山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

東京都知事選(2)―東京と地方の未来

 東京都知事選の候補者が出揃い、おぼろげながら選挙の争点も見えてきました。小泉元総理の支援を受けた細川元総理が原発の即時停止を訴える中、舛添元厚労相は、原発問題の争点化を避けつつ、自公与党を代表して五輪準備、高齢化問題等をバランスよく訴えるというのが大きな軸のようです。前回のエントリーで、都知事選とはその時代のナショナル=アジェンダへの直接民主制的な意思表示の場という意味と、東京という最大の自治体を導くリーダーの選択という意味があると申し上げましたが、本日は、もう少しサブの論点を取り上げたいと思います。

 おそらく、マスコミや有権者の注目を集めることにはならないでしょうが、私が大切だと思っている論点は、東京と地方との関係の問題です。この問題を考える上でとても重要なはずの問題が、地方における法人課税に関する方向性です。これは、4月の消費増税に基づいて生じることが予想された都市と地方の間の税収「格差」を、国の再配分機能を強める形で調整しようという試みです。本来は、反対の前面に立つべき猪瀬前知事が、徳州会からの資金供与問題でゴタゴタするあいだに、粛々と決定されようとしています。「地方にできることは地方に」と主張した小泉政権や、それなりに「地方自治」を重視し、少なくとも財務省主導の政策決定に抵抗したいという機運の見られた民主党政権であれば、問題になった政策だと思うのですが、安倍政権はこれをすんなり通そうとしています。消費増税の方針をなかなか明示せず、財務省をやきもきさせた現政権ですが、地方分権についてはあまり積極的でないようです。報道を見る限り、大阪、愛知、神奈川などの都市部の知事も反対を表明はしていてもそこまで本気に共闘する気運はないようで、懐が痛まないその他の知事も地方分権に逆行するという建前はさておいて、だんまりを決め込んでいます。

 言うまでもなく、地方自治や「国と地方」の問題を考える上で最重要の視点は、政策決定の権限とそれを実施するための手段=税源をどこに帰属させるかという問題です。国と地方の権限の問題は、複雑怪奇な現制度の微修正という形を取ってきたので、外からはわかりにくく、あっという間にお役人同士の争いになってしまいがちです。しかも、今回の問題でも垣間見えるように、自分がコントロールできる権限やお金を増やしたいという欲求が前面に出ることが多く、動機が不純で政策としては訴求力もいまひとつです。

 明治維新は、乱暴な切り取りを恐れずに言えば、権限を藩から中央政府に移した革命だったと言ってもいい。そして、20世紀を通じてほとんどの先進国で同じことが進行します。二度の世界大戦と冷戦を通じた軍事力強化と、その裏側で進行した福祉国家化の流れは中央政府の役割を必然的に高めます。このような流れは、冷戦が終結する前後で潮目が変わり、それぞれの国で行き過ぎた中央集権を修正する分権化が進められます。日本でも過去十数年の間、分権改革は、ゆっくり、ゆっくりと進められ一定の効果を生んできましたが、その間、日本経済全体の低迷や地方の少子高齢化がさらに進んだ結果として、地方の実情はどんどん悲惨なものになってしまいました。

 米国、中国、ドイツ、そしてやがてはインドもそうなるでしょうが、21世紀の世界で高い成長や付加価値を生むことが予想される国はすべて分権的な国家です。もちろん、連邦制を採用しているとか、もともと複数の中心を持つ帝国的な版図の国である、等々の歴史的な経緯はありますが、複数の中心が競争しながらそれぞれの強みを生かして国全体を底上げしてきたという共通項があります。地方分権の大義も単純に言ってしまえばこのことに尽きます。明治維新の時点で270の藩の単位で西洋列強に対峙したならば、あっという間に植民地化されてしまったでしょうから、強力な中央集権体制を構築して、なんとかしのいだというのが実態です。

 多くの経済学者、経営学者が指摘するように、情報化された成熟した経済の時代においては、資本と労働の集中投下よりも、自由な発想とネットワークによって集積した集団が競争しあうことで「富」が生まれます。地方分権とは、東京という一つの中心が、内向きの論理で全国を統治する仕組みから、複数の中心がそれぞれの創意工夫で切磋琢磨しあい、結果として全体が底上げされるということです。その際、例えば九州は中国や四国と競争するだけでなく、対馬海峡の向こう側の韓国南部や、東シナ海の向こう側の上海市江蘇省と競争するという視点が重要です。

 日本維新の会が、当初高い求心力を有していたのは、もちろん、大阪ナショナリズムとでもいうべき文化の部分もありますが、閉塞感漂う社会において、希望を語ったからではないでしょうか。そして、もちろん、維新が掲げた政策を実現するためには国政レベルの権力を握ることが重要であり、その全国政党化は必然的だったのですが、全国政党化の過程でこの大義名分がにごってしまった。維新の求心力低下は、党幹部の個別の発言や、いくつかの戦術的なミスにもよりますが、自身のもっとも本質的な強みがはっきりしなくなってしまったことに原因があるように思います。

 都市と地方の間には、必然的に格差が存在します。そして、国の最大の存在意義の一つが国民に一定レベルの福祉を保障することである以上、一定水準の福祉を提供するために富=財源の偏在を調整することは当然でしょう。問題は、この調整が、中央の権力者のさじ加減によって行われてはいけない、と言うことです。こういうことを言うと、すぐに「地方切捨て」という話になってしまうのですが、基本的に陰謀論を信じない学者稼業の私もコントロールを失いたくない勢力の存在を感じてしまいます。誤解なきように申し上げると、私は、どちらかと言えば、日本の都市と地方との富の再分配については、地方への配分を増やすべきと思っています。

 個人的な趣味で、地方をよく歩くのですが、個別の明るい事例はあるし、自然や風土の美しさには心洗われる思いがします。それでも、全体としてみて、日本の地方に希望を見出すことは難しい。本当の自然は美しいけれど、そこに至る国道沿いは多くの場合醜い。そこには、どんどん入れ替わるチェーン店と、入れ替わることさえなくなった廃墟とが点在しています。若者は、将来が見えにくい製造業や建設業に就職するか、将来は見えやすいけれど非正規雇用であることの多いサービス業に就職するか、一番の成長産業である福祉産業に就職します。希望とは、具体的に言うと雇用を通じて今日より明日が良くなるという感覚です。多くの若者が地元を離れるという事実が何より雄弁に地方の希望度合を示しています。

 私は、外国でも同じように地方歩きをします。米国や中国のような大国でなく、例えば、イギリス、フランス、ドイツ等をまわると一目瞭然なのですが、これらの国では都市を離れるとあっという間に田舎になります。地方には、めぼしい産業などなく農林水産業が他のすべての産業を支えています。山がちな日本の風土と外国をそのまま比較はできませんが、日本の地方は、実は人口が多いのです。日本は、戦後の都市化に伴う人口移動が進行してからまだ1-2世代しか経っていませんので、何百年もかけて進行した欧州諸国よりも「田舎化」が進展していない。東京圏や大阪圏のみならず、政令指定都市クラスの日本の都市は外国の主要都市と比較しても十分に大きく、日本は、都市化は相当程度進んでいるのに、その裏側の田舎化が進行していない。

 もちろん、これは戦後自民党が国土の均衡ある発展を訴え、一票の格差を温存したことによって可能となりました。この間の自民党型のバラマキは、地方自治体と地方の企業に対してなされました。その目的は、共同体を守ることであり、村を守ることでした。今ではその多くが限界集落となり、共同体を再生産するための若者には雇用がなく、居場所がありません。人を守らなかった結果、村を守りきれなかったのです。

 ですから、地方へ増やすべき配分は人を守るために使うべきです。厳しい現実ですが、そこにはある種の「撤退のコスト」という意味合いが含まれている。つまり、日本国民である以上、所得の再分配を通じた一定の福祉は最後まで保障するけれども、あらゆる村で行政サービスを行う余裕はもはやないという現実を直視することです。何次かにわたって行われている市町村の大合併はその現実を物語っています。

 我々は、都市と地方の問題を、対立と切り捨ての文脈で語り、結果的に中央のコントロールを温存する議論から脱皮しなければいけないと思います。地方分権は、地方が独立した意思決定を行ってわくわくするような産業、社会を創出する希望を語らないといけない。そして、最も限界的な地域に住む真の弱者に手を差し伸べるものでないといけない。

 東京都知事が、東京のリーダーであるだけでなく、日本の重要なリーダーであるならば、そんなことも議論してほしいと思います。