山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

安保法制について(1)

歴史的な政策変更

 安倍総理は米国上下両院での演説で、夏までに安保法制を整備するとしました。安保法制は事実上の国際公約となったわけですから、ゴールデンウィーク明けの国会は荒れ模様となるでしょう。本日は、そんな安全保障法制について取り上げたいと思います。

 総理の訪米から明らかとなったのは、米国は安保法制の整備を歴史的な政策変更であると理解していることです。日米の外務大臣及び防衛大臣が参加した2+2会合の記者会見では、安保法制の整備について、南シナ海での日米協力の可能性と絡めた質疑がありました。米国の期待値がこの辺りにあるのだとすると、日本は難しい判断を迫られることになるでしょう。政府与党の中には安保法制を、それこそ粛々と進めたいという本音が見え隠れしますが、国会でも、政策変更の重要性を正面から捉えた討議が必要でしょう。

 心配なのは、国会論戦に先立って、民主党が進める安保法制について反対の意思を鮮明にしたことです。リスクを伴う大きな政策変更ですから、反対すること自体を云々したいわけではありませんが、かつての社会党のような神学論争的反対論や、国会審議前に米国にコミットしたことを問題視するような手続き的反対論に終始するならば国民の認識も深まらないでしょう。野党第2党の維新も、大阪都構想住民投票を前にあまり本件には力が入っていないようで、集団的自衛権自体には賛成でも政府の進め方には不満があるようです。共産党社民党は伝統的な反対の立場を維持していますし、いよいよ徹底抗戦の構えを見せてくるのではないでしょうか。

 テーマが安保法制の整備である以上、法律論を展開することは当然ですが、最初に申し上げたいことは、安全保障論議を法律論だけに押し込めて語ってはいけないということです。私の書いたりしゃべったりしたものに触れていただいている方にはおなじみの主張ですが、日本ではまだまだ少数派の認識なので、この点は強調しておきたいと思います。

 つまり、日本の安全保障環境をめぐる情勢認識が最初にあって、それを踏まえてどのような安全保障政策が必要かという議論が必要だということです。その上で、必要な安全保障政策を実現するために法律論はこうなるという順序でないと、話がおかしくなります。日本の安全保障論議は、この点をあべこべにしてきた結果として何十年にもわたっておかしなことになっていました。

安全保障環境は変わったのか

 さっそく、情勢認識から考えましょう。日本の安全保障環境を考察する上で大きな変化は以下の3点です。最大の変化は、中国の継続的な軍拡です。経済規模では、ついこの間まで拮抗していた日中ですが、あっという間に2倍水準に開いてしまいました。経済規模を反映して、軍事予算においても圧倒的な差が生じています。その差分はわかっているだけでも相当なものですが、中国の軍事予算の不透明さは周知の事実ですから、実際には、東アジアの軍事バランスは相当程度掘り崩されていると認識すべきでしょう。

 拡大した防衛予算を使って、中国は本格的な外洋艦隊を配備し、空軍力の高度化をはかっています。宇宙やサイバー空間などの新しい戦場への進出も積極的です。外交面でも攻勢を強めており、中国に飲み込まれないように本気で抵抗しようとしている東アジアの国は数えるほどしかありません。多くの東アジア諸国は、何とかやり過ごそうとしているという印象です。

 次の変化は、北朝鮮の核保有国化です。かつては、核保有は認められない、その一線を越えたらレッドラインだということが語られていましたが、今は昔です。何事も隠された国ですからはっきりしたことはわかりませんが、北朝鮮は20発程度の核弾頭を保有し、大陸間弾道ミサイルに搭載可能なレベルで小型化にも成功しているとの情報もあります。かつての日本や、韓国であれば耐えられなかった危険な状態が、既成事実化しているのです。

米国の内向化

 以上の点と対をなすのが米国の相対的国力の低下であり、そのような認識に基づく米国民の内向き志向の広がりです。米国の軍事技術、軍事予算、部隊の運用能力は、当分の間は圧倒的な存在であり続けるでしょう。しかし、米国は超大国であり、軍事大国であると同時に民主主義の国であり、国民の意思がとても重要なのです。米国民の多くは、国力を無駄に消沈した中東の紛争に嫌気が差しており、世界の警察としてあらゆる紛争に参加する意思はもはやありません。この姿勢は、もちろんオバマ政権の間に顕著になったものではありますが、次期大統領が民主・共和のどちらから出てもある程度継承されていくことになるのではないでしょうか。

 識者の一部には、米国が進めるリバランスやアジア重視(=Pivot to Asia)政策を指して、東アジアに関する限り米国のコミットメントは不変であると主張される方もいます。米国の主張を字義通り受け取るならば、そのように考えたくなる気持ちはわかるのですが、米国がかつてのような強い意思をもって朝鮮半島有事、台湾海峡有事、南シナ海東シナ海有事にコミットすると考えているとすれば、さすがにそれはナイーブでしょう。これは、米国の安全保障や外交政策だけを見ているだけではわからないかもしれませんが、米国の内政を観察していれば自明です。

 もちろん、これは米国がただちに世界から引いていくということを意味するわけではありません。当座は、同盟国に対してより多くの負担を求めるべく説得する期間が続くはずです。同盟国から引き出しうるコミットメントの度合いと、米国自身の当該地域から得られる国益を考慮して具体的な検討が進められ、しかも、平時の意思決定と有事の意思決定が微妙に絡まりながら進行することになるでしょう。

 軍事技術の進化も米国と同盟国のより緊密な連携を後押ししています。現代の安全保障を担うハイテク装備は、情報技術の塊のようなものであり、もっとも大切なのは情報・指揮系統の一体化です。現代のハイテク戦においては、一体化していない軍隊の連合は実戦ではほとんど役に立たないのです。

 集団的自衛権は有していても、行使できないという世界にいつまでもとどまっていては、米国との共同運用を前提に成立する日本の防衛力が実際にはたいして役に立たないということになりかねないのです。防衛力が役に立たないということは、すなわち、抑止力が役に立たないということですから深刻なわけです。

 中国はリアリズムの国ですから、日本政府がどのような国会答弁をしようと集団的自衛権を行使しないとは思っていないでしょう。問題は、建前の法解釈を前面に出した結果として、実際には超法規ないし、違憲な判断をせざるを得ない状況に現場や政権が追い込まれることです。そのような事態を避ける観点からも、集団的自衛権もはじめから認めておくべきなのです。

 もちろん、以上に申し上げたことは多少ものごとを単純化していますし、今日整備しなければ明日危ないという類のものでもないでしょう。実態は、日本が長らく抱えていた宿題にようやく答えを出そうとしているということです。

新3要件は国際法をさらに狭めたもの

 そして、このような事態において集団的自衛権の行使を可能とするための基準が、いわゆる新3要件です。きちんと字句レベルで認識することが重要ですので、具体的に見ていきましょう。

(1)我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること =「明白な危険」

(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと =「代替手段が欠如」

(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと =「必要最小限度」

 新3要件は、この分野の国際法とも整合しながら、日本国憲法専守防衛の考え方に基づいて、国際社会が求める水準よりもいっそう抑制的に定められています。

 国際社会における一般的な集団的自衛権の理解は、同盟関係にある国家が、他国に対する危険を自国に対する危険とみなして自衛権を行使するというものです。その際、必ずしも自国が明白な危険を受けている必要はありません。上記の第1要件から明らかなとおり、今般の新3要件では、自国(=日本)の「存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」が必要ですから、行使の要件は個別的自衛権の発想に近くなります。

 また、第3要件の必要最小限度の実力行使についてですが、武力行使の程度をめぐる国際法上の基準として、武力行使の「均衡性」の原則があります。そこでは、自衛権を発動して武力行使を行う場合は、侵害と均衡するレベルではなければならないと理解されています。字面だけから判断すれば、日本の新3要件上認められるのは、必要最小限度の実力行使だけですから、国際的な基準よりも半歩抑制的であると解釈できるのです。

 もちろん、あんまり細かい字句解釈をつついても答えは出てきません。実際の運用においては、解釈の積み重ねが重要ですから、抑制的な文言を非抑制的に運用することも、その反対も可能だからです。だからこそ、安全保障の世界は、法律解釈の世界から出ないとリアリティーのある議論とならないのです。

具体的にはどこが限界事例か

 以上に取り上げたような状況は、「武力攻撃事態」、あるいは「存立危機事態」と表現され、日本の防衛が危機にある状況です。大切なことは、それが、実際にはどういう事態を想定しているのかということをリアルに考えることです。日本人を乗せた米国艦船が攻撃を受けたというようなマイナーな事例ではなく、ど真ん中の事態を想定して議論すべきなのです。このあたりを正面から議論しようとしないのは、民主主義のあり方として健全とは言えません。

 普通に考えれば、東シナ海有事、朝鮮半島有事、台湾海峡有事などが想定されるでしょう。もちろん、今日では、日本の安全保障が脅かす事態が宇宙からやってくるということもありうるシナリオですので、その意味では地理的な概念は多少あいまいになります。とは言え、メインシナリオは、当然地理と深く結びついています。

 そこでは、近代的な軍隊による攻撃が想定される場合もあれば、テロと識別が難しいような少数の特殊部隊による攻撃の場合もあるでしょう。民間人を装った事実上の武装集団が、日本の領海や領土に大量に押し寄せるというシナリオも想定されます。武装集団と難民の判別が難しい場合もあるかもしれません。様々な事態が想定されますが、以上に申し上げたシナリオは、世界の他の地域で現に発生しているパターンです。

 限界的な事例として難しい判断を迫られるのは、冒頭に指摘した南シナ海においてでしょう。中国の一方的な攻勢に対して、フィリピンやベトナムは効果的に対処することができていません。米国は、中国の姿勢を批判はしても、これまでは直接的な行動には出ていませんでした。今後、米国がもう少し積極策に転じ、自衛隊への協力を要請した場合、日本はどこまで行動する用意があるのでしょうか。対潜水艦の哨戒活動は行うのでしょうか。中国海軍が機雷を敷設した場合に、掃海活動はするのでしょうか。様々なシナリオを想定しうる問題のすべてに事前に答えを出すことはできませんが、こういうことをきちんと議論しておくことが重要なのです。

ごまかしてはいけない

 そういう意味では、現在、注目されている事例には偏りを感じます。頻繁に登場するペルシャ湾における掃海という事例は、中東の不安定さを踏まえると一定程度リアリティーのあるシナリオです。しかし、中東のエネルギーが日本経済にとっていくら重要であると言っても、それが日本の、「存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」であるとまでは言えないでしょう。日本のエネルギー備蓄の限界を超えてエネルギーが確保できなければ、国民が餓死するような事態も想定できると主張する向きもあるようですが、さすがに無理スジです。

 安保法制は、日本の防衛のためには日米同盟が機能することが重要であり、そのために集団的自衛権の行使が必要という本筋からはじめるべきです。それは現代戦の現実を踏まえた技術的な要請でもあるし、攻守同盟というものの本質としての政治的要請でもあります。長らく、基地と防衛を均衡させてきた日米安保体制を普通の同盟に近づけていくことは、安全保障環境の変化を踏まえた時宜を得た判断です。

 だからこそ、その判断に対して国民が疑義を感じるようなごまかしの説明や事例は日本の民主主義にとって不健全なだけでなく、日本の安全保障にとっても良いことではないのです。

 次回は、「国際平和共同対処事態」などの日本の防衛とは直接的には関係のない状況について考えたいと思います。

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