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山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

安保法制(5)―パーセプション・ゲームの功罪

象徴性をめぐるパーセプション・ゲーム

 維新が国会に安保法制の対案を提出しました。政府提出の安保法制が、重要法案の審議時間の目安とされる80時間を越え、与党からは採決に向け機が熟してきているという発言が出始めていた中でのことです。本日は、維新の対案の意義と、安保論議の政治性について考えたいと思います。

 今回の安保法制は、戦後日本の安全保障論議の伝統にのっとり、極めて政治的な展開を見せています。本来であれば、安全保障をめぐる外的環境の変化があり、その対処に向けた必要十分な法的手当てを論議するというものですから、比較的技術的な論争が展開されるはずです。ところが、実際には憲法秩序をめぐる問題、ひいては国家のアイデンティティーをめぐる問題へと変質しています。

 与野党とともに、安全保障の実務的な要請に対応することよりも、国民からどのように見えるかという、象徴性をめぐるパーセプション・ゲームを展開しているのです。

哲学としての対話路線とナショナリズム

 維新が今回の対案提出を通じて達成したかったことは、一種の哲学として対案路線の明確化ということでしょう。ただ反対する野党ということでなく、反対なら対案を出すということ自体に意味があると。実際、対案を出す過程で党の考え方が明確になります。政府与党との違いも具体化し、論点が整理される効果もあるでしょう。

 議会制民主主義とは、国民の代表が討議を通じて論点を明確にし、妥協点を探っていくプロセスそのものですから、とても建設的なことです。野党共闘の名の下に、当初は対案提出に消極的であった執行部に対して橋下最高顧問が対案路線をねじ込んだことは国会の活性化という観点からも評価できます。

 対案提出の重要な副次的効果として、国民の間のナショナリズム感情を自民党の専売特許としないということもあります。ナショナリズムは政治的な感情として強固なものがあり、政党の求心力を左右します。特に、安全保障関連の法案というのはナショナリズムを刺激しやすい領域です。安全保障に対して責任感を持ち、中国や北朝鮮に対しても毅然とした姿勢をとるという立場そのものは国民の間で広く支持を集める考え方となりました。

 安保法制への対応をめぐって安倍政権の支持率は低下していますが、これは、国会対応における強引な印象や、巨大与党としての驕りへの懸念に対応するものであって、自民党ナショナリズムの受け手としての優位性は揺らいでいないとみるべきでしょう。

 今後維新が党勢を拡大するためには、ナショナリズムの受け手としての立場を獲得が重用になってきます。かつてであれば、平和国家としてのアイデンティティーという反米色の強いナショナリズムで対抗することもできたのですが、この立場は色褪せてしまいました。民主党の中にはその立場をとる残党がいるようですが、それでは、安保政策の具体的な政策論議に入る以前に、ナショナリズムの立脚点という次元で分裂してしまうのは当然です。

 つまり、維新にとっては、これまでの野党とは異なり建設的な対話が可能で、ナショナリズムにも親和的な存在、という見方を国民向けに創出することが重要だったのです。

言葉遊びと抑制性?

 では、維新が対案提出を通じて具体的に提起しようとする論点は何なのでしょう。維新の対案では、「存立危機事態」に基づく集団的自衛権を認めず、日本周辺での日本防衛にあたる外国軍への攻撃は、日本への攻撃とみなして自衛権を行使するというたて付けとなっています。

 維新案は、一見すると外国軍への攻撃を日本への攻撃とみなすわけですから、非常にオーソドックスな集団的自衛権の行使というようにも見えます。ただし、その行使は、「我が国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険があると認められるに至った事態」に限定されており、あくまで個別的自衛権の延長と位置づけているようです。

 国際的には、同盟国が共同で行う防衛行動が、集団的自衛権の行使に該当するのか、個別的自衛権の行使に該当するのかについては、誰も気にしませんから特に問題とはならないでしょう。もちろん、国内の憲法解釈上は、個別的自衛権の拡大解釈なのか、集団的自衛権の行使容認なのかについて整理は必要ですが。

 個人的には、「我が国に対する(中略)武力攻撃が発生する明白な危険」がある場合と、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明確な危険」がある場合との間に、大きな差分があるとは思えません。この辺りは、多分に言葉遊びの世界であり、象徴性をめぐる争いなのだろうと思います。結局は、政府が具体的な状況に即して解釈することになるのでしょうから。

 他方で、維新案には明確な抑制性もあります。一つは、対象地域を「我が国周辺」に限定していること。いま一つは、自衛権を行使する対象を「我が国の防衛のために活動している外国の軍隊」に限定していることです。これによって、いわゆる「地球の裏側」論を排除し、政府答弁の中で繰り返し言及されてきたホルムズ海峡のような事案を排除できるということでしょう。この点については、政府答弁が稚拙な印象を与えたところもあり、国民の間で支持する向きも強いのではないでしょうか。

 気になるのは、維新の案の基層に、個別的自衛権を拡大解釈する方が、集団的自衛権を行使するよりも抑制的であるという発想があることです。これは、国会審議の中でも見られた傾向でした。有事に際して、個別的自衛権を拡大解釈する発想が本当に抑制的な政策につながるのか、この辺りには安保論議をめぐるパーセプション・ゲームの罪の部分が現れていると思います。

「グレーゾーン」への対応

 維新の対案のもう一つの柱は、民主党と共同で提出した領域警備法です。これは、必ずしも安保法案への対案というわけでもないのだろうと思いますが、実務的に重要な問題意識を含んでいると思います。

 そもそも、グレーゾーン事態への対処は、公明党との与党協議の過程を通じて次第に焦点から外れていったと報道されています。尖閣近海における中国船への対応など、現実に対応を迫られている難しい事案を含んでおり、与党内及び国民感情への配慮からはずされたということでしょうか。

 今般提出された領域警備法のポイントは、領海の警備を第一義的に担っている海上保安庁の運用に無理がある部分について、海上自衛隊が肩代わりできるようにすることです。実際、日本近海における中国の動きが活発化するにつれて、量的にも質的にも海保の能力の限界を超えつつあります。海保の現場は休日返上で不審船への対処にあたり、しかも、対潜水艦や対航空機への対処はそもそも想定されていないのですから。

 このような運用上の問題意識は従来から存在してきたものであり、海保の能力も増強されてきましたが、海上自衛隊との役割分担を整理することは良いことだろうと思います。今回、野党第1党と第2党が共同提出に至ったことは、民主党が一度政権を担当したことの良い影響だろうと思います。すくなくとも、安保法制をめぐる議論が違憲論に終始し、あるいは根拠が不明確な徴兵論に時間を費やすよりはよほど建設的です。

 ここでも、今般の領域警備法は抑制的であり、政府案は好戦的だという単純な理解では間違うでしょう。どの段階で海上自衛隊を出すかについては、実務的には非常に難しい判断です。下手な運用を行うと、先に軍隊を出してきたのは日本であり、日本が事態をエスカレーションさせたということになりかねません。大切なのは、運用の詳細を含めてしっかり設計し管理することです。

実を捨てて名をとった政権

 野党による対案提出の流れを理解するには、そもそも、今般の安保法制をめぐる政権側の政治的な意図についても理解する必要があります。

 政権としては、集団的自衛権の行使容認は、最近はあまり使われなくなった戦後レジームからの脱却の大きな柱ということになるでしょう。集団的自衛権について、権利は有するが、行使はできないというのは、極めて戦後日本的な世界観です。政権としては、なんとしてもこの世界観を崩したかったということでしょう。

 今般の安全保障法制において集団的自衛権を行使できるのは、いわゆる「新3要件」が満たされるときです。特に、その第1要件は、日本が他国を防衛できるのは、「他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」ときです。我が国の存立が脅かされているわけですから、これは殆ど個別的自衛権の行使として想定される事態と変わりません。

 今般の安保法制があることで新たに対処できるようになる具体的な事態は想定しにくく、実際には殆ど使えない法律なのです。では、何のためにこんな大騒ぎをしているかというと、繰り返しになってしまいますが、とにかく集団的自衛権を行使できるようにしたという象徴性が大事だからです。そして、その政治的象徴性は、確かに大きな一歩ではあります。

 集団的自衛権の行使容認をめぐる論議は、第一次安倍政権時からの懸案であり、数年間練られた上で国会に提出されました。その過程では、もう少し踏み込んだ方向も検討されたようですが、結果的には実を捨てて名がとられました。

 そして、どうして名をとったのかが重要なのです。ここから先は、誰も認めないだろうと思うけれど、日本が自国の安全保障を日米同盟に依存している現実を考えたとき、朝鮮半島有事や台湾海峡有事において集団的自衛権を行使しない選択肢があるようには思えません。実際には、朝鮮戦争に日本は従事しているのです。一般国民はともかくメディアや学者や政治家の少なくない人々がそれを知っている。平和国家と言いながら国民向けには皆で隠蔽する。戦後日本の最大の陰謀の一つかもしれないとさえ思います。これまでの政権は、それを理解していながら法整備を怠ってきたわけです。いざというときには超法規的な対応を行うしかないと腹を括っていたのかもしれません。法規と現実の間の乖離が大きくなりすぎることの最大の問題は、法遵守のタガが緩むことです。

 どんな形であれ、集団的自衛権を認めさせることで、米軍との共同訓練も可能になるし、有事への備えもより現実的に行えるという側面があるのです。

安全保障論議の成熟

 このように見ていくと、与野党は安全保障上の脅威に具体的に対応するというより、象徴性をめぐるパーセプション・ゲームを戦っています。このような国内政治的な駆け引きに対して冷めた見方をする向きもあるけれど、ある程度はしょうがないでしょう。政争は水際までという理想を持つことは重要だけれど、安全保障政策がとことん政治化されてきた日本の政治風土の下では一朝一夕には実現しないでしょうから。

 今回の維新の対案提出を日本における安全保障論儀の成熟に向けた画期とするならば、そもそも安全保障論議の成熟とは何か、イメージを共有することが大事でしょう。

 安全保障論議の成熟のためには、政策の前提となる国家のアイデンティティーについて、ある程度のコンセンサスを得ることが重要です。最低限の知識と価値観を共有する議員が与野党双方に存在し、お互いに信頼感を持つような状態になければ、行政府は立法府を信用しません。そうでないと、政策はどうしても「よらしむべし、知らしむべからず」になってしまいます。

 例えば、「日本は平和国家として好戦的政策や、挑発行為には加わらないけれど、国防の備えは十分に行い、自衛隊の練度を維持しながら、日米同盟を機能させるための努力を継続的に行う」ということです。文字にすると当たり前のことと思うけれど、この程度のことさえ長らく共有できてこなかったのだから、そこからはじめるべきなのです。

 そのような土台ができたならば、対外的な脅威の中身や、同盟の役割分担や、自衛隊の装備や、自衛隊員の待遇とケアの問題や、外交上の大戦略や、個別国との緊張緩和に向けた取り組みについて議論してほしいと思います。

 そうすることで初めて、安全保障と民主主義を両立していくという成熟国が抱える永遠の課題を解く舞台に乗ってくるのだろうと思います。

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