山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

集団的自衛権論争の本質

 集団的自衛権をめぐる論争がどんどん盛り上がってきています。本稿でも他のテーマを論じる中でこの論点にも触れてきたつもりですが、最近、「で、三浦さんはどうなのよ」的なプレッシャーをいただくようになりました。泥仕合の感が高まっている論戦を眺めつつ、参戦する前から辟易しているというのが正直なところなのですが、筆をもって生きる者の端くれとして、遅まきながらではありますが、このテーマについて何が本質と考えるかについてまとめたいと思います。論壇に最も足りないのは、コンパッション(=共感)であると申し上げて筆をとる立場からすると、イデオロギー的な踏絵を突きつけられることにいやーな気分がするのですが、思い切って踏絵を踏まないといけない場合もあるのでしょう。

 さて、集団的自衛権論争が今日の泥仕合となってしまっている背景は、課題意識の異なる(ように見える)人々がそれぞれの立場から論陣を張っており、議論がかみ合っていないからです。そもそも、議論はかみ合っている方が建設的な結果につながるというのが私の考えですが、そのような考えは少数派なのかもしれません。議論をかみ合わせることが役割のはずの人々も、意図してか、意図せざる結果としてかはわかりませんが、泥仕合を盛り上げています。集団的自衛権をめぐる論争の本質を理解するには、大きく三つの領域で物事が進行しているという状況認識を持つことだと思っています。一点目は、安全保障の領域、二点目は憲法解釈と立憲主義の領域、三点目は感情的化学反応の領域です。本テーマについては、日本の論者はもちろんのこと、世界中で日本に関心のある論者が多くの論考を提示しているので、それぞれの領域の中ではいい議論もされています。少しずつご紹介もしながら私の考え方も開陳させて頂きます。

 一点目の安全保障の領域から、よく整理された議論を展開しているものとして、田中均氏のダイヤモンド・オンラインの下記の記事があると思います。

まず集団的自衛権の行使容認ありきではあるまい 安全保障体制の強化のためになすべきことは?|田中均の「世界を見る眼」|ダイヤモンド・オンライン

 田中氏の主張に窺えるように、安全保障政策として今の日本はどのような道をとるのかという議論が本丸であり、集団的自衛権行使容認をめぐる国内的議論は的を射ていないと言う認識には私も賛成です。ですが、安全保障観や時代認識については、プロ中のプロの見方をされる田中氏とは異なる見方をしております。

 これまでも申し上げてきたとおり、外交・安全保障の世界における現代という時代の特性は、安全保障や外交におけるプロの影響力が低下してきているということです。それは、米国では、政策の主導権が各地域の専門家からなる「帝国官僚」主導のものから、普通の民主主義国のそれへと変化していく過程であり、中国共産党ポピュリズム愛国主義を頼りに統治を正当化せざるを得ない状況であり、日本でも、霞ヶ関のエリートや自民党のボス達の影響力が低下するという形で進行しています。

 日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。もちろん、そんなことは、日米安保条約のどこにも書いていませんし、戦後の「防衛と基地との交換」という伝統にも反する暴論であるというのは百も承知で申し上げています。ですから、日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはおっしゃらない。しかし、ワシントンのアマチュアだが本当の権力者たち、例えば、上院軍事委員会の面々の認識はここで申し上げていることと大差ないはずです。これまでは、米国の軍事力が圧倒的で、日本の集団的自衛権が実質的に役に立つとは誰も思っていなかった。せいぜい、お金の観点から少々貢献してくれという程度だった。けれども、軍事的に中国が台頭し、極東における米国との軍事バランスが崩れる可能性がリアルに想定されるようになって、この潜在的な矛盾が意識されつつあるということではないでしょうか。安全保障の観点の中でも、同盟を結ぶということにひきつけて言うと、集団的自衛権を行使できることは当たり前であり、「今までできないことになってたの!?」というぐらいの論点でしょう。

 安全保障の観点からいまひとつの大事な視点は、集団的自衛権というよりは、そもそも海外での武力行使をどのように捉えるかという問題です。これは、スーダンやシリアにおける剥き出しの暴力と国際社会はどのように向き合うべきかということであり、アジアで言えばカンボジア東チモールのような状況にいかに対処するかという問題です。私の学問上の専門はこの辺りなのですが、世界と日本の議論が最も乖離しているところでもあります。乱暴ついでにまとめるとすれば、冷戦後の世界の論調の構図は、世界に存在する圧倒的な暴力の前には積極的な介入が必要というリベラルな主張(Liberal Hawk)と、それに伝統的な国益の立場から抵抗する保守派の対立です。ただし、両者が見逃しており、避けてきた問題が実際に介入を行うのは誰かということであり、それはどのような犠牲の下に行われるのかという問題意識です。各国による海外での武力行使とそれに伴う犠牲とは、各国内に共通して存在するに至ったいわば傭兵的階級によって支えられています。

 このような視点は、日本の集団的自衛権論議には皆無と言ってもよい状況です。日本社会は、殺戮を止めるには軍隊という暴力が必要なことがあること、その軍隊を担うのは兵士という生身の人間であり、それには犠牲が伴うこととリアルに向き合ってきませんでした。日本社会は、国際社会の賛同と協力の下であったとして、日本人の血がスーダンやシリアで流れることを具体的に想定できているのでしょうか。東日本大震災の後に明確になったことは、日本にも、自衛隊を道具とみなす見方があることです。日本でも、田舎に行けば行くほど、自衛官募集の看板が駅前の一番目立つ場所にあります。日本の防衛を現場で支える自衛隊員の方々にも幹部含め各国同様、二世代・三世代にわたって隊員を輩出する軍人一家が多い。個人的には、日本社会の安全保障をどのような犠牲の上に成り立たせるべきなのかということについても、少し観念論は脇において、共感を持った議論が行われる時期にあるのではないかと思います。

 二点目の憲法解釈と立憲主義の論点は、これまで積み上げられてきた立憲主義の枠組みをめぐる争いです。安倍政権が進めようとしている憲法解釈の変更については、安全保障上の必要性については言明せずに専ら手続論の観点からする批判と、安全保障上の必要性に対して法解釈の観点から反論する論理的には支離滅裂な、それでいて戦後日本の知的伝統からは正統な批判とがあります。

 一国の憲法秩序のあり方をどのように捉えるか、なかんずく憲法解釈を変更するということの意味については各国の立憲主義の根幹にある問題です。憲法学者があらゆる角度から論じてきたことですのであまり深入りはしませんが、そこには、成文規定の内容に関わらず、どのような政治的伝統の中に存在してきたかということが重要です。つまり、閣議決定でもって頻繁に憲法解釈を変えてきた国であれば、別に閣議決定で今一度解釈を変更してもさして問題なく、国民が気に入らなければ次の選挙でひっくり返せばいいわけです。それに対して、何十年にもわたって解釈を積み上げ、その解釈が社会的に重要であるというコンセンサスがある国においては、解釈変更という方法論は、まあ、スジは悪いわけです。ここで出てくるのが、「どうどうと憲法を改正すべき」という主張です。私がこの、もっともそうなこの主張になかなか与する気になれないのは、このような主張をされる方の本音が、立憲主義を方便とした現状維持であるのが見え見えだからです。加えて、このような主張には、立憲主義を方便とした日本の民主主義に対する軽視が潜んでいるように思えます。民主主義の仕組みの中で少数者の利益が害されないように最大限工夫してから立憲主義は持ち出されるべきものであって、国家観や安全保障観をめぐるイデオロギー的な争いの錦の御旗として使われるべきものでもないような気がします。

 安全保障の分野における戦後日本の立憲主義はとても不安定な礎の上に築かれてきました。中学生が普通に読めば、自衛隊の存在は違憲のように見えると思うのですが、それを精巧なガラス細工のような法解釈でもって正当化してきました。このガラス細工は、戦後日本をとりまく安全保障環境の現実と、日本国民を分断するイデオロギー対立の間に存在する矛盾とをぎりぎりのところで折り合わせるための「ごまかし」です。そして、このガラス細工は、時代を追うごとに、自衛隊の合憲性、非核三原則、武器輸出三原則、防衛費のGDP1%枠、PKO5原則、武力行使の一体化論などなど、その時々の政策課題と絡まりながら形成されてきました。そして、この日本人以外には殆ど理解できない精巧なガラス細工をめぐる争いに一生をささげてきた方がたくさんおられる。それは、ガラス細工を守り抜く側と、ガラス細工を粉砕する側の双方にとって日本の魂をめぐる闘いでした。私からすると、世代として理解できないところも多いのだけれど、左右両陣営にとって自らの自画像をめぐる真摯な争いであったことは理解できます。そんな中にあって、集団的自衛権をめぐる憲法解釈は、非核三原則とともに、最後まで残されたガラス細工を支える大きな支柱です。だからこそ、政策的な内実とは別の次元で、この支柱を壊したという象徴性と、この支柱を守ったという象徴性との間でのっぴきならない争いになってしまう。

 憲法を通じて政府を縛り、国民の権利を保障する立憲主義は、民主主義の擁護者であると同時に、時に民主主義と対立するものでもあります。日本国民は、安倍晋三という政治家を、彼の憲法観や安全保障観を十分認識しながら二度までも宰相として選択し、高い支持を与えています。安倍政権の支持率が高いのは経済改革に期待するからであるからとか、集団的自衛権をめぐる憲法解釈変更への支持率については(信頼性はともかく)いろいろな調査もありますし、様々な主張が可能でしょう。しかし、もう少し長い目でこれらの問題を見たならば、戦後作り上げられたガラス細工の支柱の多くは、安全保障環境の変化と国民の意識変化の前に、既に姿を消しました。おそらく、集団的自衛権の解釈変更は、日本の民主主義がたどり着きつつある、コンセンサスとはとてもいえない、けれども、不可避的な変化の方向性なのだと思います。

 現在行われている議論の多くは政策的な結論と言うより、政治的な結論をどこに落とすかいうことについての日本的なコンセンサス作りのように見えます。安倍政権が進める集団的自衛権の行使容認は、衆参両院における自民党の圧倒的勢力、そもそもの自民党内のイデオロギー分布の変化、維新・みんな等の野党勢力の賛成等から政策的には既定路線であり、安倍政権にどこまで勝ちを持たせるかをめぐる争いであるということです。政治的敗者(=少数者)にも一定の品位を保たせるというのは、日本政治の良き伝統の一つですが、ガラス細工を支えてきた方々も多いので、彼らを政治的に追いやり過ぎないようにするための工夫に知恵を絞る必要がある。与党協議の中でクローズアップされているグレーゾーンの議論は、スジが悪いし、あまり本質的でないのは皆わかっているのだけれど、ガラス細工の破壊者と擁護者が共に勝利宣言する必要があるという政治的立場に立つと、スジが悪いことにそもそもの付加価値があるとも言える。集団的自衛権憲法解釈というガラス細工を壊す代わりに、グレーゾーンという、新たな、少し小さめのガラス細工を作り出すことなのかと。ちょっとやり方が時代遅れな気もしますが、しょうがない感じもあり、日本的な共感の示し方でもあるのかと思います。

 最後に、三点目の感情的化学反応の領域です。これには、国内的な視点と国際的な視点があります。国内的な視点とは、これまでもイデオロギー色の強い論争で繰り返し存在してきた構図ですが、最初はあまり関心の高くなかった国民の大層が賛否両側の激しさと醜さの中で、かえってその反対側に流れるという現象です。近年の例で言えば、秘密保護法成立の際は、政権側の高圧的・官僚的な態度によってかえって反対者が増え、原発問題では反対派の急進的な態度によって少なくとも消極的な容認派が増えたという現象です。今回は、左右両方向に向かう流れがある(それだけ醜い泥仕合になっている)ように思えます。

 感情的化学反応の国際的な視点のうち、中韓の反応をめぐる構造もこれまでどおりです。中国と韓国の国内世論からすると、日本の集団的自衛権行使に対して好意的に反応することは難しいので、実際どのように思っているかとは別として否定的な見解を述べることになります。そして、それを見た日本人の多くは、あまり良い気分がしないので、当初この論点に賛成していた以上に賛成に回るという構図です。今回、面白いのはアメリカの反応ではないでしょうか。下記にリチャード・J・サミュエルズ氏(米国MIT教授)の、興味深い論考をご紹介します。

サミュエルズ教授、「集団的自衛権」を語る | グローバルアイ | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト

 アメリカの反応といっても、もちろん言論は多様ですので厳密には存在しませんが、大きな傾向としては、安全保障上の観点から集団的自衛権行使をはじめとする日本のより大きな貢献には賛成しつつ、日本が安全保障分野で独自の判断で動くことに居心地の悪さを感じるというものです。より大きな貢献を引き出しつつ、引き続き自らの完全な影響下に置きたいと。実務家にはこの手の反応が多い気がします。対して、日本がこれまでの安全保障政策や憲法解釈を変更する上で、国内的な支持取り付けのために用いる論理が気に食わないという反応も根強い。安倍総理をリビジョニストとして警戒するリベラル系の知識人の多くには、特にこの視点が強いようです。

 面白いのは、今回の一連のプロセスで、アメリカの識者の消極意見が取り上げられるほど集団的自衛権への賛成が強化されるという構図です。日本の実務家の中には、集団的自衛権の行使を日米同盟の強化の文脈で理解している方が多く、しかもそれは長年の米国の要求であったにもかかわらず、実際に政策変更が政治プロセスに乗って佳境を迎えた段階で消極意見が出てくることをある種の裏切りであると感じている。彼らと話していると、日米同盟を強化するといっても、結局は、米英や米欧の同盟のような本質的な信頼関係に基づくものにはならないのかなという、多少の残念さをこめた感慨があるようです。

 さて、集団的自衛権について様々な視点を紹介し、それぞれの視点の中での私の理解なり、意見なりを申し上げてきました。少し長くなってしまい、「で、けっきょくどうなのよ」と言われそうなので、まとめると、こういうことかなと思います。冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず、現代の東アジアにおいて日本に米国との同盟以外の選択肢があるようには思えず、かつ、現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上、集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。その上で、どのような場合に実際に武力を行使すべきかについては、今の国際社会のコンセンサスよりも相当保守的であるべきです。また、戦後日本が築き上げてきたガラス細工の微細加工という政治構造からはそろそろ卒業して、国際的な問題の解決につながらない武力行使や、国内的な不正義に支えられた武力行使に反対する国家=平和国家というのが日本の進むべき道ではないかと思っています。