5.17大阪都構想の住民投票について
大阪都構想の住民投票が直前に迫っています。もとより、多様な論点を含むテーマですが、本日はこの点について考えてみたいと思います。本件については、様々な識者がそれぞれの立場と思惑から発言をしています。私は、「政策論としての都構想」と「政治論としての都構想」を分けて捉えることが重要と思っています。
政策論として都構想を評価するには、地方自治をどのように捉えるかという根本が影響してきます。政治論としての都構想は、日本の民主主義のあり方に関わると同時に、現実的な政治的利害が関わってきます。また、住民投票の結果如何に応じて今後の日本政治がどのような展開するかという観点も重要になってきます。順に見ていきましょう。
まず、政策論としての大阪都構想には、地方自治をめぐる政治的立場に応じて見解が分かれているようです。私自身は、地方自治の意義は、分権的に地方が政策を競い合う社会を築くことだと考えています。地方自治の強化によって民主主義に伴う集合知が充実し、日本全体として、政治の質も、経済の活力も、文化の水準も底上げされると考えるからです。
その過程においては、競争に適応できずに住民サービスが劣化し、あるいは、経済の活力を失われる自治体も出てくるでしょうが、それは過渡期の現象として許容すべきと思っています。
もう少しはっきり言えば、全体として人口減少が進む日本において、すべての自治体が生き残るという発想にそもそも無理があるわけで、競争の結果として現在より縮小する自治体が存在するのは当然です。日本の民主主義と福祉国家制度は、すべてのコミュニティーを守ろうとするよりも、本当に弱い立場にある国民を守ることを重視すべきという発想です。現実的な「撤退戦の発想」と言えるかも知れません。
地方自治に関する報道や研究に触れる限り、おそらく、以上のような発想に立つ者は少数派なのだと思います。日本では、地方自治についていまだに東京と地方の間のパイの分配に話に帰着させてしまう議論が主流です。分配重視の地方自治論は、政治的な左右両側に分布しています。そこでは、自治という言葉のニュアンスにこめられた自助・自立の発想よりも、地方における短期的・物質的な恩恵に焦点があります。
地方自治を、福祉にせよ教育にせよ、もっぱら住民サービスの充実の文脈で捉える立場もあります。こちらは、どちらかというと左側の識者に多く、地方の産業よりも住民を重視しています。両者がともに「普通の市民」に対する分配に傾斜した発想であることには変わりません。
先の統一地方選でも、首長選挙や議会選挙で主張された地方創生の殆どがこの分配重視の発想です。安倍政権が掲げる地方創生には、これまでよりは自助・自立の発想がこめられていたはずですが。中央の思惑と地方の受け取り方は相当な同床異夢です。もともと計算された同床異夢だったと言えばそれまでですが、結果として本質的な論点がぼかされ、必要な改革の気運が削がれているとするならば、罪深いことです。
大阪都構想のもっとも評価できる点は、地方自治における根本の発想が自助・自立の発想に立脚していることです。もちろん、大阪は日本第二の都市であり、いわゆる地方ではありません。しかし、大阪都構想が、東京や日本全国から富を引っ張ってこようという発想に立たず、大阪が自ら活力を取り戻し、富を作り出していこうという発想に立っているのはとても健全です。
大阪が活力を取り戻すための一つの答えとして、成長戦略の立案や実行をはじめとする広域の自治は都の単位で行い、住民サービスは新たに編成される特別区が行うという発想は自然でしょう。二重行政の無駄を取り除くという議論に入る以前に、自助・自立の政策を立案し実現するためには現実的な規模という発想が大切だからです。
都構想を推進する橋下市長は、都構想を道州制の第一歩に位置づけています。道州制の最大の意義は自助・自立にむけて適切な規模の主体を作り出すことですから、ここでも基本的な発想は支持できるものです。
しかも、今日求められる自助・自立は、グローバルな競争の舞台においてです。それは、好き嫌いの問題ではなく、現に日本全体がこの競争に晒されているのです。中央の分配政策によってグローバル競争の結果が緩和されることはあっても、日本全体の財政が逼迫する中で、それはやがては地方にも波及します。もっとも、グローバル競争の結果生じた空洞化はまず地方で感じられるものであり、東京をはじめとする都市の方が却って鈍感なのかもしれませんが。
日本の地方活性化論は、実は1960年代の東京オリンピックの頃から言われています。「列島改造」論や「国土の均衡ある発展」論には、遅れていた地方の社会整備を進める上で一定の意味があったことは否定しません。しかし、バブル経済の前後には次のステージに移行していなければならなかった。過去20年の地方活性化論は、巨大な借金を作り出して未来の世代に負担を先送りしただけで、地方の自立には殆ど貢献しませんでした。20年やってうまくいかない政策は、今後もうまくいきません。
「大阪都にならなくても大阪の自立的な成長戦略は描けるはずだ」、「大阪都にならなくても二重行政の無駄は解消できる」、都構想に反対の議論は、論理的には正しくても、それではなぜこれまでそうしてこなかったのかという問いへの答えがありません。都構想に政策論として弱点があり、はっきりしないところがあるというのはそうかもしれません。しかし、ジリ貧の日本と、もっと厳しいジリ貧の大阪にとって、これまで提案されてこなかった類の、自立的な活性化策の提案であることは否定しがたいわけです。そういう意味で眺めてみると、政策論としての大阪都構想に細かい欠点があったとしても、根本の発想においてやってみる価値はあるのではないかと思っています。
もちろん、都構想への賛否がそれほど単純でないのは、政策論のみならず、政治論の部分があるからです。ここでいう政治論というのは、そもそも維新という政治勢力がどのような力学に則っているのかということと、今般の都構想がどのような政治プロレスによって展開されてきたかという複合的な意味で使っています。
維新というのは興味深い政治勢力です。その始まりは、大阪の公務員の過剰待遇問題という、自治の行き詰まりを踏まえて登場した、タレント候補の知事でした。現状のエリートに対する不満のエネルギーが、弁の立つタレント候補への支持という形で結実したわけです。その時点では、過去の青島幸男氏や横山ノック氏のようなタレント知事とたいして変わらないはずでした。面白かったのは、その後、維新が発揮した組織力です。大阪で自らの改革路線を実現するために府議会や市議会に一大勢力を築き、中央政界にも進出します。民主党、公明党、自民党の権力者とも巧みに交渉し、時に対立し、時に妥協しながら維新にとって有利な展開を構築してきました。
維新という政治運動の根本には、現状変更のエネルギーがあります。それは、反エリート主義という感情に立脚している場合もあれば、日本や地方の地盤沈下という閉塞感に基づいている場合もあります。大阪においては、大阪ナショナリズムともいうべき独自の地域感情もあるようですが、全国的には、過去数年の日本政治を動かしてきたマイルドな構造改革派という、有権者の塊です。小泉元総理を政権に押し上げ高い支持を与え続けたのも、民主党を政権の座につかせたのも、自民党の政権復帰を後押ししたのもこの有権者の塊です。そこにはメディアの力も多分に影響しており、全体として、マイルドな新自由主義的な気分と言ってもいいかもしれません。
東日本大震災から一年経ったころ、私は米国マーシャル財団の依頼を受けて震災復興戦略と日本政治の現状について解説する原稿(日英版あり、日本語版は以下リンク)
http://pari.u-tokyo.ac.jp/policy/policyissues_japanoneyearafter_120312.pdf
を共著で書きました。当時自民党は下野しており、私は菅現官房長官へのインタビューを初めとして、野党時代にどれだけ自民党の内部改革が進むかに着目して聞き取りを行っていましたが、想定読者である米国の識者は圧倒的に維新の持つ潜在力に興味を覚えていました。橋下氏は当時アメリカから見た日本の改革気運のヒーローだったわけです。
維新は、当時、マイルドな構造改革支持派の有権者の選好を部分的に捉えている結果として伸張したのです。部分的にというのは、同じくマイルドな構造改革派にありながら、維新のことが大嫌いという勢力も厳然と存在するからです。この維新に対する強い感情は、エスタブリッシュメント側の良識派的な方に多いように思います。私自身、維新の一部が醸し出すなにやらマッチョな感じや国士的雰囲気には相当な違和感がありますので、その気持ちは分からないでもありません。
維新の関係者が使うグレートリセットという言葉には、現状の閉塞感を一気に解決するという感情がこめられていますが、一つ一つ丁寧に積み上げていくことが美徳とされる日本の実務者にはなかなか受け入れられない発想です。もちろん、維新は大阪では実際に実務を担ってきましたので、進めている改革は一つ一つ積み上げられているものではあります。維新にはテクノクラートをうまく使いこなしているという面もあるようですが、政治運動のトーンとして肌合いが合わないということなのでしょう。
今般の都構想ということに引き付けて言うと、橋下市長をはじめとする維新のリーダー達が投入しているエネルギーには目をみはるものがあります。議会の中で多数派工作を行い、住民投票まで持っていく展開は日本の地方自治になかったダイナミックなものでした。住民投票が決まってからは、連日タウンミーティングを開催し、メディアにも頻繁に登場しながら住民の説得に努めています。橋下氏の個別の発言には、勇み足の部分も、少々品がない部分もありますが、住民を向いて、住民を巻き込んで物事を前に進めようという姿勢は、はっきりしています。
先般の統一地方選では、低投票率と無投票当選が続出しました。地方政治に大きな論点がないからと言えばそれまでですが、日本の民主主義における「よらしむべし、知らしむべからず」が長年積み重なった結果であるのではないでしょうか。維新のこれまでの活動が、日本人が、内発的に何かを変えようとするときの一つのモデルを提示していることは間違いないでしょう。
明治維新も戦後改革も、外圧を梃に絶対権力の下で進んだ改革です。本当の改革とは権力争いですから、きれいごとで進むことはありません。それでも、成熟した民主主義国となった日本が、自らが抱える課題と向き合い、言論をもって変化できるかもしれないというのは一つの希望ではあります。
最後に少し未来予想的な点に触れましょう。今般の住民投票には、日本政治の今後の展開に影響するオセロのピースのようなところがあります。
住民投票が否決された場合、橋下市長は政界を引退すると発言しています。日本政治において、立候補するか否か、辞めるか否かは嘘をついても咎められないという伝統がありますので、この発言を字義どおり受け取る向きは少ないでしょう。もちろん、小泉元総理のように本当にきっぱりと引退して国民を驚かせるケースもありますし、橋下氏の言動は小泉元総理のスタイルを髣髴とさせるだけあって、あまり安心していられない感じもあるでしょう。
しかし、国民投票が否決された後に却って勢力を伸張させたイギリスのスコットランド国民党の例もありますから、今度は、大阪という地域の枠を取り払った全国的な運動となっていくのではないでしょうか。この場合、住民投票直後の橋下氏の言動が重要になってくることでしょう。
反対に住民投票が可決された場合には、都構想の実現に向けて実務が動いていくということになるでしょう。この場合も、都構想の効果のほどがはっきりするまでには時間がかかりますので、二の矢、三の矢が準備されるはずです。維新のような政治勢力は、泳ぎ続けないと死んでしまう魚に似ているところがあり、絶えず改革の動きを繰り出していく必要があるからです。おそらく、政治のテーブルに上がってくるのは道州制でしょう。その動きが、憲法改正と絡んでくることもあるかもしれません。
5.17の住民投票がどのような結果になろうとも、日本政治を動かすことになるのは間違いないでしょう。