山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

Gゼロの世界を生きるー米オバマ大統領のアジア訪問に思うこと

 ウクライナ情勢の深刻化をきっかけとして、米国のリーダーシップの限界を指摘する、いわゆるGゼロ論が活発になっています。米国の相対的な地位の交代は金融危機をきっかけに加速し、オバマ政権の内政志向によって加速されていることですので、今に始まったことではありません。しかし、シリアへの武力介入をめぐる腰砕けや、中東和平の停滞、中国の勢力伸長への表面的な対応が重なり、改めてクローズアップされるに至っています。米国も、自身への懐疑論を認識しており、特に同盟国による懸念を意識しています。今般のヘーゲル国防長官のアジア訪問は、米国の地域と同盟へのコミットメントを再確認するもので、今月後半に予定されているオバマ大統領の訪問にもそのような意義があります。ヘーゲル国防長官の訪日を、集団的自衛権の行使容認への支持/不支持という内向きの視点を中心に取り上げるマスコミ論調のピントのずれは、池内恵氏が正しく指摘するとおりと思います(氏のブログ「中東・イスラーム学の風姿花伝」)。

  本稿は、ウクライナ情勢をめぐる米国の姿勢について、実質的には何もできず、するつもりもないのに、制裁の火遊びをしてロシアと敵対することは、将来に禍根を残すということを主張してきました。また、米国については、国力の相対的な衰えから内向き志向が加速し、日本やアジアでのコミットメントからは徐々に手を引かざるを得ないであろうことも申し上げてきました。両命題とも、いわゆるメインストリームの識者の中では少数意見のようです。多少、舌足らずの感もあったかもしれないので、直近のウクライナ情勢に引き付けて現在の国際情勢が日本にとってどのような教訓を含んでいるのかについて、3点ほど申し上げたいと思います。

 教訓の第一は、局地的な軍事バランスはものをいうということです。冷戦後の、グローバル経済の進んだ今日において、なんだか時代錯誤な感じもしますが、事実です。ウクライナはもちろん、陸続きの中央アジアにおいてロシアの局地的な軍事的優位は冷戦後の今日でも圧倒的です。冷戦後も、核抑止は効いているわけですが、それは国家存亡の危機にしか意味を為しませんので、局地紛争では局地的な軍事力が意味を持ちます。紛争勃発当初から、米欧にとって軍事的選択肢はありませんでしたし、今後もありません。日本にとっての意味合いはもちろん、米国とともに東シナ海における局地的優位を保持することです。それは、紛争がそもそも起こらないようにするために重要と考えるべきです。

 しかし、クリミア半島東シナ海が大きく異なるのは、東シナ海中国軍と向き合っているのは日米という二国間の同盟であるということです。言うまでもなく、同盟の力の源泉は信頼関係です。米国のコミットメントへの信頼が揺らげば、同盟はそれだけ弱くなります。不安になった日本のリーダーが、日米中正三角形論のようなことを言い始め、それが今度は米国側の日本不信感を増幅するからです。やがて不信のスパイラルが自己実現的に同盟の信頼関係を完全に掘り崩してしまいます。ここのところ、外交・安全保障にかかわる人間は、同盟関係の確認に躍起です。もっとも端的には、尖閣諸島の防衛に日米同盟が適用されるのか否かについて、積極的に発言したクリントン国務長官国防総省筋に対して、ケリー現国務長官ホワイトハウスの対応はあいまいなわけですが、そのあたりが大きなニュースになるような情勢になってしまっている。もちろん、日本側も長年の宿題に取り組む必要があるので、実質的に同盟を機能させるために必要な集団的自衛権の行使するための憲法解釈や、秘密保護法などの体制整備が必要になるということです。日本ではいまだに、米国の戦争に巻き込まれる、といった懸念を中心に安保論議がされてしまうのですが、問題の核心は日本防衛が実質的に機能するかということです。米国から見ても、テロの脅威を別にすると、東シナ海ほど危ない地域はないわけですから。

 教訓の第二は、そもそも紛争が想定されないような環境をいかに作り出せるかということです。日米欧の制裁に対してロシアが感じている脆弱性は限定的のようです。むしろ、ロシア権益が脅かされることを恐れた欧州企業の方がぐらついています。これには、プーチン政権の権威主義的な体質も影響しているでしょう。プーチン政権が、ロシア企業がグローバル経済から得ている利益は多少犠牲にしても良い、と判断したのでしょう。対して、欧米が示した制裁への姿勢は示唆的です。ヒートアップする一方の外交・安保専門家のレトリックに比して、これまでの欧米の制裁は一部の政権幹部の海外資産凍結などが中心で、正直、たいしたものではありません。ロシア経済の生命線はエネルギー輸出ですから、ロシア産のエネルギーに依存している各国経済に対して米欧主導で代替のエネルギー供給源提供に動くというのが本気の制裁のはずです。もちろん、ロシア産ガスへの依存は広範なものですので、代替と言ってもそんなに簡単に実現できるものではありませんが、代替に向けて動くということに意味があります。欧米の制裁は、あまり建設的でないことに加え、同時にあまり本気さも感じられない。それは、欧米の企業にとっては、本気の制裁が必然的に将来する報復制裁のリスクを念頭に置くと、ロシアでの権益にはそれ相応の重要性があるということを意味しているのではないでしょうか。

 以上の構図をグローバル経済と中国との関係に置きなおして考えるとどうでしょう。まず、日米欧の企業にとって中国での権益はロシアとは比べ物にならないほど死活的です。米欧のほぼすべての有力企業が中国市場におけるシェア争いにしのぎを削っています。また、多くは中国市場以外にも影響を与える生産や物流の拠点を有しています。現在のグローバル経済を前提とする限り、日米欧企業が報復的な制裁の危険にさらされる、中国への経済制裁などそもそも観念しえない領域です。対して、中国政府は、中国企業のグローバル経済における権益の毀損を恐れて、冒険的な政策を思いとどまるでしょうか。中国政府の権威主義的な性格は中長期的に中国人自身の手によってしか解決できない問題ですから、ここで云々してもしょうがないでしょう。しかし、中国企業のグローバル経済への組み込みについては、日米欧側にも改善の余地があります。中国からの輸出を主導しているのは改革開放政策が始まって以来の外資系の企業です。最近でこそ、中国企業のグローバル展開も話題になってきましたが、まだまだこれからという状況です。そして、日米欧の社会の中国企業への反応は概して冷ややかで、安全保障上の懸念を理由に制限をかける動きさえあります。結果として、中国企業のフォーカスもアフリカをはじめとする他の新興国、資源国に向かいがちです。長期的に、この流れを変えることには意味があります。日中間の紛争のリスクを軽減する最良の策は、中国人が日本に有している権益があまりに大きく有望なので、とてもそれをリスクにさらす発想が起きない、という状況を作ることです。

 教訓の第三は、言い方は非常に難しいのですが、限定的な紛争で玉砕しないということです。ウクライナは、みずからの領土保全への侵害を到底受け入れられないでしょうけれど、だからと言ってロシア軍と正面衝突もできません。正面衝突による軍事的コストがあまりに高いことに加え、経済的にも、安全保障上も、最終的にはロシアと共存せざるを得ないからです。ウクライナにも、ロシアにも、欧米にも、クリミアをめぐって熱戦を戦う気はありません。これは、冷戦終結から我々世代が享受している恩恵です。冷戦思考の最大の問題点は、その実、世界的にはたいして重要でなかったはずの地域紛争に戦略的な意義付けを与えてエスカレートさせてしまうことでした。朝鮮半島も、キューバも、ベトナムも、アフガニスタンも、実はそれほど重要な場所ではなかったはずなのに、イデオロギー上の、そして陣営全体の利益の象徴になってしまったことで悲劇が拡大しました。ロシアによるクリミア編入には、いまのところ、全世界的な象徴性はありませんし、与えてはなりません。

 日中の対立や紛争が米国を巻き込んで展開する場合には、21世紀のパワーバランスの変化や、権威主義体制との戦いという象徴性が与えられる可能性があります。中国に間違ったメッセージを送らないように注意する必要はあるにせよ、不必要な象徴性付与による事態の拡大を防ぐべく努力する必要があります。

 さて、以上の教訓は日中間で領土をめぐる紛争が起きる可能性を念頭においたものです。しかし、より普遍的に、Gゼロの世界を生きるということはどういうことなのでしょうか。

 G1(米のみ)、G2(米中)、G7G8G20等々、様々なグループが作り出され、あるいは、今後重要になると主張されてきましたが、その本質は二つです。一つは、そもそも国際社会の課題を認識し、取り組むための枠組みがあるということです。そして、今一つは、その枠組みを主導するリーダーがいるということです。そもそも、何が問題であり、その解決に向けた重要な原則は何かということは、何等かの枠組みとリーダーの存在なしには明確になりません。結果として、そこには混沌と不信と力の論理が支配する空間が広がっています。そして、残念ながら、通常そのような世界は、経済的な繁栄も平和も達成されません。

 そのような世界を生きるには、頼れる者は自分だけという発想が主流になります。また、予め存在していないルールや手続きなどの“枠組み”を自ら作り出す構想力と参加者を募るための説得力も必要です。枠組みの参加者それぞれが、自らを頼む発想にある以上、枠組みの主要な論理は参加者の利益でなければなりません。

 自らの利益や信じるべき正義について自分の頭で考えることも、多様な背景をもつ他者の利益を理解しながら普遍的な原則を打ち立てることも、一般に、日本人は不得手であると認識されています。同質的な社会集団の中で、「あ・うんの呼吸」や「言わぬが花」という文化を育み、利益だけで考えることを「身も蓋もない」とする美意識がある中で、そこには一定の真理が含まれていると私も思います。しかし、より現実的には、戦後日本の政府と社会が、米国が提示する道標に頼って生きてきたということによる影響が大きいのではないでしょうか。

 外交や安全保障の分野における論議の基本的な発想は、政府や国民の判断への不信感です。戦前、米英との協調から距離をとった日本は、自らの頭で考え、自ら破滅にいたる道を選びました。その反省と、冷戦の現実が、米国の世界観を受け入れ、外の世界の現実について自分の頭で考えるよりも、自らが作り出した内向きの論理に拘泥する文化を創り出したのでしょう。武器輸出三原則も、非核三原則も、PKO五原則も、集団的自衛権を有してはいても行使できないという解釈も、発想は同様です。それぞれの原則が形作される過程には、それなりの工夫も考えもあったはずなのに、いったん出来上がった原則は、むしろ思考停止の言い訳にされてしまう。特に、リベラルなはずの識者達の、日本の民主主義や、国民の判断力への不信感には驚かされます。そして、現実主義を自任する保守主義者も、「日本には○×原則がありますから」と平気で外で言ってしまう。自分の事情についてわかってほしい、というナイーブな発想です。あげく、深慮を担うべき識者達の役割も、外国の動向を、まじめに、こまめに、紹介するだけのものに堕してしまう。

 Gゼロの世界を生きるということは、思考停止する甘えを自らに許さず、現実を見据えて考え抜くことです。他者の理解を前提とせず、他者の利益を踏まえた論理の力をもつことです。だからと言って、殺伐としただけの世界になると言いたいわけではありません。また、米国の単純で力強い論理、欧州の巧妙な偽善、中国のすがすがしいまでの厚顔は、それぞれの歴史を通じて形作られてきた伝統であり、学ぶべき点が多いとは言っても、我々日本人がそうなれるわけではないでしょう。相手の利益を理解する洞察力、相手と利益を共有する土台となる経済力、言ったことは行う/約束は守るという信頼感は、厳しい世界を生き抜く日本の財産です。戦後日本の形成に大きな役割を果たしたマッカーサーが日本を12歳の少年に例えたとき、多くの日本人は怒ったはずです。それから、60年以上がたって米国の衰退が予見されるGゼロの世界とは、道標のない世界です。日本に求められることは、ナイーブでも生きていけた世界から卒業し、大人になること、でしょうか。