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山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

戦後69周年「識者評論」より転載(共同通信社への寄稿)

終戦記念日特集で、共同通信社に評論を寄稿いたしました。

8月13-15日にかけて各地方紙に載った内容のオリジナル版を以下に転載します。

「死者を悼む」

本日8月15日は、お盆であり、終戦の日として、二重の意味で祈りの日である。今年は、その日を安全保障環境の変化と集団的自衛権の行使容認という政策変更を経て、常になく騒がしい環境で迎えている。残念なことだが、近年の終戦の日は、祈りというよりも不信や憎悪の日であり、左右対立の不毛さが際立つ日となってしまった。左派は、旧軍や国家に加害責任を求め、祈りを捧げるべき対象は国内で戦災にあった国民やアジアの民とした。右派は、父母や祖父母の犠牲を尊重することを求め、我々が第一に祈るべき対象とした。戦争をどのように捉え、終戦の日をどのように迎えるかは日本の国内冷戦のもっとも先鋭化された対立点であり、今日に至るまで国民を分断する論点である。そんな中、死者を悼む心は、現在の政治的な敵を憎む心に覆い隠されてしまったかのようである。

敗戦国の国民である我々は、加害者でもあり、被害者でもあった祖先の苦しみ、人間性の矛盾と向き合う立場にある。戦争も、人間も白と黒では分かちがたいということに気付きやすい土壌に本来は生まれてきたともいえる。戦争を研究する過程で、各国の戦争の捉え方に多く触れてきたが、戦勝国を中心にいまだに単純な戦争観が覆っていることには愕然とする。彼らが語り継ぐストーリーが、戦争の本質や人間性の本質から目を背けさせているのである。命令を受けて不正義を行った兵士にも哀しみがあることは、近年のイラク戦争や、今日のウクライナやガザの紛争においても変わらぬ真実だろう。であるからこそ、日本人にとって、終戦の日の祈りは、まずもって戦争や人間の複雑性や哀しさをそのまま引き受ける日でなければならない。

加害者であり、被害者でもあるという矛盾は、なにも過去の戦争の文脈に限ったことではない。我々は、海外派兵される自衛隊員や、福島の原発で困難な作業に勤しむ職員に対して十分な共感を寄せているだろうか。我々の豊かな生活を支えている外国人や非正規などのより苦しい立場にある人々に対してはどうか。69年間戦争をしていないからといって、戦後世代が無謬性を保っているというのは誤りである。戦争という狂気を可能とした、圧倒的なコンパッション(=共感)の欠如は現在につながる人間性の欠陥である。終戦の日は、我々がその克服に向けた決意を新たにする日でもあるべきなのだ。

祈りが穏やかでないいま一つの理由は、それが現在の責任論と結びついているからである。そこには、70年前の人道的な悲劇が現在の国際政治の生々しい取引材料となってしまっている現実がある。難しいのは、私の世代は、戦争を知らない世代に育てられた戦後三世代目であり、本質的には戦争の責任を観念し得ないことである。個人の自由意思を尊重する立場に立てば、70年前の不正に真正な責任を感じることができるとは思わないし、真正な責任感を伴わない謝罪には、方便としてやっている不道徳さが宿っている。戦争の悲劇を悲しみその不正義を憎むということと、責任を負うということとはまったく別である。

とはいえ、日本人が忘れるべきでないのは、アジアの人々の怨恨は本物であり、それを癒すにはもう1~2世代かかるだろうということである。我々は、本質的に死者の責任を負うことはできないが、子孫の未来には責任を負っている。近隣諸国との間にいまだ癒されない怨恨があり、対応すべき人道的課題があるならば、政府の公式見解にかかわらず、我々は未来への責任においてそれを引き受けるべきなのである。

終戦の日の祈りは、過去に思いを馳せつつも、現在の不正や犠牲から目を背けず、より良い未来を創るための共感の祈りであってほしい。幼子の母として、私には父母から受け継いだ世界を少しでも良くして娘に引き継ぐ責任がある。不信を乗り越え静かに死者を悼むことは難しい。しかし、いまを生きる者を慈しむことはもっと難しく、我々にとって真の試練である。