山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

安保法制(4)―不思議の国の潮目を読む

不思議の国

 潮目が変わった、という意見が増えているようです。憲法審査会の場で与党推薦の参考人を含む三人の憲法学者が安保法制について違憲との見解を示したことがきっかけです。左派勢力からは違憲論が、与党内からは不手際論が、メディアから思惑含みの政局論が飛び出してきました。1960年に、岸首相が安保条約と刺し違えて退陣した故事を引いて、安倍首相に対する因縁論まで出てきています。この種の議論には、予言の自己実現性という要素がありますから、永田町で緊張感が高まっているのは事実でしょう。

 私としては、三人の憲法学者の意見は、特段の驚きということではありませんでした。代表的な憲法学者の発言や著作に触れてきた方であれば、そうだろうと思います。憲法秩序の安定性を何よりも重視し、現実世界を法解釈にひきつけて線引きしようとする姿勢は法律家にとっては自然なものでしょう。しかし、三人の憲法学者の意見が、社会にこれだけ影響を与えるということは少し予想外でした。

 日本はいまだに「不思議の国」なのだなと。冷戦後四半世紀の国際社会の変化はこの国を本質的には変えてこなかったし、90年代のPKO以来の日本国内での議論はいったいなんだったのかという感慨です。日本の安全保障をめぐる議論は、本当に双六のはじめに戻っていいものか。安全保障政策の一大転換をめぐる議論が、憲法論にジャックされていいものか、ということです。

 これまでも申し上げてきたとおり、戦後日本の安全保障政策は、憲法解釈のごまかしの歴史でした。戦力の不保持と言われれば、軍事組織を「警察予備隊」と名付けました。認められる武力行使を「必要最小限度」の自衛権に限定し、その中身について延々とガラス細工の解釈論を積み上げてきました。今般問題となっているのも、この「必要最小限度」の線をどこに引くかということです。政府は、「新三要件」という限定をつけることで集団的自衛権も認められるとし、憲法学者の三人はそれに反対したということです。

断ち切れなかった甘えの構造

 国際紛争に触れてきた者の殆どはペシミストです。世界がいかに暴力と不正と偽善とに満ちているか日々突きつけられるからです。平和や正義は、絶望感の中に見出す一筋の光明でしかなく、多くの献身的な人々の不断の努力の上に築かれていることを知っているからです。そこにおいて戒められるべき一番のことは、甘えです。リアリズムとは、世界を理解する上でも、自らを律する上でも甘えを廃するということに他なりません。

 もちろん、国内の民主主義のプロセスにおいて、厳しい緊張感を持続させることには無理がありますから、多少はお題目に流れる向きもあるでしょう。けれど、責任あるリーダーは現実を語らなければいけないし、伝える側にもプロ意識が必要です。何十年に一度の政策転換の過程の、ここ一番のときにこそ真価が問われるのです。

 憲法学者が提示した違憲論に飛びついて右往左往する日本社会には、国際社会から発せられる緊張感から解放されたいという甘えの構造を感じます。中国が台頭し、北朝鮮核武装が既成事実化し、米国の力にも限りが見えています。国際的なテロリズムが日本にとっても他人事でなくなり、宇宙もサイバー空間も新しい戦場になろうとしているときに、「そうは言っても、えらい学者さんが違憲だと言っているんだから」として、思考をいったん停止する誘惑には根強いものがあるのでしょう。

過去25年の安全保障環境の変化

 一般に、憲法学の立場からされる安全保障の議論には三つほど違和感があります。一つは、日進月歩の安全保障の現実を十分に踏まえていないこと。一つは、同盟を機能させる現実を十分に踏まえていないこと。最後の一つは、憲法と法律の空間を無用に拡大することです。もちろん、憲法学者の意見が一様なわけもなく、大変尊敬している先生もいらっしゃる中での少々乱暴な一般化であることは、あらかじめ断っておく必要があるでしょうが。

 安全保障の世界は、冷戦後の四半世紀の間に大きく変化しました。精密誘導兵器が本格的に実戦投入されたのは90年代初頭の湾岸戦争です。そこから、社会全体の情報化に輪をかけて軍の情報化が加速します。いわゆる軍事革命です。現代戦の優劣は指揮・情報系統の能力で決まってくるため、一定の同盟関係にある軍隊は個別に行動しても戦力となりにくく、戦場では足手まどいとなるか、場合によっては危険ですらあります。同盟国の軍隊の一体化は不可逆的な技術上の要請なのです。殆どの国が、自国の安全保障を一国で完結できなくなったというのは、予算上の制約を指して言う場合もあるけれど、第一義的には、文字どおりそうなのです。それに対し、予算の専門家や古い安全保障認識に頼っている人々は、船の隻数など数の積み上げのみで軍事力を理解しようとしています。

 過去四半世紀の安全保障のもうひとつの変化は、戦場があいまいとなったことです。冷戦中は、前線が明確に存在しました。朝鮮半島であれば北緯38度線がそれであり、欧州であれば、ベルリンの壁がそうでした。核戦争以外では、前線と後方が安定的に分離しており、危険を伴う戦場を特定できたのです。冷戦のタガが外れて地域紛争が勃発し、独裁政権が倒れました。イラク戦争をはじめとする愚かな戦争もありました。結果として生じたのは、秩序の崩壊であり、地球規模でのテロリズムの拡散です。宇宙の戦場化も着々と進行しており、いまや最も激しい戦闘が行われているのではサイバー空間です。

 安保法制に関する憲法学者の懸念の大きなものとして、外国の軍隊を守るのか、自衛でなくて他衛を行うのかというものがあります。また、武力行使の明確な歯止めとして、地理的制約を求める意見が根強い。申し訳ないけれど、それは、現代戦の現実を踏まえていないのです。ある意味、憲法学者が懸念するとおりなのだけれど、自衛と他衛は分けられなくなってしまったし、脅威は地理的に定義することも難しくなったのです。その厳密な理解なしに、カジュアルな物言いとしての「地球の裏側」まで行くという雑な議論がまかり通ってしまうのは、いったいなぜなのか。この辺りにこそ、法律家が重視する厳密さが発揮されるべきなのです。

民主主義国の同盟

 同盟を考える上で重要なのは、冷戦後、特にイラク戦争後の世界は、米国が「帝国」的な存在から、多極的な世界における大国へと変化していく時代にあるということです。この変化は、過去の帝国の権力移行と異なり、米国が民主主義国であるという点が際立っています。米国民の意思によってこの変化が加速する可能性が高いということです。世界の警察の座を下りた米国民は、同盟国にもギブ・アンド・テイクを求めるでしょう。民主主義国の国民感情として当然の動きであろうと思います。

 米国は、日米同盟を通じて、日本が攻撃を受けた際には防衛義務を負っています。その義務をはたす過程で、米国兵がリスクを負い、血を流す可能性も当然あるでしょう。よくよく考えてみれば、すごいことです。

 ちょっとした安全保障通の方から、「米国は日米同盟抜きでは超大国ではあり得ない」という意見をよく聞きます。米国から見ても日米同盟は重要であるという意味では、多少はあたっています。ただ、民主主義国の感情面をまったく理解していない意見です。民主主義国間の攻守同盟の根幹には信頼関係があります。この信頼関係がないようであれば、有事にはどのみち役に立ちませんから、同盟などはやめてしまうべきです。

 私には、憲法学者が同盟に対して敵対的に思えてならないのですが、どういうわけでしょう。憲法をはじめとする国内法という「こちらの事情」と、対外関係を考える際の国際法や条約との間の一定の緊張関係に違和感があるのでしょうか。以上に申し上げたような感情面も含めた思考体系が性に合わないのでしょうか。国連憲章は、武力行使が認められる場合として、一国が行使する自衛権と、国際社会が共同して対処する集団安全保障の中間的な形態としての同盟を許容しています。今から何百年かたって、国際社会が平和の危機に共同で対処する時代が来るかもしれないけれど、当座の現実としては、同盟こそが殆どの国にとって最も重要な安全保障の枠組みなのです。しかも現在の東アジアにおいて、同盟や集団的自衛権を時代遅れのものとして語ることは、常備軍の廃止を訴えることと同じくらい「未来志向」の主張であることは踏まえておいていただきたい。

法治国家を形作るもの

 憲法学的安保論に対する懸念の最後は、あらゆる問題を憲法論・法律論にしてしまうということです。法律論では、解釈の安定性が大事ですから、静的な適用要件を予め決めておきたいという要請が働きます。動的に事態が進展する安全保障の世界において、この発想はなかなか曲者です。現場で役に立つ基準を作りたいのであれば、法的な要件を事細かく定めるのではなく、原則をしっかり決めておく必要があるのです。立法府と行政府の関係にも関わってくるけれど、安全保障分野には行政の裁量さえ認めないということでは現実的な政策遂行は望めません。

 法律というものは、実態からかけ離れすぎては効果を失うのです。人間性に反するルールは、結局だれも守らなくなり、ルールそのものの信頼性を損なうからです。仮に、日米の部隊が公海上で共同警戒活動を行っていて米艦が攻撃を受け、更なる犠牲が迫っているとしましょう。自衛隊護衛艦が敵艦に反撃できる態勢にあるのに集団的自衛権を行使しないとすればどうでしょうか。

 仲間を見捨てることは、軍人のモラールに反するでしょうし、人間性に反するということもできるでしょう。それでも反撃すべきでないとするならば、護衛艦の艦長に超法規的な判断を迫っているのと同じです。難しい判断を現場に押し付けることは、法治国家では絶対にやってはいけないことです。実務家が法律を尊重するためには、法律家は現実の世界に敏感でなければいけないのです。その両輪があってはじめて、立憲主義が成り立ち、法治国家が成り立つのです。

 蛇足ながら付け加えると、日本の防衛関係者は立憲主義法治主義を非常に重視しています。集団的自衛権の行使を前提とした訓練は、図上演習さえ行ってきませんでした。自衛隊の一部に法務の専門家がいることは重要だけれど、すべての部隊長がガラス細工の法解釈を絶えず気にしていては、実力組織は維持できません。

政権に不手際があっても安保法制は必要

 潮目が本当に変わったとするならば、安倍政権の答弁の不手際が誤解を招いたという側面も大きいでしょう。政権が、有事に際してフリーハンドを確保したいという姿勢をとったのに対し、野党は明確な歯止めを引き出すべく細かい質問を続けました。国会で意見をぶつけ合う過程で、より良い方案へと修練していくというもありますから、それが健全な場合もあります。それでも、石油の禁輸を通じて国民が餓死/凍死する事態や、米艦船に邦人が乗っている事態を、全部ひっくるめて存立危機事態としたことでいかにも場当たり的な印象を与えてしまった。

 現政権については、一部の閣僚や首相のとりまきにはいろいろ言いたいことも多いし、力不足の向きもいるようです。過去に集団的自衛権行使が改憲なしには許されないと強調してきた中谷防衛大臣に対して、野党は血の匂いを嗅ぎつけたサメのように攻め立てており、どうもグラついているように見える。他の政策分野における非リベラル性についても注文があるし、自民党2012年改憲草案に体現された国家観、社会観、憲法観にはとてもついていけないというか、正直、怒りさえ覚えます。

 しかし、それでも安保法制は日本の安全保障のために求められていると思います。平和と自由と豊かさを引き続き守っていくためには必要だと思うからです。そしてそれが、政権の不手際とは関係のない本質だからです。一度政権を担い、安全保障においてリアリズムを標榜する民主党議員はそうした声を上げるべきでしょう。維新の党についても同じことが言えます。政局を追い求める気持ちはわかるけれども、安全保障は政局でもてあそぶべきものではないし、そのような姿勢では本格的に政権を奪還するつもりがないとみなされても仕方がありません。

 長期政権を見込んでいる安倍政権には、法案と刺し違える気など毛頭ないと思うけれど、局面を打開するタイミングではあるでしょう。その際、ぜひ安全保障環境の変化と同盟の持続可能性について、これまでよりも率直な言葉で語ってほしいと思います。今般の変更によって、現場のリスクは高まるという当たり前の事実を認めたうえで、抑止にとどまらない更なる外交の必要性を認め、その両輪があってこそ国民の安全も高まるということを丁寧に主張することです。

 集団的自衛権は国際的には必要とされており、国防を現実的なコストで行い、日米同盟を維持するために必要であると認めたとしても、国民は理解するだろうと思います。むしろやってはいけないことは国民の理解力を低く見ることです。

 安保法制をめぐる展開は、最後は強行採決ということになるでしょう。政権にはそれまでにぜひ説明を尽くしてもらいたいと思います。

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