の上げ下ろしまで国がコントロールするのに、肝心の難しい判断は知事に押し付け、対立を押し付けていることがおかしいのです。住民から見れば、基地はごみ焼却場や火葬場よりさらに、嫌に決まっています。それを論点として聞くのだから、反対を抑えるためにへんな利権を生みます。もちろん、基地の影響を実際に受ける国民の民意を汲み取る仕組みは必要です。民主主義国同士の成熟した同盟においては国民の支持が不可欠ですから、国に民意を最大限尊重する責任があるのです。私自身、徹底した地方分権論者ですからあらゆる権限をどんどん地方に移譲していくべきと考えていますが、それでも、安全保障は最後まで国に残るべき領域です。

 しかも、多くの沖縄の方にとって基地問題アイデンティティーの問題です。アイデンティティーの問題は利権では解けません。構造は、原発問題とそっくりです。原発では、安全の問題を利権で解こうとして失敗しました。安全と利権を対立させるから利権を持つ人々が安全をないがしろにするようになるのです。利権とアイデンティティーを対立させると、だんだんとアイデンティティーがないがしろにされていきます。それでも、沖縄にとって反基地のアイデンティティーが根強いので、特に保守陣営の政治家は板挟みになって苦労します。中央で国家レベルの意思決定をすべき政治家や官僚がリスクを取れないために、有望な沖縄の政治家を幾度も切ってきたという悲しい構図です。

 反対する側にも問題があります。政治的な闘争において、最後まであきらめないというのは強いのです。対立する側は、相手が絶対にあきらめないと思えばふつうは妥協的になるからです。沖縄問題の難しさは、この構図が悲劇を生む原因でもあることです。基地に反対する運動家の中には、残念なことですが、沖縄の悲劇が続いた方が自分たちの運動に都合のいい人たちがいます。彼らは多数派ではないので政治的なゲリラ戦を展開し、民主主義の各段階で反対を煽り、実現可能性が不透明な代替案を提起します。その間、普天間の危険は温存され、事態を進めるために必要な利権の規模も大きくなってしまうのです。

 この問題が長引いている原因の一つは、あいだに民主党への政権交代の時期を挟んでいるからであり、しょうがない部分もありました。「最低でも県外」という主張は新しい政治を予感させ、政権交代の一つの原動力でした。鳩山政権のナイーブさには、リーダーとしても、実務者としても同情要因は少ないけれど、一国の総理が看板政策として掲げたのであれば、是が非でも実現してくださいと思うわけです。当時、アメリカは民主党政権を値踏みしていて、米側の官僚や軍人は技術的問題をあれこれ持ち出しました。民主党政権は官僚機構を使いこなせておらず、反対しているのが米政権の中枢から来ているのか、日本担当の現場の官僚主義なのか判断がつかなかったのでしょう。身内がサボタージュしていると思ったなら、担当者の首を全員挿げ替えてでもやればよかったわけですが、それもしませんでした。日本は、歴史的な政権交代という好機を生かせなかったのみならず、合意しても実行できない(can’t deliver)人々ということになってしまった。

 オバマ政権と相性がいいかどうかはともかく、安倍政権自民党の保守の本格政権です。そんな政権にとってさえ、沖縄問題は難しいらしく、政権の仕事師である菅官房長官が自ら取り仕切っているようです。かつての小渕首相にせよ、額賀防衛相にせよ、沖縄問題が動くときには大物のコミットメントが必要だというのは事実です。政治は、最後は人間対人間ですから、官房長官のコミットメントには頭が下がりますが、このやり方にはどう考えても持続可能性がない。官房長官に何かあったら、また、10年とまってしまうのでしょうか。

 日本の決められない政治の一面は、良く言えば権力運用の抑制主義であり、普通に言えばリーダーシップの欠如です。沖縄問題が解決できないのは、デフレから20年間脱却できず、崩壊が見えている社会保障を改革できないのと同じ先送りの論理です。これは、一見やさしいように見えて実はとても残酷です。そこに関わる人々の人生の時間を費消させているからです。沖縄の基地の70年の歴史は、戦争の負の遺産であり、冷戦の負の遺産という側面があります。しかし、70年のうちの20年については、日本政府の実行力のなさによってもたらされている悲劇だとすれば、それはだれのせいにもできない我々世代の責任と言わざるをえないでしょう。

 次回は、この問題のもう一つの側面であるアメリカとの付き合い方について書きたいと思います。

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