山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

北海道新聞に寄稿しました。

北海道新聞の10月24日付朝刊、各自核論の欄に寄稿させていただきました。

以下、記事本文を転載します。

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「積極的平和主義」を考える

自民党の政権復帰から約2年、安倍内閣は積極的平和主義を掲げて活発な外交を展開してきた。アフリカ、南米、南アジアなど、これまで日本外交が軽視してきた地域を積極的に訪問して関係強化に努めたことは評価すべきだろう。各国での歓迎ぶりは、日本が地道に行ってきた息の長い援助や、日本企業の好印象とも相まって日本への評価を物語っている。新興国の存在感が増す世紀に、今蒔いた種はやがて大きく育っていくことだろう。

他方、集団的自衛権行使を認める解釈変更や、武器輸出の一部解禁なども積極的平和主義の文脈に位置付けられており、国民の中に懸念を覚える層が存在するのも事実である。

積極的平和主義を理解するにあたって念頭に置くべきは、それが一国平和主義のアンチ・テーゼであるということだ。戦後の日本は70年にわたって平和を享受してきたが、それがどのように達成されてきたかについては多様な理解が存在する。憲法を頂点に、非核三原則や武器輸出三原則など、一国としての日本の行動を重視する立場もあれば、米国の同盟国として沖縄の基地や核の傘の存在が大きかったとする立場もある。中国やロシアの領空・領海侵犯に対処してきた自衛隊海上保安庁の現場の努力を評価する向きもあるだろう。

多様な理解があっていいのだが、問題は、国内の左右対立があまりに激しかった結果、安全保障については建設的な議論ができなくなったことだった。リベラルは、外部環境や脅威認識の変化に対しても観念論や法律論を繰り出し、政権の現実主義者はガラス細工のような解釈論を打ち立てることでその場をしのいできた。昨年末に閣議決定された国家安全保障戦略は、この不毛な対立構造をいったん解きほぐし、安全保障をめぐる基本的な考え方を示したといえる。その画期性は、安全保障をめぐる環境認識や、彼我の能力について建設的に議論する土台を作ったことといえよう。同戦略の文書には、平和国家としての歩みや、国際協調主義が謳われており、多くが賛同できるものではないだろうか。安全保障に関心のある方はぜひ一読をお勧めしたい。

しかし、過去の不毛な対立から一歩踏み出せたということは、同時に、日本が岐路に立っているということでもある。そこで、未来への警句という意味で、積極的平和主義に内在するリスクも指摘しておきたい。

一言でいうと、中国を意識しすぎているということだ。これは、日本外交の悪い癖だ。かつて、日本外交には何にでも日米関係の文脈があった。日ソ、日韓、日中の国交回復から、石油ショックへの対応、アジア通貨危機への対応、拉致問題への対応に至るまで、日本外交の重要な局面では過剰なほど日米関係への意味合いが重視されてきた。これが、中国に変わりつつあるのだ。

政府の環太平洋連携協定(TPP)推進には日米主導で環太平洋の貿易秩序を形成しようという目的とともに、中国封じ込めの意図も垣間見える。各国への総理の訪問も多分に中国を意識しているだろう。東南アジア諸国連合ASEAN) や韓国との関係は、特に中国と影響力を競い合うという意識が強い。韓国がしだいに中国寄りのスタンスをとるようになると、韓国と向き合わずに日中関係の展開次第で韓国はついてくるだろうとタカを括る。ナショナリストで固められたはずの現政権が、皮肉にも積極的に中国中心の世界観で動いているようにさえ、見えてしまう。

日本外交のこのような傾向は、二つの意味で問題といえる。一つは、世界はアメリカでも中国でもないという当たり前のことを見失いがちなことである。雑念が入って、それぞれの国と真剣に向き合わなくなるとともに、日本は中国を意識させれば妥協するだろうと足元を見られかねない。もう一つは、他国も同じくらい中国を意識していると勘違いしてしまうことだ。特に危険なのが対米関係である。アメリカにとっても中国の存在は大きい。だが、それは日本にとってのそれとは比肩し得ない。オバマ政権は、アジア太平洋重視を掲げているが、ウクライナイスラム国での危機の結果として、従来の欧州重視、中東重視へと回帰しているようにも見える。

最近の中国は、米国に対して「新たな大国関係」を結ぼうと盛んにアプローチしているようだ。これは、わかりやすく言えば、西太平洋における中国の優越を認めろということに他ならない。日本からすればそんなことは考えられないだろうし、アメリカも、今のところ取り合ってはいない。しかし、将来のアメリカが、「まあ、しょうがないか」と考えない保障はどこにもないのだ。誰もが、自国と同様の対中脅威認識を持つとは限らないし、また必然性もないということは理解しなければならないだろう。

世界では、積極的平和主義という用語から当然に想起されるイメージは、民主主義や人権等の理念に基づく紛争介入に積極的な、リベラルなタカ派である。平和を、自国が武力行使しない状態として定義するのではなく、必要とあらば武力介入することで世界をより平和に向け前進させようという発想を持つ人々のことだ。欧米では、これらリベラルなタカ派と、伝統的な安全保障観に基づき紛争関与に消極的な保守派が対峙しているのが実情である。冷戦終結と相互核抑止の力学によって、主要国間の全面戦争が観念しにくくなった一方で、不安定な地域における紛争の激しさと人道的な悲劇の度合いが増しているからだ。

安倍政権の思想的傾向からすれば、本来は、国防費は増やしても武力行使には慎重なスタンスの方がしっくり来るといえる。しかし、総理は各国を訪問して日本は積極的平和主義だと述べている。民主主義や人権の価値観は、一党独裁を続ける中国から日本を際立たせる論点であり、積極的平和主義には、そのことのアピールという側面があることは否定できないだろう。

世界には、目を覆いたくなるような圧政や人道的悲劇が存在し、中には武力を持ってしか防ぎようがないことがある。だからと言って、いまの日本社会には、そこでの平和のために犠牲を払う準備はない。戦後の安保論議を主導してきた一国平和主義を否定したいからと言って、準備も覚悟もできていない、積極的平和主義に踏み出すことには危うさが伴うと言わざるを得ないのではないか。