山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

安保法制について(3)―国会で議論されるべきこと

建前と誤魔化しを廃した安保論議

 安保法制の国会論議が始まります。先般の党首討論を見る限り、日本が直面する安全保障環境をどのように捉え、それにどのように対処していくべきかという根本において与野党間の認識が食い違っているようです。戦後日本の大きな転換点ですから、根本の部分を議論するのはいいと思うのですが、同時に、今日の安全保障をめぐる実質についても、かみ合った議論を期待しています。

 これまで申し上げてきたとおり、山猫日記は、今般の安保法制の整備について基本的には賛成の立場です。だからと言って、それは政府への白紙委任を意味しませんし、今般の安保論議そのものには危うさも感じています。

 今般の安保法制の特徴は、日本の安全保障に関連した様々な「事態」を切れ目なく扱っているということです。

 日本にとって最も厳しい状況が「存立危機事態」です。このような状況において日本の安全保障を担保するためには、米軍との一体運用が前提です。集団的自衛権を行使する事態も当然想定されます。それは、現代戦における軍事的要請であると同時に、攻守同盟を支える政治的基盤でもあるからです。政府や国会が法整備を怠った結果、現場の指揮官に超法規的判断を押し付けるようなことはあってはいけませんから、法整備は必要でしょう。

 日本の安全保障には直接的には影響しない「国際平和共同対処事態」においては、そもそもの介入の必要性や効果の方を重視すべきと思っています。過去の安全保障論議の特徴であった、後方支援か否か、戦闘地域か否かといった介入の態様よりも、そもそも、どのような地域紛争には介入すべきなのかという視点です。その際に最も重要なのは、仮に法的には介入が可能であったとしても、政策的に介入すべきでない場合について議論を深めることです。

 さて、本日申し上げたい一番のポイントは、安保法制に関する国会論戦が、建前と誤魔化しの議論となってはいけないということです。

 思うに、過去の安保論議には、攻める野党側が経緯論や原則論を繰り出し、政府与党側が細かい字句解釈や官僚答弁で応じるという構図でした。それは、複雑かつ脆弱な基盤の上に成り立ってきた憲法解釈をギリギリのところで切り抜けようという発想に基づいていたのだと思います。その結果出来上がった、安全保障の法的基盤は、よくできたガラス細工のようで、精巧ではあるけれどひどく脆いものでした。

 しかも、冷戦後の20年において、歯止めが機能することは殆どありませんでした。かつてこの国に存在した歯止めの多くは既にありません。自衛隊を海外に派遣しないとする制約も、防衛費をGDPの1%以内に抑えるという制約も、武器輸出を原則行わないという制約もなくなりました。今般の法整備を経て、集団的自衛権をめぐる憲法解釈も変わります。

 私は、それは時代の要請であり、正しい変化だったと思っていますから、その方向性自体を批判する意図はありません。しかし、それだけの変化を経てなお、日本の安全保障をめぐる議論のレベルに不安があるということです。今日の日本において、実質的に残っている歯止めは、非核三原則憲法9条第1項の平和主義くらいでしょうか。

 日本の安全保障をめぐる環境は厳しさを増している今日だからこそ、もう少しリアルな安全保障論議が必要なのです。割れている世論の支持を獲得するために正攻法の議論を避けるということはあってはなりません。国会の論戦は、国民の懸念や、分かりやすい歯止めを求める議論に配慮するあまり、偏った議論になっていないか。リスクを過小評価し、ありそうもない特殊な事例や、国民から見て「優しい」と思われる事例で説明をしていないか、という問題意識です。

 政策の重心と限界を説明するための事例は、ど真ん中のものであるべきです。それは、世界的な安全保障の趨勢を踏まえたものであると同時に、歴史的教訓を踏まえている必要があります。本日は、私が特に重要と思っているシナリオに引き付けながら考えていきたいと思います。一つは、南シナ海における事態であり、いまひとつは邦人保護に関する事態です。

南シナ海をめぐるシナリオ

 南シナ海における中国と他国の間で緊張が高まっています。これまで、ある意味、口先だけで懸念を表明してきた米国が現場海域に軍事的リソースを配分し始めたことによって、世界的な注目も一気に高まっています。米国から見たとき、日本が集団的自衛権を行使できることが最も重要な事例は、かつては朝鮮半島有事においてでした。足下においては、南シナ海へ期待が高まっているようです。

 米国から南シナ海での警戒活動や監視活動を共同で行うべく依頼されたとき、日本はどのように対処するのでしょうか。南シナ海での公海上での活動を想定した場合、日本のシーレーン防衛の観点からも重要な地域ですから、現行でも国際法や国内法の制約の下で活動ができないわけではありません。したがって、直ちに集団的自衛権云々の話ではありません。

 しかし、中国とベトナムやフィリピンが具体的に係争している領域に米軍とともに出て行くとするならば、何らかの事態に発展することも当然予想されます。中国の南シナ海における領土・領海の主張はムチャクチャですし、日本は力による一方的な現状変更を非難してきました。ということは、中国からすれば日米の艦船は明確に敵と映っているでしょう。

 中国の人民解放軍は、必ずしも現場まで統制が効いていませんから、日本の艦船に対して冒険主義的な行動に出てくるとも限りません。その時、中国の指導部は、民衆の「愛国無罪」の感情を押し戻すだけの指導力を発揮するか、それとも既成事実として利用する方向に動くか、当の中国自身を含め、誰にも分からないのです。

 最初は、集団的自衛権をめぐる事例ではなかったことが、あっという間に「存立危機事態」に発展することは、当然、想定の範囲内でなければならないでしょう。安全保障の現場とは、法律解釈を厳密に行えるような静的な環境ではなく、動的にどんどん事態が展開する世界なのですから。

 それでは、何もしないのかと問われればそれも難しいわけです。過去数年の間、日本外交は、尖閣諸島日米安保の適用範囲内であることを米国に認めさせるために多大な労力をかけてきました。米国は、ヒラリーが国務長官時代に明確に認め、先の日米首脳会談においてオバマ大統領も明確に認めました。それは、日本外交の勝利であったとは思うけれど、その代償は何かということも考えなければいけません。

 米国のコミットメントが日本の安全保障の鍵であり続ける状態は、当分変わりそうにはありません。他方で、米国は世界の警察であることをやめ、次第に内向きになっていくことも時代の趨勢でしょう。そこから導き出される必然的な結論は、米国のコミットメントを引き出し続けるための代償は、高まり続けるということです。

 かつて、小泉政権イラク戦争における米国の軍事行動を「支持する」と言ったとき、北朝鮮との緊張関係を抱え、安全保障を米国に依存する日本に他の選択肢はなかったということが議論されました。南シナ海において日本が行動に出ることは、今日においては慎重に判断されるとは思いますが、5年後の判断も果たして同じかということは考えなければなりません。

邦人保護をめぐるシナリオ

 取り上げたい二つ目のシナリオは大規模な邦人保護をめぐる事例についてです。大規模というのは、治安が不安定な地域における旅行者やジャーナリストを狙った単発のテロというよりも、日本人を狙ったことが明確な、より組織的な「攻撃」を想定して言っています。

安倍政権は、これまでの安保法制をめぐる説明において邦人保護の側面を強調してきました。米軍の艦船に邦人が乗船しているときに、当該艦船が攻撃を受けたといった事例です。正直、そのような事態のリアリティーについては疑問があります。

 むしろ、東シナ海尖閣諸島海域において、日本の漁船や抗議していた市民が中国船に拘束された場合はどうでしょう。攻撃されてり、沈められたりした場合はどうでしょう。中国船が、いわゆる「武装民間船」であった場合はどうでしょう。それは、日本国民の生命が根底から覆される明白な危険がある事態ということになってくるはずです。

 事態が、東シナ海ではなく中国国内において生じた場合、複雑性はさらに増してきます。大使館や領事館などの公的な施設のみならず、中国国内に無数に存在する日系企業の工場が占拠され、日本人が人質に取られるということもあるかもしれません。中国における日本人に対する感情や、無数に発生している騒擾事件を踏まえれば、残念ながら、考えられないシナリオではないでしょう。中国政府への不満を表明するために日本人がスケープゴートにされたという事例は過去にも存在したのですから。

 現代の国際法は、外国人保護は領域国の責任ということで成り立っています。ここでも、問題となるのは、中国が「愛国無罪」の原則を優先する場合、日本にはどのような選択肢があるかということです。そのような事態が、第三国で生じた場合にはどうか。攻撃されたり、人質とされたりした中に邦人以外にも米国人やその他の国民が交じっている場合はどうか、など考えるべきシナリオは無数に派生形が存在しえます。

 先般の党首討論において、安倍総理は他国の領土・領海・領空での集団的自衛権行使について否定的な答弁をされたけれど、果たしてそのような単純な線引きが成立するかどうか。邦人保護については、現行法上も独自の法的枠組みが存在するけれど、現場の状況が流動的な場合には、それがいつ存立危機事態へと発展しないとも限りません。

 自国民保護をめぐる事例は、各国においても非常に悩ましいとされている分野です。民主的に選ばれたリーダーにとって自国民を保護すべきというプレッシャーには当然強いものがあります。自国民が、意図的に、組織的に狙われて殺され、あるいは辱められたとき、政府や国民が自制できるかというのは今も昔も難しい問題です。

 同時に、過去の戦争の多くは自国民保護の文脈の中で始まり、あるいは拡大してしまったという歴史的な事実もあります。自国民保護が、暴力の連鎖的拡大を通じて自国民をより大きな危険に晒す結果となってしまったということも、歴史の教訓なのです。戦前の日本も、大陸における自国民保護の文脈で戦線を拡大したわけですから。

各シナリオは動的に展開する

 以上にあげた二つの事例には、明確な正解はありません。一つだけ言えるのは、政権にも国会にも物心両面の準備が必要ということです。すべての事例を予め想定し、議論しておくことはもちろんできないけれど、どのような原則に立って対処するべきかという枠組みができていることが重要です。その枠組みを作り上げるためには、最新の軍事技術、現場の軍事オペレーション、戦争の歴史、国際機関や国際的な世論の読み、各国の国内政治の理解、などの変数を理解する必要があります。

 そして、この枠組みは、政府のみならず国会の主だった面々の間で、ある程度の共通理解となっていることが望ましい。そうでなければ、事前に国会が民主的統制を図ることも実質的にはできないからです。そこに、政権の揚げ足を取ることだけが目的の野党しか存在しなければ、政権や官僚機構は、「よらしむべし、知らしむべからず」の発想へと閉じこもってしまうでしょう。安全保障の世界にも、民主主義の競争的要素は必要だけれど、最後は、政争は水際までという発想が重要になります。

 平和を守り、国民を守るというときには、様々な事態を想定したリアルな議論が欠かせません。それは、法的な歯止めをめぐる字句解釈を超えたものです。はっきりいえば、いざと言うときに法律上の歯止めは殆ど役に立たないと思っています。意味のある歯止めは、リーダーの能力と、日本の民主主義や社会の文化の中にしかありません。そして、民主主義が正しい判断を行うためには、オープンで実質的な言論を行う以外にありません。国会には、実質的な議論を期待するという以上の、重い重い責任があるのです。

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