山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

解散総選挙(3)―民主党の活路

 解散総選挙に関するシリーズ第三弾、本日のお題は、政権交代というかつての旗印を失った民主党が今後も社会にとって前向きな存在であり続けるための方策についてです。

 さて、まずは解散ということに引き付けて指摘すると、民主党はもはや政権を再奪還する可能性も、気概もない政党になってしまったという重い事実があります。選挙の公示までには若干間がありますので、確定的なことは申し上げられませんが、民主党は295の小選挙区のうち、半数程度にしか候補者を擁立できないようです。それが、野党間の選挙区調整に基づく戦略的な判断ならいいのですが、準備不足と不人気で候補者が集まらないということのようですから深刻です。現場で戦っているプロの方からすると、いまさら言うまでもないことなのかもしれませんが、日本の民主主義にとっては野党第一党が本気で政権獲得を目指していないという、この点が極めて重要です。90年代前半の自民党の最初の下野のタイミングから曲がりなりにも存在した政権交代の緊張感が日本の政治から消えたのです。

 最近の研究では、かつて55年体制下において社会党が果たした役割を見直そうという動きがあります。国会対応で自民党との間合いをはかり、メディアと世論を動員しながら、日本社会が進むべき方向に一定の役割を果たしたという戦後史の再解釈です。このあたりの力学について丁寧に見ること自体は否定しませんが、私には、どうしてもリベラル勢力の自己満足に思えてなりません。国会で過半数を獲得した政党が政権を担当し、日本社会の進むべき道に責任を持つのです。中学生でもわかる民主主義のルールです。そのルールから外れたころで何を言っても、所詮は歴史のサイドストーリーでしかありません。

 ですから、民主党に対してまず指摘したいのは、かつての社会党にはなるなということです。この点は強調しすぎてもなお足りない気がします。日本には、かつて社会党を支持し、今は民主党のリベラル寄りの勢力を支持する層が存在します。現に民主党議席を有する方々には、この層に訴えかけ、自らの議席を守るという誘因があるでしょう。しかし、リベラル色の強い、自民党批判を前面に出した政策パッケージで戦うことは、万年野党への道です。今回の選挙も、スタート地点が60議席程度ですから、一部報道に見られるとおり多少は議席を積み増せるかもしれません。仮に、100議席程度まで議席を増やせたとして、それを勝利と呼ぶのでしょうか。私が懸念するのは、現在の民主党はそれを勝利と呼びそうだということです。

 日本でリベラルというと、なんだか変なイメージが定着してしまっているのは本当に残念なことです。安全保障政策はほとんどの場合非現実的だし、グローバル化の現実への理解に乏しくて経済音痴なこと多いのも問題です。なんだか古い階級闘争の匂いがして、女性の社会進出や、多様な家族像のあり方や、社会に前向きな変化をもたらすイノベーションへの感度もそれほど高くない印象です。それでも、社会における自由を愛し、進歩に対して楽観的であるという本来の意味においてなら、私はリベラリズムに希望を持っています。だからこそ、政権奪還を目指さないリベラル勢力に、形容しがたい失望感があるわけです。

 私は、日本における二大政党制を展望して、保守二大政党制しかリアリティーがないと申し上げてきました。日本の選挙制度は地方の声が大きくなるように設計されています。衆議院の一票の格差と、参議院の地方の一人区の影響が大きいからです。それでいて、地方ではいまだに名望家のリーダーシップが重要で、この方々は本質的に保守だからです。十分に保守的な土台を持たない限り、持続的な全国政党となるリアリティーはありません。

 保守二大政党制が確立するとして、そのとき重要となる軸は「経済利権」か「統治利権」であると思っています。経済利権とは、開放的な経済と小さ目の政府を志向し、地方議会や地元の商工会を中心とする政治勢力です。他方、統治利権とはより統制的で官の役割の大きい経済と大き目の政府を志向し、官僚組織を中心とする政治勢力です。

 野党の視点から見たときの問題は、自民党は国民政党として統治利権と経済利権の上にどっかりと居座っていることです。それが自民党の本質であり強さです。ですから、自民党に本気で挑戦するのであれば、経済利権か、統治利権のどちらかを本気で取りに行かなければいけません。民主党が大きく躍進したのは、自民党の受け皿であることが明確になってからです。この時期、特に霞が関から有為の人材が民主党に流れました。民主党には、若手から中堅にかけて人材がいます。その意味で、長期的な民主党の本道は統治利権を担うことでしょう。実際、先進国各国のリベラル系の政党がとっている戦略も概ねこちらです。

 ことがそれほど簡単でないのは、民主党がかつて求心力を得る過程において、経済利権的な主張を前面に出していたということです。特に、市民運動の流れを汲む方々はムダな公共事業を攻撃し、官僚を攻撃するというDNAを持っています。実際には、大きな政府を志向していたのに、政治的求心力を高めるために官僚批判を展開し、統制的な経済政策を批判するかのような印象を与えました。小泉政権より後の自民党政権は改革志向を失っており、時代が求めたのも経済利権的な改革でした。民主党が支持を拡大した背景には、経済利権的な主張に共感する層=都市部の構造改革支持層が民主党支持に回ったということがありました。

 民主党は本質的には統治利権側の政党であるにも関わらず、経済利権的な政治的エネルギーで政権に就いたことに矛盾の根源がありました。それでも、政権を担っている間に統治利権的な政策を前面に出し、文字通り統治能力を発揮できたならば歴史は変わっていたでしょう。政権復帰を焦る自民党は経済利権側に傾斜せざるを得ず、その分裂を誘うこともできたはずです。やり方があまりに稚拙だったので失敗して当然だったのですが、東日本大震災直後に菅総理(当時)が谷垣自民党総裁(当時)と妥協し、大連立を組んでいたならばそういう展開もあり得たのではないでしょうか。自民党の保守派は経済利権を前面に出して、場合によっては維新と結びつきながら、分裂含みの展開を見せた可能性もあったはずです。政権担当能力のある二大政党が緊張感を持って対峙するという展開が日本にもあり得たのです。

 もちろん、歴史に「もし」はありません。日本政治に存在したかもしれないチャンスは失われました。そのチャンスは、おそらく一世代の間は戻ってこないでしょう。次、あるいは次の次の選挙くらいを射程に置くと、経済利権重視の方が自民党に対して勝算があるような気がします。

 ただし、競争重視で小さい政府を志向する勢力は、現実の所得分布を考えると、民主主義のプロセスにそのまま乗せても長期的には多数派にはなり得ません。結果として何が起きるかというと、社会的、文化的な政策とのパッケージ化です。一般に社会政策の方が分かりやすく、アピール力が強いからです。米国共和党は、小さい政府とパッケージで、キリスト教や白人中産階級の文化的価値観を前面に出します。英国保守党は、キャメロン首相のModern Conservativeになって多少変化していますが、イングランド的なるものや大英帝国の伝統を重視します。

 日本では、これがなかなか難しい。日本で社会的価値観を前面に出す政策ということになると、どうしても安全保障や歴史問題が出てきてしまうからです。民主党は、反官僚という意味での経済利権風の主張では何とかまとまることができても、安全保障や歴史問題などの社会的価値観が重要な部分では最後までまとまれませんでした。

 ここで登場するのが、地方分権です。地方分権は、お国自慢と多少の反東京感情、そして反お役人感情を通じて国民を動員できる争点へと脱皮できる可能性を秘めています。経済利権的な主張を補完する政策のど真ん中に地方分権を据えるのです。これが、政策的な意味だけでなく、政治的な意味においても地方分権が重要な所以です。

 いろいろと申し上げましたので、民主党に求められる方向という当初のお題に沿ってまとめましょう。

 まず、大切なことは日本風のリベラルの伝統に則って殻に閉じこり、万年野党の道を歩まないこと。現実的な安全保障政策を採用し、階級闘争的な主張を捨てることは最低条件です。次に、長期的に経済利権を代表したいのか、統治利権を代表したいのか、腹をくくって本気で取りに行くこと。この選択はおそらく民主党の分裂を意味するでしょうが、それでも構わないのではないでしょうか。このままではじり貧で、永遠に自民党の補完勢力です。その上で、経済利権を主張することを選択した勢力は、政策パッケージの柱に地方分権を持ってくること。改革重視の経済政策を採用することは、どうしても既得権層にとって痛みを伴いますので、地方分権が有する政治的エネルギーでより幅広い層にアピールするのです。結果的に、維新の考え方に限りなく近くなるはずですので、自然と野党再編が俎上に上がり、選挙戦術上も有利に働くでしょう。

 選挙情勢の報道や民主党の指導層の方々から出てくる発言を聞く限り、これまで申し上げたようなことは、この選挙ではどうにもならないことのようです。それでも、民主党に再び国民がチャンスを与えることがあるとすれば、これがとるべき道ではないでしょうか。

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