山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

共同通信社/加盟49社の論説研究会で講演しました

 一昨日(5月26日)、共同通信社と加盟新聞社計49社の論説担当責任者の論説研究会(於共同通信社本社)で、「『シビリアンの戦争』と『共和国による平和』」と題して招聘講演を行わせていただきました。

 冷戦終結後この方、世界大での民主化が進展し、また権威主義体制下においても民意が外交安保政策に大きな影響を与えはじめている今、内政と外交とのかかわりをどのように考えればよいのか。目指すべき民主主義の在り方とG0(ゼロ)の世界における日本の政策ビジョンはどうあるべきかについて論じました。

現代という時代認識

 はじめに、現代という時代認識を考えるにあたって一番重要なことは、大戦争の時代ではなく、大戦争が主要な脅威ではないということです。総動員型の二回にわたる世界戦争が終結し、キューバ危機の収束と相互核抑止の比較的安定を経験したことで、冷戦中からすでに大国間では熱戦が起きない状態が生じていました。米ソ和解とソ連の崩壊、東側陣営の解体によって冷戦が終結すると、二極対立そのものが終わりを告げ、その後は地域紛争や非国家集団、大量破壊兵器の拡散問題に目が向けられるようになっていきます。

 ところが、限定戦争のエスカレーション可能性が減じたことで、却って米国を中心とする力あるデモクラシーに課せられた抑制が解き放たれるという事態が生じました。米国の指導者に課せられていた、核戦争に発展させてはならないという心理的抑制のタガが外れてしまい、同時に国内政治において、人道的介入を求める圧力がメディア・知識人を中心に高まっていったからです。そのような中で、湾岸戦争において軍の最高幹部であったコリン・パウエル統合参謀本部議長クウェート解放のための戦争に懐疑的であったことがメディアへのリークによって暴露され、「戦いを渋る兵士」(reluctant soldier)として、民主主義に基づくシビリアン・コントロールの観点から批判を浴びるようになります。前のめりの政治家に対する軍人の抑制的な意見に、世論からの共感ではなく、むしろ非難が寄せられたということが興味深い点です。

 現代の民主主義国家による戦争の本質は、伝統的に国際政治学が取り組んできた政府間の不信によって起きる不幸な現象というよりも、むしろ避けるための外交の余地が少ない、あるいは意思がない戦争であるといえます。また、国内の観点からは、文民が主導し軍が反対する「シビリアンの戦争」が支配的になったことで、これまでの知的伝統に反する現象が観察されます。

 シビリアン・コントロールは、戦後日本では戦前の軍部の暴走の経験を踏まえ、金科玉条のように受け止められてきました。アメリカでは建国の当初から常備軍を国王の軍隊というイメージでとらえ、権威主義的な要素として忌避する傾向が強く、そのためもあってシビリアン・コントロールが重視されてきました。しかし、実際に現代のわれわれが目にするように、威勢のいい発言をする政治家に比してしばしば軍や自衛隊のメインストリームの勢力が慎重であることはけっして稀なことではありません。

シビリアンの戦争の課題意識

 私が拙著『シビリアンの戦争』(岩波書店、2012年)に至った課題意識は、きわめて現代的なものでした。イラク戦争で数千人単位の戦死者を出しているアメリカ本国で、戦時であることが明らかでない、豊かで変わりのない日常が送られていること、誰かほかの人が行ってくれる体感コストの低い戦争の姿がありました。もちろん「贅沢は敵だ!」のスローガンのように動員を伴う精神主義がよいとは思いませんが、素朴な違和感があったのも事実です。

 イラク戦争は軍を挙げての大々的な戦争批判が繰り広げられた戦争でもありました。政治的発言と見做される危険から発言に関して課せられる制約が大きい現役軍幹部に代わり、退役将校が戦争の必要性やコスト見込みに対して大っぴらに懸念を表明するという事態も生じました。

 これまで、民主主義の拡大は平和に繋がるのかという問題意識に対して学界では様々な学説が唱えられてきましたが、民主主義が持つ自画像に必ずしも合わないような戦争がたびたび目撃されてきたことは事実です。指導者による開戦決定の裏には反功利主義的な世論の存在があり、それを支えているのは不平等な軍務負担による自分事としてコストを捉えない態度でした。アメリカの行った主な戦争における動員人口比を見てみると、独立戦争米英戦争、内戦としての南北戦争、第一次、第二次世界大戦を例外として戦場に動員された人の人口に対する割合は2%を下回ります。冷戦後の武力行使に至ってはどれも1%に満たないのです。しかし、我々の戦争観や市民観はいまだに世界大戦の時代の経験に強く影響されており、市民は戦争に動員される対象であるから平和的なのだという言説が流布しているのです。

シビリアンの戦争の歴史的条件

 さて、そのような「シビリアンの戦争」という現象は一体どのようにして生じたのでしょうか。「シビリアンの戦争」という現象は時代を超えて存在してきたものであり、古くは英国のクリミア戦争参戦にまで遡れるものです。拙著で、私は「シビリアンの戦争」が生じる歴史的条件を考察しました。民主化、統治の安定、国民の政治的動員と参加、軍のプロフェッショナリズムです。これらが整うことで自由主義化から民主化へと繋がっていき、またすべてが揃って初めて民主主義が根付いたと評価できるようになるのです。

 ところが、民主化権威主義体制の下の指導者と異なり、観衆の拡大をもたらし、また政策決定に民意が反映されやすくなります。殊に戦争に関しては民意が関与していない場合は稀です。民意に支えられた指導者が決定した戦争は、例えその成果や必然性が疑わしくとも、指導者個人のみに責任を被せることは難しいといえるでしょう。また、失敗した戦争により選挙で罰を受け再選されないことはあっても、およそ安定した民主主義国では指導者は命の危険までを負っているわけではありません。むしろ戦争をしないという決断によって民意に罰せられることもありえます。さらに、軍が安全保障に特化した専門集団になり、シビリアン・コントロールに服することによって、指導者はクーデターの危険がから自由になるばかりか、自らの決定した政策に軍を従わせることができるようになります。軍と民が分断されていることは、一般市民が軍の犠牲を必ずしも自分のものとして受け止めない傾向を生んでいます。つまり、換言すれば「シビリアンの戦争」とは民主主義が根源的に抱える問題なのです。

クリミア戦争ウクライナ紛争

 英国のクリミア戦争参戦は、当時自由主義化と軍のプロフェッショナル化が進展していた国による、シビリアンの戦争の萌芽の事例として興味深いものですが、昨今のウクライナ紛争対応への教訓としても興味深い点が数多くあります。1世紀半にわたるクリミア戦争研究の結果、学界では当時の帝政ロシアにも理があったということが定着しつつあります。ところが、現代の西欧世界においても当時と同じような過剰なロシア恐怖症が観察できますし、相手の側にも正義の動機があるかもしれないという想像力が欠如していることは大いに憂慮すべきところではあります。今回、西側諸国による「新冷戦」の演出は、戦争には至らずとも物事の極度な単純化に繋がる危険な思想です。また、国際法の原則、国家の権益、地域の安定、国内的正義、様々な要素が入り乱れる国際政治の世界で、正義を求める声が強くなりすぎたときには常に疑ってかかる必要があります。なぜならば、偽りのない権益を持たないときこそ、正義を求める声が強くなる傾向があり、それが非妥協的な戦争に決着してしまうことがあるからです。武力行使によって解決される物事はごく少ないことは覚えておく必要があります。

正しい戦争に対するテスト

 私はすべての戦争が正しくないものであるという立場は取っておりません。しかし、これまでの「正しい戦争」に対するテストとして課されてきた条件については、付け加えるべき原則があると思っております。戦争の犠牲、相手国の行った不正に照らして相当な判断かどうか、動機に悪が混じっていないかというような原則に加えて、志願兵制下であったとしても戦争に国家が国民を送り出すことは正しいのか。戦争を決断する人はその犠牲を払っているのかといった原則です。共同体が、意思決定者が、専門家が抑制的であって初めて兵士に犠牲を払わせる行為が許容されます。ところが、現状では国際的な議論と国内的な議論との分断によって、戦争に際して国際的な正義は議論されても、国内的な「血のコスト」の分担に関する国内的な正義は論じられることが少なかったといえます。

「共和国による平和」

 果たして解はあるのか、ということに対して、私は暫定的に「共和国による平和」という考え方を提示しております。現存の民主主義には、共同体として自由、平等、生存に関してある程度の保護を共同体の成員に及ぼす諸制度があります。ただし、戦争に伴う血のコストに関してだけは例外なのです。経済的コストで読み替えられるという指摘もなされるでしょうが、イラク戦争がそうであったように、経済的コストは常に将来世代に繰り延べられ隠ぺいされるものであり、また真の分担とは言えません。老壮や女性も含め、市民であるところの自分たちが行った開戦決定には常に召集される可能性がある、拡大された予備役制度のようなものを設けなければ、残念ながら今後もシビリアンの戦争を防ぐことは難しいでしょう。

 現代という時代認識に立ち返りますと、平和への道筋に関して私が持つ仮説は、次のような構造で説明できます。核抑止による大戦争の抑止の上に、国際秩序や国際法、国際組織による国家への制約、そしてそれだけでは防げない政府の攻撃的な政策決定を阻むものとして、共和国による平和が観念されます。しかし、長期的には市民の平和的選択を確保するものは個々人の利益であり、隣人に対する同朋意識です。したがって、「望まれたグローバリゼーション」というものが基層として存在します。すなわち、民主主義が浸透した世界にあっては、単に経済がグローバル化し国民経済が相互に依存しあう関係となるだけでなく、究極的な意思決定者たる市民がグローバル化に利益を見出し、受容する姿勢が重要であるということです。ここで重要なのは、これらの要素の積み重ねの上に平和が存続するということであり、どれかが他の要素を置換することはできないということです。

日本にとっての意味合い

 さて、これまで申し上げてきたシビリアンの戦争の問題意識ですが、日本には直接当てはまるわけではありません。それは、日本が戦後自らの軍備を制限し、同盟に頼った安全保障政策を行ってきたからです。日本は、自らの民主的な意思によって安全保障政策を決定するという権限を大幅に制約し、半ば放棄してきました。むきつけな言葉で言えば「自ら半人前になること」を選択してきました。結果として、現在でも、集団的自衛権等に関し行われている議論は、言ってみれば左右陣営双方の象徴性の亡霊をめぐる争いです。集団的自衛権にしても、非核三原則にしても、武器輸出三原則にしても、それを「変える」象徴性と「変えない」象徴性のせめぎ合いが行われてきたのです。日本の戦争と平和をめぐる議論のほとんどが、現実の事例や懸念に向けられるのではなく、象徴をめぐって争われてきたのは、日米同盟があったからでした。

 けれども、シビリアンの戦争に表出しているような構造自体からは、日本も自由ではありません。プロの影響力の低下、戦争に限らず災害対応でも平和維持活動でも自衛隊を道具としてみる人々の存在が左右双方の陣営に挙げられます。しかも、日本が位置している東アジアは冷戦の名残があり、また地域的な対立の火種が絶えない地域です。また、経済的相互依存の急速な進展が必ずしも平和をもたらしていないという逆説が語られている場所です。この逆説は、私見では日中・日韓の貿易量の増大が、必ずしも日本の市場において両国が十分に儲けを上げる状態にまで到達していないことと、その利益が国営企業や多国籍企業などに繋がっている少数の人以外の多くの民衆にまで実感されていないことによるものであると思っています。ここにも「望まれたグローバリゼーション」の実現に向けた平和への課題が残されています。

日本の平和のためにできること

 そのような中で、日米同盟に守られた特殊性が維持できるのでしょうか。現在ではG0(ゼロ)の世界に向かっていっているということが喧伝されているように、指導国を欠いた世界になるのではないかという見通しが語られています。そこでは複数の陣営が併存し、普遍的理念と功利主義地政学の論理が併存し、相手陣営を非難する偽善主義が拡大していくであろうことが予想されます。他方で、グローバル経済の統合は否応なく進みます。アジア経済が急速な成長を続ける中、歴史的な民主化が進み、権威主義諸国であったとしても役割を拡大しつつある世論が内政や外交に大きな影響を与えることでしょう。

 G0に向かう世界で、日米同盟は果たしてどのように変質していくのか。重要なのは、他の民主主義国の意思決定を我々は究極的には左右できないということです。国際政治において「帝国」と表現される勢力圏を持つ国が、同時に民主主義国であり、その国が撤退していった過程について、我々は英国の事例しか持ちあわせていません。英国では、経済力の低下と福祉予算の拡充が国防予算のドラスティックな削減を招きました。国防予算が減額されると、軍の中には必要なものの優先順位を選択する必要が生じます。真っ先に手を付けられたのは高価な新兵器の開発研究・調達費と人員、そして海外基地等の予算でした。政治家の選挙区の利害が絡む国内の基地や、将校の数、本体となる防衛力を切りたくないため、そうするしかなかったからです。この過程を通じて、政府がスエズ以東からの撤退を宣言するはるか前から、事実上の撤退は行われていたのです。

 我々がすべきことは、米国民がいかなる決定をしようとも、対応できる体制を作っておくことです。それは、同盟に関してはプロ同士だけでなく国民意識レベルでの同盟の強化に努めることであり、プロや民衆を含めたグローバルな民意の心を掴まえて日本の生きるスペースを創出するために積極的に働くことです。そして、国内の民意とプロの意見とをともに取り入れつつ、日本として正しい武力行使の条件を厳しく定義することです。民主主義においては、国際法に則っているということだけでは武力行使の理由としては不十分であることを強調しておきたいと思います。国内的な正義、すなわち、犠牲や負担に極端な不平等が存在しないことも重要であり、そうであるからこそ、平和的な意思決定につながる可能性が高まるということです。

 最後に、グローバル化においてはアジアに対する真の門戸開放を重視し、日本の輸出の後押しだけでなく、日本で各国に儲けてもらうことが、望まれたグローバリゼーションとして、真の平和と共存に繋がるであろうことを申し上げて終わりにいたします。