山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

追悼

 湯川さんと後藤さんの二人の日本人人質が殺されました。不吉な予感がなかったかと言えば嘘になります。ころころ変わる犯罪者の要求を追いかけ、世界中で起きている悲劇と改めて向き合い、人質となった二人の足跡を知る中で、我々は狂騒させられました。あたかも目の前の細かい点をあれこれ言うことで、偽りの希望を探していたのかもしれません。そして、逃れられない最悪の結果が待っていました。人質となったお二人の無念さを思い、特に、後藤さんの二人のお子様のことを思うと、同じ親として耐え難い思いがします。偽らざる気持ちは、悲しみであり、怒りです。

 テロは、字義どおり恐怖を通じて我々の心を蝕みます。平和で善良な社会に、恐怖を突きつけ、憎しみを煽り、分断を誘うのです。悲劇のニュースに触れ、言論に触れるにつけ、敵の巧妙さに改めて気付かされます。圧倒的な不条理と向き合う中で、日本社会の中の弱い部分がさらけ出され、我々の間にすら不信が生まれているからです。テロリスト達が突きつけた圧倒的な不条理を前に、その理由を探ろうとしてしまったのです。

 中東の悲劇と混乱の原因の一部を提供した米国主導の秩序に不満がある者はそれを攻撃し、安倍政権に批判的な者はさまざまな理由をつけて政権を批判しました。他者に対する寛容さを持てない者は責任論を振りまき、多様性に居心地の悪さを持つ者は偏見を振りまきました。それは、犯罪者達が不条理を通じて我々を分断するのに成功したかに見えるほどでした。

 雑念を振り払って目の前で起きていることに、一人の人間として向き合ったならば、そこにあるのは殺人でしかないということに気付いたと思います。人命第一であると本当に言うのであれば、二人の人間と死という厳しい結果と向き合わないといけません。そこにある、厳しさと逃げ場のなさと向き合わなければならないはずです。

 今般の事件をめぐる報道の中で、後藤さんの過去の講演の映像に触れる機会がありました。最前線の戦闘地域にあって、子供や女性などの弱者に着目した報道を行っていました。正確な引用はできませんが、後藤さんは「醜いものは醜く撮り、美しいものは美しく撮り、悲しいものは悲しく撮る」ことを心がけていたそうです。そして、圧倒的な不正義を前にしても怒ったり、怒鳴ったりすることを戒めていたそうです。

 悲しみや怒りを癒すのは何でしょうか。癒すものなどないのかもしれません。が、あるとすれば、それは時間だけでしょう。今回の人質事件についても、そこからの教訓を導き出し、我々自身のアイデンティティーを見つめ直す日も来るでしょう。その過程で、自由で民主的な社会にしか許されない健全な言論を戦わせる日も来るでしょう。テロリスト達が生まれたわけと向き合い、過激主義と決別できない世界と向き合い、自由と平和と安全を両立させる難問と向き合う日も来るでしょう。でも、それは今日という日ではない気がします。

 後藤さんが伝え続けた戦場の子供が悲惨な境遇の中で遊んでいる無邪気さの残像は、悲しみの中にも希望があることを伝えているのかもしれません。私は、今日という日は、悲しみと向き合い、怒りと向き合い、家族を大切にする日に使いたいと思います。それが、お二人を存じ上げなかった私なりの追悼のあり方なのだと思うのです。

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