山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

総理の真珠湾訪問-「必要悪」を脱することができるか

象徴の日

安倍総理がハワイの真珠湾を訪問しました。この訪問は事前からメディアに宣伝され、史上初であるかどうかも含めて(実際には4人目)、様々に喧伝された和解の総仕上げの演出ではありました。こうした政治化された訪問で劇的な成果として評価を受けるのは通常難しいのですが、今朝の総理演説を聞いてみると、これまでの「必要悪」としての日米同盟から脱却しようとした歴史的なものであったと思います。

今朝、風の強く吹く真珠湾で語られたのは、戦没者への慰霊と、寛容に基づく日米の和解の力でした。まず戦艦アリゾナに乗り組んでいた普通の若者たちの運命とその家族の悲嘆に思いを寄せ、そして日本の軍人のために碑を立てた米軍の寛容を自国民に向かって語りかける。日米の和解が総力戦を戦った者同士の勝者の寛容に基づく和解であるがゆえに特別であることを強調する。

オバマ大統領は、総理の演説と呼応するアメリカのストーリーを語りました。米軍の勇敢に戦った軍人たち、真珠湾攻撃により結束し立ち上がったその世代の米国民たち。そして任期を終えようとしているオバマ大統領は、混乱する世界や、トランプ現象を暗に踏まえ、異質な存在を悪魔化することの危険を説きます。日米同盟が共通の利益だけでなく、共通の価値に基づく同盟であること、平和がどのような戦争の果実よりも価値があることを説き、和解を演出する。3.11後のトモダチ作戦イチローなどに言及する。

この両首脳は、こうした歴史を作るような和解というものを一番やりたかった二人です。岸総理の孫として、あるいは黒人初の大統領として、象徴性を背負う存在だからです。問題は、こうした演出がどれだけ自国民たちに受け入れられるかでしょう。

真珠湾には様々な象徴性が存在します。ある人には、無謀な戦争に突っ込んでいってしまったことを反省する日であり、またある人には、戦争を選ばざるを得なかった当時の国際社会の構造を思う日です。本日、焦点を当てたいのは、日本とアメリカという二つの国家と国民の関係についてです。端的に、同盟とは何かということです。

草の根の反米思想

戦後の日米関係は、敗戦国と占領軍という関係として出発しました。この事実から逃れることはできません。すべての占領軍がそうであるように、米国の占領には横暴な部分もありました。一部の米兵が気の良い青年で、ソ連に占領された旧社会主義国よりは「まし」であったにしても、一般国民にはそれは理解しがたかったでしょう。当然、戦後初期には反米・平和の左翼思想に勢いがありました。

ただ、冷戦の現実の中で日米同盟以外に国を成り立たせる方法はありませんでした。結果として何が起きたかというと、政権は、日米同盟を「必要悪」、あるいは「功利主義」の理屈で国民に説明したのでした。必要悪というのは、「同盟を結ぶことはやむを得ない」ということであり、功利主義というのは、「同盟を結ぶ方が日本にとって得である」という説明です。

少なくとも、1952年の主権回復以降の日米同盟は、日米双方が自らの意思に基づいて締結したものであるにも関わらず、日本人の心に日米同盟への妙な他人事感を宿させる結果となってしまった。左右双方に、草の根の反米思想のようなものがあり、政治のリーダー達にもどこか卑屈な部分が残ってしまった。米国に対して「ものを言える」政治家の人気が高いのは、そのような構造を反対側から表したものです。

80年代の中曽根総理の「ロン・ヤス」関係にしても、90年代の橋本総理の通商交渉で引かない姿勢も、2000年代の小泉総理のブッシュ大統領との信頼関係も、その淵源には、米国と対等でありたいという強い願望があったわけです。

言ってみれば、日本外交が米国との距離感で決まっていた時代です。

日本外交の支配原理が変化

そんな日本外交の構造が変わったのが、第一次安倍政権の誕生以降だったのではないかと思っています。大きく変わったのが中国の存在感です。2000年代初頭までは、日本でも中国懐疑論あるいは中国崩壊論に一定の勢いがありました。ところが、08年の北京五輪を迎える頃には、中国の大国化と将来の中国の超大国化は明らかでした。時を同じくして米国はイラク戦争で躓き、東アジアの情勢変化への関心を低下させてしまいました。

日本外交の方向性を決める支配原理が、米国との距離感から、中国との距離感あるいは恐怖感の度合いへと変化したのです。日米が友好的であることは、織り込み済みとなったわけです。当然、時代の変化に合わせて日米同盟をどのように捉えなおすのかということが課題となります。

一方には、日米同盟について自由、民主主義、法の支配などの価値観を共有する国民同士の信頼関係に基づいているとの考え方があります。現政権もそうであるし、私もそう思っています。ところが、そういった理念には少々バタ臭いところがあり、本当にそれが国民に浸透しているのか、日本のリーダー達が本当にその理念に共鳴しているのかは怪しい部分があります。

もう一方には、いまだに日米関係を必要悪としてとらえている考えも根強いからです。安保法制をめぐる国会審議が行われ、国会をデモが取り囲んでいた時には、その種の考えがメディアにも溢れました。

同盟の将来

世界中の様々な国同士の同盟を比較したときに、日米同盟というのはたいへん特殊なものです。日米同盟には、人種的、あるいは文化的な親近性の基盤はありませんし、かつての敵国同士が激しく戦った後に締結したものです。この点は、米英同盟や、米国とイスラエルの同盟とは全く異なります。また、日米同盟は試されたことのない同盟でもあります。日米同盟が現在の形となった1960年以降、日米は他国と戦っていません。この点は、例えば米韓同盟とは異なる部分です。

私は、日本国民の米国に対する認識や、日米同盟についてどのように考えているかを調査したことがあるのですが、とても面白い結果が出ています。例えば、尖閣諸島をめぐって日中間で何らかの有事があった時、日米同盟が機能すると思っている日本国民の割合は実は2割程度しかいません。他方で、米国を好きであると思っている日本国民の割合は約8割にも上ります。日本国民は、日米同盟に対して過度の期待を持っておらず、とても冷静な状況判断をしている一方で、米国のことは好きなのです。

私は、日米同盟の将来の基盤もここにあるのではないかと思っています。つまり、日米同盟を絶対視することはしない。トランプ政権の誕生を通じて、米国内に超大国の地位から引いて行こうとする勢力の存在感が増していることが明白となりました。中東でそうであるように、米国は東アジアの地域紛争に介入する意思、そこで若い米国兵を犠牲にする気はもはやないでしょう。日本は、そのことは認識しないといけません。地域の脅威に対抗するための防衛力の整備も、地域の緊張を緩和するための外交の努力もより主体的に行わなければいけません。

日本自身の主体性を強めたうえで、ただ、同盟をどのように捉えるのかという課題は残ります。国民感情の素朴なレベルで、同盟をどのように位置づけるかということです。トランプ大統領個人を超えて、トランプ現象が投げかけた疑問は、同盟の根幹がどこにあるのかという問いでした。「日本が攻撃されたときに米国は日本を助けるが、米国が攻撃されたときに日本は助けないのはフェアじゃない」と言われたとき、日本国民はどう答えるのか。これまでどおり「必要悪」で行くのか、それとも、日米同盟をより「普通の国」の「普通の同盟」として再定義していくのか。

民主主義国同士の同盟は、政治家や官僚などのリーダー層の間だけで成立するものではありません。究極的には、国民を巻き込んだ支持がない同盟は、いざという時にも役に立たないからです。

トランプ時代を迎えて、「米国がどんな要求をしてくるか」を恐れるというのは的外れです。トランプ時代には、より根本的に同盟の根幹が試されるでしょう。日本は、もっともっと深い問いと直面しなければいけないのです。

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