メディア「ムラ」は民主的に統制されるべきか?―高市総務相の放送法発言問題
日本における言論の自由に対する懸念が強まっています。実際に、言論の自由やそれを支える報道の自由がより不自由になっているのかについては諸説あるでしょう。国会でも論戦になっています。国際的なランキングが万能とは思いませんが、国境なき記者団が発表する「報道の自由度」への評価が下がっていることは何らかの傾向値を示していると見るべきです。少なくとも、言論がより不自由になっていると「感じる人」が増えていることは間違いありません。そう感じる人が多いということは、結果的に、言論の自由は後退しているのと同じです。
そんな中、放送行政をつかさどる高市総務相の放送法をめぐる発言が飛び出しました。2月8日の衆議院予算委員会において、「政治的な公平性を欠く」放送に対して、放送法4条違反を理由に電波停止を命じる可能性に言及したのです。「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにいかない」と。後日、答弁の撤回や修正を求められた際にも応じようとはしませんでした。失言問題の際に常套句として使われる「誤解を与えた」ケースではなく、大臣の本心であるようです。
高市総務相の発言は、過去数年の政権とメディアとの関係性の文脈の中で理解せざるをえません。自民党がテレビ朝日やNHKの幹部を呼び出して事情を聴取した件や、各局の大物コメンテーターが番組編成の改編を期に次々と姿を消していることなどです。本当に日本における言論の自由の後退を反映しているのでしょうか。実際に、政権が基盤とする特定の思想やイデオロギーに反する言論は行われにくくなっているのでしょうか。
結論から言うと、言論の不自由さに対する懸念には一定の根拠があると思っています。しかし、その原因については、政権側の抑圧や、日本社会の保守化といった単純なものではないと思っています。足元で高まっている言論の不自由さは、日本社会の政治化という変化を反映した症状であると考えるからです。
日本的な権力分立の仕組み
欧米社会と比較した際に日本社会が際立っているのは、それが並立する「ムラ社会」のあつまりであるという点です。ムラとは会社であったり、業界であったり、地域であったりします。ムラ同士が交わることは少なく、個々人にとって「ムラ社会」の存在は圧倒的です。国民や市民という概念は、わかりやすいストーリーとしては存在しても、実際の社会的な単位としてはそれほど力を持っていません。個々のムラが縦割り的に存在し、それぞれの縦割りの中で秩序を保つための伝統と統治原理を育んでいるのです。
実は、この縦割り構造が日本の言論の自由においても重要な役割を果たして来ました。自民党に代表される日本政治の現場は昔から保守主義であり、権威主義でした。責任ある立場にいたことのあるジャーナリストの方に聞けば皆そう答えるでしょう。メディアをコントロールしたがるのは政治の本能のようなものです。その本質は何も変わっていません。
メディア業界が独自の「ムラ」として自律性を持っている限りにおいて、政治の介入を組織としてはねのけることができたに過ぎません。そして、その自律性はメディアの中で圧倒的な存在であったリベラルな価値観によって支えられていました。
政治と官僚の関係にも同様の構造が存在します。戦後日本のリベラリズムの原点にはGHQが主導した改革がありますが、霞が関のエリート達はその政策の忠実な承継者でした。政治的な介入を排除し、リベラルな法体系の下で漸進主義的に政策を実行していったのです。生存権を原理とした社会福祉の増進も、男女同権を原理とした女性の地位向上も、時間はかかったけれど戦後一貫して改善してきました。官僚機構というものは、軌道修正は苦手である代わりに、一定の方向に向かって少しずつ成果を出すことには向いているのです。
そんな中、近年変化したのは日本社会において政治化される領域です。日本は、過去20年の間の諸改革を通じて、一貫して政治的なリーダーシップを強化する方向に舵をきってきました。省庁を統合し、内閣府や内閣官房の権限を強化したことで首相の権限は大幅に強化されました。小選挙区制を導入したことで、政党内で資金や公認権を握る執行部への権力集中が進みました。現在の首相は、かつてとは比較できないほど大きな力をふるうことができるようになったのです。
それは、国民が求めた変化でした。冷戦の終結とバブル崩壊を経た90年代の日本は変化に対して極度に臆病になっていました。個別の「ムラ」の統治原理に委ねている限り、変わることは不可能と思われたのです。そこで採用されたのが、政治が関与する領域を拡大するという手段でした。独立性の高い社会が割拠する状態から、政治の大きな物語に基づく横断的な変化へと一歩踏み出したのです。
政と官との関係において、それは「政治主導」という物語でした。しかも、政治主導の内実は世論主導であり、メディア主導であることも多かったのです。政治とメディアとの関係では、政権に対する距離感でメディアがより鮮明に色分けされるようになりました。当然、政権に批判的なメディアに対しては政治の側からの圧力が増大します。それに対するメディア「ムラ」の抵抗力は弱まっていました。
政治の拡大によって物事が前に進んできたことも事実です。薬害との闘いも、無駄な公共事業の削減も、左派的なイデオロギーに支えられた外交政策の転換も、既得権益を排除するための制度作りも、そうして初めて可能になったのでした。その代償が、霞が関やメディアへの政治の介入を許したことでした。
権力は「政治的中立」を判断できない
話を言論の自由に戻しましょう。高市総務相の発言の問題の本質は、権力は「政治的中立」を判断できないという点にあります。百歩譲って裁判所が「中立性」の解釈者たりえたとしても、行政が判断権者である時点でその判断こそが中立性を欠いているのです。大臣は原理的に不可能なことを仰っている。それは、厳密な意味では放送法の規定自体が間違っているということです。日本の行政は「間違い」を改められないという掟をもっていますから、長らくこれは倫理規定であると解釈してごまかしてきたわけです。
そこに、法の原理に対する表層的な理解をもった政治家が現れ、法律を字句どおりに解釈することで影響力を発揮しようとした、というのが一連の発言の本質です。しかし、高市総務相が自民党の政治家として特異な考え方を持っているとは思いません。保守政権の中で頭角を現すための、忠誠心競争に気を取られている傾向はあるのかもしれませんが。
そこにはあるのは、法の原理よりも統治者としての倫理を重視する発想です。現に、高市大臣は「私の時に(電波停止を)するとは思わないが、実際に使われるか使われないかは、その時の大臣が判断する」と言っています。徳のある倫理的な指導者として振る舞う「お上」による「さじ加減」に基づく人治・徳治の発想です。
もちろん、自民党の支持者の中にも、国民一般にも、そのような発想を受け入れる土壌が存在します。民主主義という制度が、政策の方向付けを国民の集合的な判断に委ねている以上、その判断が原則によって行われるのか、倫理によって行われるのかを問うことはできません。日本には中庸の道徳の伝統もあれば、喧嘩両成敗の知的DNAもあります。メディアが、とってつけたように政治問題について賛成と反対の立場を紹介するのは、サラリーマン的な事なかれ主義でもあるけれど、日本的な倫理的発想にも沿っているのです。
政治主導に不可欠なもの
したがって主権者である国民がどのような判断軸によって政治的意思を表明するかについて規定することは難しい。しかし、政治主導の暴走を避けつつ、適切に機能させるための仕組み作りを担うのはプロの責任です。
誤解のないように申し上げますが、私は、政治が介入する領域が拡大することそのものに反対ではありません。今日の世界にあって、個々の「ムラ社会」の掟に従って社会を運営することはできないからです。したがって、中選挙区制に戻すべきという懐古主義には与しません。また、知識人や専門家の意見がより尊重される「知性主義」を万能視する立場にも反対です。知性を尊重しない社会は不幸ではあるけれど、知性を主張する側に知性が備わっているのかという観点も重要だからです。
しかし同時に、私企業や、公共放送に対してすら、マーケットの中での競争(=視聴率やコアなファン層形成をめぐる)を超えて、民主的統制を、政府や国会を通じてやるべきだとは思っていません。なぜなら、大衆の集合的な意思をすべてに押し付ければ多様性はなくなり、尖った番組も作れなくなるし、カレーライスに激辛もスパイス風味もなくなり、すべてがマイルドなお子ちゃま味になってしまうようなものだからです。不人気な番組やTV局は競争の中で淘汰されるべきであって、それが正しい民意の反映のさせ方なのです。
政治主導を機能させるために必要なものは多様性と競争です。政治の文脈においては健全な野党と解釈されることも多いですが、それは単にオポジション(=対抗勢力)の存在です。中途半端な野党よりも、与党内のライバル争いの方が政権にとって有力な対抗勢力となることはよくあることです。現に、55年体制下の日本政治には与野党間に健全な対抗関係は成立していない代わりに、与党内には激しい権力争いが存在しました。それは、政治の主な存在意義が、利権の分配であった時代には適合した仕組みでした。
政治主導を機能させるために多様性と競争を重視するからこそ、その点を掘り崩すようなことには敏感でなければいけません。投票における一票の格差もそうだし、自民党と共産党しか選択肢がない選挙区が存在することは大きな問題です。そのような発想に立つとき、最も重要な点が、言論の自由を守ることです。言論機関は、言論の自由に対する攻撃には執拗に対応すべきです。
政治が介入する領域が拡大するということの裏側として、近年の政権はメディアでの見え方にも敏感です。だからこそ、現政権もかつてであれば粘っただろうと思われる閣僚を早めに「切る」という対応もとってきました。不倫をした議員や、パンツを盗んだ大臣は、メディアが騒ぐよりも国民の倫理主義によって裁かれればいい。言論の自由を解せずまた畏れないような大臣こそメディア自身が執拗に追及する必要があるのです。