山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

政治家と官僚と軍人(2)

 文官統制について、前回は政軍関係の側面、政官関係の側面、そして背広組と制服組との組織内権力関係の側面からそれぞれ取り上げました。今回、検討されている組織変更については、政軍関係や組織内権力関係の観点からは求められる改革の方向性であろうと思われるものの、政官関係の観点からは課題が多いというのが見立てです。本日は、もう少し大きな視点から、日本の安全保障領域における政策文化を取り上げ、新しい組織体制を機能させるためのソフトな面について考えたいと思います。

 政策文化というのは、ある集団の考え方に影響を与える思考のクセのようなものです。それは、組織のクセである場合も、国全体のクセである場合もあり、その国の政治風土の一部を形勢します。それは正当な根拠に基づいている場合もあれば、なんらかの誤認や「神話」に基づいている場合も多いものです。

 例えば、戦前の帝国海軍が拘った大艦巨砲主義は、日露戦争における日本海海戦の戦勝の理由を正確に承継できなかった結果として生じた誤った政策でした。第二次世界大戦後の米国は、ヒトラーの台頭を許したとされるミュンヘンの融和に対する極度の嫌悪感が影響して、冷戦初期には強硬策に拘り続けました。

 日本の安全保障政策の分野における影響の大きい政策文化として3つほど指摘したいと思います。

政策文化としての平和主義

 一つ目は、政策文化というより国是に近い、戦後日本の平和主義です。言わずもがな、これは憲法9条第1項の平和主義と、第2項の戦力の不保持という成文によって定められています。平和主義という原則が日本社会に広く共有されていることは、非常によいことです。総力戦の敗戦を通じて戦争を忌避する傾向が根付き、日本はベトナム戦争にも派兵せず、全面侵攻されない限り戦わないという抑制的な態度を身につけることができました。しかし、平和主義は同時に強烈な政策文化でもありました。憲法には直接定められていない多くの原則やルールが重要な役割を果たしてきたからです。

 その政策文化の最大のものは、安全保障の世界を憲法解釈という法律論で理解しようとする姿勢です。この、法解釈主義は、安全保障に関わる法令や国会答弁の積み重ねによって、特に字句解釈という方向で精緻化されていきます。それは、細かい字句解釈の世界が日本の安全保障政策そのものであるという錯覚さえ覚えてしまうほどでした。

 戦後、三木内閣前後までは、平和主義に起因する多くの原則が打ち立てられていく時代です。警察予備隊の創設をもって始まった再軍備は、保安隊、自衛隊へと受け継がれます。意味のある戦力となっていた自衛隊の存在は、憲法9条第2項の戦力の不保持との関係で多くの矛盾を抱え込んでいました。世論の反軍感情も強烈な時代でした。自民党の歴代内閣は、その矛盾をのっぴきならないものとしないために、様々な「歯止め」を発明することで乗り切ろうとしました。

 国際的な情勢が、このような字句解釈に偏った安全保障政策を可能としました。朝鮮戦争以後、東アジアの冷戦は落ち着きを見せ、ソ連による全面侵攻の恐れは地続きの欧州と比較すればそれほど深刻ではありませんでした。万が一、そのような事態に陥ったとしても、その圧力に直面するのは米軍でした。日本は、安全保障上の脅威にリアルにさらされることなく、延々と字句解釈を続けられたのです。

 代わりに、安全保障に関わる政策担当者が気にしたのは世論でした。多くの国民が反軍感情を持ち、憲法上の基盤に疑義のある日陰者の自衛隊は、頭を低くして生きていくことが求められました。旧軍を想起させるような発言や、各種のスキャンダルが極端に恐れられ、管理主義が徹底されていきます。それは、文官による管理(防衛省内局)であり、予算による管理(旧大蔵省)であり、民主主義による管理(内閣と自民党と国会)でした。

 1965年、国会で日本社会党による「三矢研究」の暴露という事件がありました。2年前に作成された朝鮮半島有事対処の図上作戦研究です。佐藤栄作首相は自分が知らなかったことに鑑み、そのようなことは絶対に許せないと答弁しました。また、金丸信は米国から輸入したF15戦闘機から爆撃・給油装置を取り外せという日本社会党の要求を呑めば世論に迎合するものだとして断固抵抗しましたが、自らも世論対策として自衛官を統制しました(栗栖統幕議長の更迭事件)。首相や長官として自衛隊に対し全権を振るうことがあたかももっとも正しい政軍関係であるかのような考え方は自民党の中にも民主党の中にも脈々と息づいています(民主党で言えば一川防衛大臣の発言問題など)。確かに、政軍関係も「政治」から完全には逃れられません。軍人もエリートである限り普通の次官や局長のように罷免されて当然という見方もあるでしょう。しかし、「歯止め」だけでは政策の練り上げや検討はできません。

 この流れが変化したのが中曽根内閣以降であり、それが冷戦終結とともに加速化していきます。安全保障環境の変化に対応するために、冷戦期に作られた複雑な歯止めを少しずつ取り払う作業が進みます。この変化は、本来であれば安全保障環境の変化に根拠付けられるべきでしたが、世論を意識した政府は字句解釈の伝統を承継してしまいました。結果として、解釈の複雑性と無理筋度合いはどんどん増していき、防衛省や外務省の直接の担当者以外には理解さえおぼつかない複雑怪奇なガラス細工が出来上がったのです。

チェック・アンド・バランスが苦手な日本

 政策文化の二つ目は、政策決定における抑制と均衡を嫌う風潮です。議会制民主主義という制度にせよ、株式会社という制度にせよ、欧米発の制度にはこの、抑制と均衡=チェック・アンド・バランスが非常に重要な要素として織り込まれています。

 これは安全保障分野に限らない傾向ですが、日本では抑制と均衡の前提となる意見対立は組織運営上の不協和音として忌避される傾向にありました。反対意見をぶつけ合ってより健全な結論に至るというプロセスは、対立そのものを回避する方向か、あるいは、対立の解消を必要としない独立王国や縦割りの組織運営を通じて管理されることが多い。

 組織を統率するリーダー層の選別や育成においても、対立する幅広い意見を通じて最適解を導くというスキルは重視されているとは言い難い。必ず反対意見を聞くこと、反対意見が出てくることを担保するために多様性を重視する発想は、日本ではいまだに異質な発想であり、一部の名物リーダーの特異な趣味でしかありません。霞ヶ関における優れたリーダー像とは、対立点をあらかじめ把握し、最大公約数の解を導くことで組織の調和を保つ存在です。この傾向は組織内部の文化だけでなく、社会全体でも共有されています。報道でも、意見対立があること自体がネガティブであることを大前提とされてしまいます。

 このような政策文化の起源がどこにあるのかということは日本の政治や文化を理解する上での難問です。それを、「和をもって尊しとす」まで遡ることも可能でしょうし、同質的な民族性や、島国という地理的要因、あるいは、農村共同体という文化人類学的な要素に求めることも可能でしょう。おそらく、それぞれに影響があるのだろうけれど、なんでも説明できてしまうことは何も説明していないことに等しいので注意が必要です。

 そんな中、戦後の外交・安全保障分野における二元外交を極端に嫌った戦後の制度設計は、わかりやすい政策文化の起源でしょう。戦後秩序がまさに形成されつつあった1940年代後半から50年代前半にかけて、吉田や芦田をはじめ多くの外交官出身のリーダーが活躍しました。彼らは戦前の軍部による独自行動を通じた既成事実作りが外交の選択肢を狭めていったと認識していましたから、外交の一元化を重要視します。外交・安全保障分野では、複数の情報源から、複数の政策の選択肢が提示されることが寄り良い結果に結びつくという発想が制度的に否定されているのです。

 これは、古臭い原則のようでいて現在に至るまで日本の政策決定に大きな影響を与えています。各国の大使館に出向している、経済外交に関わる経産官僚や、治安やテロ対策に関わる警察官僚や、安全保障政策に関わる防衛官僚や駐在武官達は、外交の一元化のために細かいルールに従って仕事をしています。何らかの調整役はもちろん必要としても、本来は、複数の情報源があることが望ましいに決まっています。外交当局、情報当局、軍、そして民間のネットワークが複雑に絡み合うからこそ情報が立体的に理解できるようになるのですから。

自衛隊における反エリート主義

 政策文化の三つ目はエリート軍人への忌避感です。戦前の日本社会において、陸海の将校達は超エリートでした。陸軍士官学校海軍兵学校は、東大や京大などの帝国大学を凌駕するほどの社会的尊敬を集めていました。第二次世界大戦の敗戦と軍の壊滅は、彼らの尊厳を徹底的に傷つけました。戦後、政財界で活躍した元軍人も多かったけれど、無謀な作戦を考案して何百万の将兵を死に至らしめたエリート参謀に対する嫌悪感には激しいものがありました。平和主義政策を実行に移す際に軍人を日陰者としたことともあいまって、戦後の軍人に対する反エリート主義には強烈なものとなったのです。

 結果として生じたのが、エリートと呼ぶにふさわしい人格・識見をもった軍人の極端な不足です。国際政治や安全保障の研究者である私には、真にエリートと呼べる軍人の知り合いが幾人かいるけれど、彼らは組織の中にあって圧倒的に少数派であるし、それほど組織に大事にされているようにも見えません。日陰者とされたからこそ、我々は現場で粛々とがんばりますという文化が生まれ、ともすると、世界で起きている「難しいこと」には無知で良いという風潮さえ呼んでしまうのです。

 現代という時代にあって、専門知識を持った国際的な軍人の存在は、平和には欠かすことのできない要素です。外国語を理解し、外国の文化に対する造詣と親近感を持った大国間の軍人ネットワークが国際社会の安全弁となるのです。日本の例で言えば、中国語やロシア語やアラビア語の知識を持つ軍人がどれだけいるのかということです。サイバースペースから宇宙空間まで、公衆衛生から人道支援に至るまで、現代の軍人が直面する課題は多岐にわたっています。中国は、対日関係であろうと、対米関係であろうと政治的な懸案が持ち上がるたびに軍事交流を止めてしまうけれど、あれは、本当によくないのです。

安全保障制度の変革期

 ここまで、安全保障領域における政策文化について批判的に見てきました。ある組織や国の文化というのは理由があって形勢されていますから、もちろん、悪いことばかりではありません。けれど、現代という時代の要請と日本のおかれている状況を考えると、以上に挙げた3点は今後改めていくべき課題です。

 平和主義の内実は、字句解釈ではなく、現実的な安全保障認識と十分な備えと健全な市民精神に拠るべきです。政策決定は、複数の情報源から上げられた、意味のある選択肢を伴った判断に基づくべきです。リーダー人材は、抑制と均衡を健全に管理する能力が求められ、意識して鍛えられるべきです。軍人は、豊かな人間性と国際性が求められ、国際社会における平和のインフラとしての役割を果たすべきです。その重責を支えるだけの質と量を兼ねそろえた人材育成は一朝一夕にできるものではありません。

 文官統制の撤廃は、日本の安全保障制度の転換をなす画期です。制度の変更は、それを生かすための文化や人材の変更を伴ってこそ生きてきます。シビリアン・コントロールに関しても、それを強めるためには文官の上述の能力育成や、調達改革に手を付けられるだけの与野党問わず政治家の力量が試されます。実際には、こここそ、シビリアンが手を付けなければいけないのに手をこまねいている領域なのです。その意味で、安全保障領域において求められる変革は始まったばかりと言えるでしょう。

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台湾にて、兵士の昼ごはん