参議院選挙論点シリーズ(4)――都市型政党が生きるスペース
経済論議の主戦場
参議院選挙が公示されました。参議院選挙の論定シリーズ、本日取り上げたいのは構造改革についてです。私は、今懐かしい絶望感を覚えています。アベノミクスによって少なくとも日本経済と政治の雰囲気が変わる前の八方塞がりの感覚です。海外から日本に向けられる視線は、無関心であり、その先にはかすかな哀れみさえ感じられます。サミットでも際立ったのは、日本の経済論議の世界からの圧倒的なズレっぷりでした。なんで、構造改革もせずに財政出動なのと。
主戦場は構造改革ではなかったのでしょうか。アベノミクスの一丁目一番地は規制改革ではなかったのでしょうか。岩盤規制に穴をあける総理の「ドリル」はどこにいってしまったのでしょうか。第一の矢の金融政策と第二の矢の財政政策で時間稼ぎをしている間に、第三の矢の構造改革を進めるのが心ある識者のコンセンサスかと思いきや、全くそんなことはないのです。与党は、開き直って旧来型の公共事業をズラリと並べています。なんという90年代感でしょう。その処方箋はうまくいかず、将来世代へのツケを拡大しただけだったではないですか。
野党には、相変わらず経済運営の全体性がありません。庶民の財布が傷んでいるとか、成長と分配のバランスを取り戻すなどと抽象的なことを繰り返すばかりです。究極の目標は、庶民の財布のぬくもりでもちろん結構だけれど、そのための具体策は何なのか、全く見えません。アベノミクスに反対ということは、金融は引き締めるのでしょうか。財政は緊縮なのか、もっと大盤振る舞いするのかさっぱりわかりません。
90年代的な論争には決着がついたはずです。構造改革を通じて、民間経済主体の競争を促し、日本経済の生産性を高めないと人口減少時代の経済成長はないと。ただし、これまでのようにデフレの下で構造改革を進めるのは体力的にきついから、拡張的な金融政策と組み合わせる必要があると。一部の輸出型の製造業を除き、海外との生産性の差は明らかなのですから、構造改革を通じた生産性改善がカギであるのは算術的にも明らかです。
コンニャクカンテン?
参議院選挙における最重要の論点は、構造改革の意思を継ぐ勢力はどこかということだと思っています。残念なのは、構造改革の内実がはっきりしないままにあまりにイメージの悪い政治業界用語となってしまったことです。構造改革という言葉を聞くだけで、嫌悪感を覚えて思考停止してしまう層があまりに多くなってしまっています。右派も左派も競争が大嫌いで、「構造改革=弱肉強食=新自由主義=強欲」というようないい加減な方程式が成立してしまっているのです。
それでは、冷静な議論もできないので、ちょっとした遊び心を発揮してみたいと思います。構造改革を構造改革と呼ばずに、全く違う奇想天外な言葉に言い換えてしまうのです。例えば、コンニャクカンテンと。コンニャクカンテン(=蒟蒻寒天)は、構造改革の隠語です。その上で、ちょっとシュールではありますが、「蒟蒻寒天」のビジョンについて語ってみようかと思います。
かつて小泉総理大臣は、「蒟蒻寒天」のビジョンについて「改革なくして成長なし」と訴えました。それを正面から主張することは勇気のいることだったけれど、同時に、日本人の心性にとても合っていました。国民は、痛みに耐えるという道徳的な説明が、雄弁な総理から発せられることを強く支持したのでした。ただし、痛みが長期間持続し、雄弁なリーダーが舞台を去るとあっという間に消えてしまったのも事実です。
他方、私が「蒟蒻寒天」について持っているビジョンは少し異なります。それを一言で言えば、多様性と競争ということです。競争という言葉に反応して、心のシャッターを下ろすのをいま少し待ってください。競争は、多様性と組み合わせることがミソです。多様性と組み合わされた競争は、日本的な競争のイメージとはずいぶん異なります。
日本的な競争のイメージは、ピラミッド型の頂点を目指す限られた枠をめぐる競争です。典型的には、出世競争であり、受験競争のイメージです。そのような構造の競争は、必然的に少数の勝者と多数の敗者を産みます。どんな社会も、この種の競争が激化するとギスギスしてしまうものです。対して、多様性の下での競争は、競争の目的自体が多様ですから、それぞれが、それぞれの方向に向かって勝手に競争します。傍からは、競争しているようにさえ見えないはずです。これが、多様性を前提とした分権型の競争であり、集団や個々人の自己実現を重視する成熟社会型の競争です。年齢、性別、財産、出身地などによって人生の可能性を制限されない、寛容で包摂的な社会の競争です。
日本で「蒟蒻寒天」について訴える勢力は、どうしてもホラーシナリオを語ることが多い。改革をしなければ、どんな恐ろしい社会が待っているかというストーリーです。私も、ついついやってしまうことがあります。「蒟蒻寒天」を怠った日本の運命は、ジリ貧であり、さらなる格差の拡大であり、弱い立場にある人が最も傷つく社会であるというふうに言いがちです。もちろん、ホラーシナリオは長期的には実現されてしまう可能性が高いので、一概に悪いわけではないけれど、それだけでは持続的に国民の支持を得ることは難しいわけです。国民は、危機の言説にはあっという間に慣れてしまう一方で、開放的な希望の言説は色褪せないからです。
都市型政党の生きるスペース
現在の永田町の雰囲気は、国民は改革に疲れており、「蒟蒻寒天」は受けない。支持基盤を怒らせてまで取り組む必要はないというものです。果たしてそうでしょうか。私には、それが政治のビジョンが不明確で、言葉が貧しいことの言い訳ではないかと思うのです。既得権益を持つ者は、「蒟蒻寒天」を怠り続けた日本全体が地盤沈下しても、実は、それほど困りません。途上国の特権階級がとても豊かであるように、彼らは特権を享受し続けるからです。公的な予算へのアクセスから超過利潤を得続けることができる業界や、一部大企業の守られた労働貴族が苦しくなるころには、既得権を持たない一般国民はとっくに貧しくなっています。
「蒟蒻寒天」について語るときには、その対象である世界と、その対象とはならない世界を切り分ける丁寧さも必要です。一定の地域にせよ、人口階層にせよ、もはや競争になじまない世界というものは厳然と存在するからです。
例えば、中山間地の農村がある日突然活性化することはありません。農業が競争力を取り戻すことも、ほぼないでしょう。そこは、地方創生と言って根拠のない楽観主義を振りまいてもしょうがないところがあります。だからと言って、現在のように全国津々浦々で均一の行政サービスを提供する余力はこの国にはありませんから、どうしてもメリハリが必要です。具体的には、地方の中核都市の行政サービスは充実させるけれど、地方の地方から撤退していかざるを得ないのです。地方の地方において行政は、「創生」を目指すのではなく、国土管理の一環として存在しているのだと割り切るべきです。豊かな山と川と海は、日本国家の全体にとって必要なのですから。
人についても同様のことが言えます。人は誰しも老います。当然、個人差はあるだろうけれど平均寿命を超えたあたりの高齢者に競争を説くのも的外れです。高齢者以外にも競争に参加できない特殊事情を抱えた層は存在します。そのような層には、競争とは異なる論理で行政は対峙しないといけません。日本は撤退戦を戦っているのですから、年金も医療も介護も切り下げていかざるを得ません。そして、どの水準に現実的に譲れないナショナルミニマムを置くのかという観点が大事になります。
真の問題は、多様性の下での競争に参加すべき層が競争から逃げることで、競争することが現実的でない層にそれを押し付けていることです。
農村と高齢者の例を出したのは、農村と高齢者を支持基盤とする政治勢力が「蒟蒻寒天」を推進することはあり得ないからです。それは、期待してもしょうがない。日本の未来に向けて前向きな変化の原動力となり得るのは、経済運営の全体性を理解しうる能力を持った都市型政党だけです。
都市型政党が対象とすべき有権者は、戦後リベラリズムの情緒性に凝り固まっておらず、かつ、利権でもって生きていない層です。結構いるはずですよ。今般の参議院選挙において日本が変わることはほとんど期待できないけれど、構造改革についてビジョンを持ち、新しい言葉で語るところに、都市型政党が生きるスペースがあるのです。