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山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

テロと自由と日本社会

 日本人2名がイスラーム国の人質となるテロが発生しました。テロリスト達は、安倍政権の中東政策を反イスラーム国的であると断じた上で、2億ドル(=約238億円)の資金を支払わなければ、人質を殺害すると予告しています。今般のテロ行為は、総理の中東歴訪のタイミングに合わせ、日本国民と世界の注目がもっとも集まるタイミングを狙ったものです。イラクやシリアでの戦闘で力をつけ、欧米人の殺害を繰り返してきたイスラーム国のテロリスト集団としての錬度を見せ付けています。

 事態に対処する政府担当者からすれば、人質の一人である湯川さんの拘束から既に数ヶ月が経過しており、危機対処のマニュアルは整備されているはずです。まずは、従来からの方針に基づいた対処を進める以外にないのだろうと思います。

 日本国内の反応は、これまでも人質事件に際して繰り返されてきた構図を踏襲しています。一方には、テロリストとは絶対に交渉してはいけないのだという原則論を繰り返す者、一人の命は地球よりも重いと言ってテロに屈してしまったトラウマを抱えている者がいます。他方には、今般のテロを安倍政権が進めてきた集団的自衛権の行使容認等の政策と関連させて、それみたことかというトーンのもの、そもそもイスラエルなんかを訪問するから駄目なんだという意見まであるようです。

 今回の人質事件への反応は、パリで起きたシャルリー=エブドに対するテロへの反応と併せて捉えることで、見えてくるものがある気がします。シャルリー=エブドに対するテロ、表現の自由に代表される価値観をテロから守るとの連帯を示すために多くの首脳が参加したデモ、そして、ムハンマドを風刺した同誌の最新号への反応などは、いやがおうでもその社会のテロや自由についての考え方を浮き彫りにしました。

 日本国内の反応は、もちろん、テロを非難するものでした。それは、今回の人質事件でも一緒です。もちろん、罪のない具体的な犠牲者の死には圧倒的な不条理があり、テロを非難すること自体は当たり前です。私が驚いたのは、多くの識者が、表現の自由世俗主義の価値観を早期に相対化する発言を始めたことです。もちろん、様々な意見がありましたのであまり乱暴にまとめるべきではありませんが、大多数が、喧嘩両成敗的な感情に基づいていたような気がします。つまり、テロも良くないけれど、宗教を侮辱するのもよくないという、両者を同一次元で捉える考え方です。日本社会には、テロについて、自由の価値という原則から捉えるのではなく、大岡裁きのような穏便な解決を志向する発想が主流だということでしょう。

 欧米人の多くはなかなか理解できないでしょうが、日本のリベラルは、自分達の自由が危機にあるとは感じていないようです。米国のリベラルが、オバマ大統領やバイデン副大統領がパリのデモに参加しなかったのを問題視したのに対して、日本のリベラルは安倍政権の不参加を特段問題視しているようには思えないのはどうしたことでしょう。そこには、テロや戦争や自由について突き詰めて考えてこなかったこの国の姿があるように思います。

 テロというのは平時におきる犯罪です。シャルリー=エブドで起きたことは殺人であり、それ以外の理解を持つことに対しては、我々は相当慎重でなければなりません。そして、犯罪に対しては、予め決められた法に従って対処するのが法治国家の大原則です。テロリストと交渉してはいけないというのは、それが新たな犯罪を誘発する可能性が高いからですが、何よりもそのように対処すると予め決めているからです。

 対して、戦時であるところの戦争にはまったく異なる原理があります。戦争という状況は、敵対行為が継続することが自明である状況です。今般の人質事件をめぐっては、安倍総理が訪問中だったこともあり、長くテロに対処してきたイスラエルへの注目が高まっています。そして、イスラエルがテロに対して強硬であるという言い方がされる。しかし、多くの場合、その認識は間違っています。

 ゲリラ攻撃が繰り返される「戦争」を続けるイスラエルは、実は、絶え間なくテロリストと交渉してきました。しかも、社会における人的犠牲の許容度は先進国の方が低くなりますから、不利な取引を続けてきたとも言えます。強硬な態度の代表格の例としてよく引き合いに出される、1976年のエールフランス旅客機ハイジャック事件におけるエンテベ空港救出作戦でも、イスラエルのラビン首相は直前まで交渉しようとし、かつ突入作戦に迷いがあったことが近年の機密文書の公開で明らかになっています。イスラエルは、数人の捕虜の交換のため、あるいは、殺された兵士の遺体と引き換えに数百人やときに千人以上の戦闘員の釈放に応じてきました。戦時というのは、犠牲と隣り合わせの世界であり、予め決められた原則に基づいて行動することができない世界なのです。

 そこには、世界には悪が存在するけれども、それでも共に生きていかなければならないという厳しい認識があります。テロリストとは交渉しない!の一点張りでは生きていけない世界があるのです。

 日本社会にとってより身近な拉致をめぐる北朝鮮との交渉に引き付けて考えてみましょう。北朝鮮は、国家単位でテロを行ってきた集団であり、今なお自国民の基本的自由を侵し続けている独裁国家です。その意味では、あくまでも信用できない相手です。苦しいのは、それでも、我々は彼らと共に生きていかなければいけないという事実です。北朝鮮に対して、強硬策一辺倒を主張するのは実は楽なのです。信用できない相手との交渉の難しさも、結果の後ろめたさとも向き合う必要がないからです。

 イスラーム国の人質事件と、シャルリー=エブドに対するテロと、北朝鮮拉致問題を比較することには、もちろん、無理があります。一歩引いた目で見たとき、日本社会はテロや自由について考える作業を、米国が提供する秩序によりかかって行ってきたということです。米国が提供する秩序は、米国の国益のためにありますので完全な安全でも完全な自由でもなかったわけですが、相当程度心地よい環境だったことは間違いありません。

 それに対して、戦前の社会は、帝国主義の弱肉強食の世界であり、邦人が「テロ」の被害にあうことも多かった世界です。日本は、それに対して間違った対処をし、特に中国大陸の争いの泥沼へとはまっていったわけです。

 日本国内の冷戦とは、左右両陣営がこの秩序に反対するものでした。左派は米国が提供する秩序に本質的な不正義があるとし、右派は、日本がより主体的な意思決定主体となることを求めました。圧倒的多数の実務家達は、しかし、この心地よい秩序の中で生きていく道を選びました。それはのっぴきならないところまでいくことは少ない世界であり、左派も右派も米国の提供する秩序に甘えることができた世界でした。

 政権が進める戦後レジームの転換というのは、本質的には、この甘えの構造を断ち切ることだと見てよいでしょう。多少疑問を覚えるとすれば、その転換が日本の意思に拠っているという前提でしょうか。つまり、転換しない自由があるという認識ですが、本当にそうかということです。むしろ、戦後世界、冷戦後世界を支えてきた米国優位の秩序が退潮していくという現実と向き合うべきでしょう。

 グローバルな社会とは、新興国の存在が大きくなり、日本企業も日本人も治安の厳しいところまで出かけていかなければいけません。アルジェリアにおける人質事件に遭遇した日揮の例が典型でしょう。アルジェリアには、米国が提供する秩序が及んでおらず、今後、加速度的に及ばなくなるのです。中央アジア東南アジアの半島部は、既に違う指導原理で動いています。

 より厳しい差異が突きつけられ、正義と不正義の線引きが曖昧な世界で、我々はいかに生きていくべきでしょうか。今回の事件におけるイスラーム国と日本との不幸な邂逅を日本人の側から描いてみるとすれば、それは不条理との出会いであるということができるでしょう。不条理というのは感性で感じとるものです。一生懸命考えて、何とか一つの合理的な解を求め、解決しようとするその試み事態が不条理にもてあそばれている状態であるともいえます。

 例えば、イスラーム国はその残虐行為だけでなく、他のムスリムへ呼びかけ、拡張しようとし、過激な理念を提示しており、また文明の衝突を演出していることから、本質的に日本のいかなる理念とも折り合えないものです。イスラーム国を知ることは大切ですが、私たちが彼らのことを理解しようと努めたところで、理解できる、またはされるとは思わない方が良い、という自戒も必要です。

 不条理と向き合うには、グレーな世界の曖昧さに耐えねばなりません。だからこそ、最後の最後には、私たちが一体何を信じるのか、ということが試されるのです。

 人質事件に際して感じることは、政争は水際までであるべきだということです。テロへの対処については、ひとまず専門家の努力を見守りたい。その上で、危機にこそ現れる日本社会の課題と向き合う契機としたいと思います。

*補足)奇しくも昨日20日、池内恵氏によるイスラーム国の衝撃 (文春新書 1013)

が発刊しています。たいへん興味深く読ませていただきました。イスラーム国成立の思想的世界史的背景を知るために大変有用な書ですのでお勧めします。また、不条理の感性を肌身に感じたい方はアルベール・カミュの、シーシュポスの神話 (新潮文庫)ペスト (新潮文庫)異邦人 (新潮文庫)、をお勧めします。

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