山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

セクハラはどうしたらなくなるのか―福田財務次官のセクハラ報道と世論からの学び

福田淳一財務次官がセクシャルハラスメントをめぐる問題の混乱を受けて辞任しました。これまでも、どこかの組織でスキャンダルが持ち上がるたびに、それなりに注目されてきたセクハラ問題ですが、今回はエリート官庁のトップがテレビ朝日の社員に対して行ったセクハラを週刊新潮が報じたとあって、注目度も格段と高まりました。

実際、多くの女性記者達が自分たちの経験やセクハラを見て見ぬふりをしてきた組織風土について語り始めています。ハリウッドの敏腕プロデューサーの長年にわたる悪行をきっかけに世界的なうねりとなった#MeToo運動が、ようやく日本にも上陸した印象です。

なお、執筆している現時点では、前財務次官はセクハラを否定しています。また、今回のケースは財務次官とテレビ朝日の記者という異なる組織人の間で起きたことですから、組織内で起こってきたセクハラ事例とも構造を異にします。私自身は、セクハラがあったかなかったかの存在を認定する立場にはもちろんありません。ただ、私自身、取材の現場の関係者との交流が多いこともあり、複数の方から事情をお聞きした心証として、省庁のトップとして不適切なセクハラの言動があったことを前提に、本件について考えていきたいと思います。

社会的進歩と人民裁判

MeToo運動は、これまで見過ごされがちであった、あるいは、存在しても「大した問題ではない」として取り扱われてきたセクハラ問題に焦点を当てたという意味で、意義深いものです。多くの先進国には、セクハラを取り締まるような法律や社内ルールはすでに存在します。セクハラ防止のための環境整備にも取り組みはじめている国は多い。

しかし、何をセクハラと認定するか、あるいは、被害者がセクハラを訴えた際に受ける潜在的な不利益もあって、法律やルールの運用面に課題を抱えていました。その結果、セクハラをめぐる問題は、従前よりは改善したかもしれないが、まだまだ道半ばという状況が続いていたわけです。

MeToo運動、多くの社会運動がそうであるように、MeToo運動も大衆の感情に訴えかけるものです。そこにおける「告発」は、裁判所での手続きの際に前提となるようなものではありません。大衆の感情を動員し、社会文化を変える目的で行われる以上、どういった印象を与えるかが重要になってくるからです。一歩間違うと、「人民裁判」的な展開とならざるを得ない特性を内包しているのです。

セクハラは良くないという結論には広範な賛意が寄せられても、「人民裁判」的な性格に対しては、識者の多く、国民の一定数が違和感を覚えるというのは当然でしょう。今回の事案で特徴的であったと思うのは、被害者が名乗り出るか否かに注目が集まったこと。MeToo運動の側は、被害者が名乗り出ることによる潜在的な不利益を指して、その必要はないと主張し、財務省の調査手法を厳しく非難しました。有力閣僚も同じ趣旨の発言を行いましたし、また、会見を行ったテレビ朝日も、被害者が特定されないように細心の注意を払っていました。実際、本人からの公開希望がないのに、一部の人間が本人の特定と名前や顔をネットに晒すなどの行動に出たことは、人権に配慮する立場からして誠に遺憾であると言わざるを得ません。

本件はテレ朝が遅ればせながらきちんと調査したことによって、名前や顔を公開せずに財務省と話すことができる環境が整いました。不信が存在し、社会的なバッシングあるいは不誠実な対応の懸念があるときには、セクハラが見つけにくくなる。一般論として、責任ある組織は、信頼をアピールし、名乗り出やすくするために工夫することが必要です。それを怠ったままでは、セクハラを根絶することはできないからです。

しかし、大原則として、私自身はどんなに社会にとって必要な進歩もリベラリズムの原則を完全に無視して行われるべきではないと思っています。わかりやすく言うと、目的は必ずしも手段を正当化しないということです。かつての中国で、「愛国無罪」という言葉が唱えられました。愛国心をもって行われる行動の罪は問われないというほどの意味です。私は、「フェミニズム無罪」とも、「女性の地位向上無罪」とも思いません。そこは確認しておきたいと思います。あくまでもやっていないと主張する一人の人間の社会的信用を抹殺するのであれば、事実の認定は慎重に行われる必要があります。そこを被害者本人の特定なしにできるとはあまり思わないということです。

その意味で、本人の告発を上司が抑え込んだテレ朝のセクハラ対策・研修体制は、あまりに不十分だったと言わざるを得ません。

お国柄を反映する各国の状況

日本におけるこのような事態の推移は、MeToo運動に最初に火が付いた米国の状況とは大きく異なります。米国でこの問題に火が付いたのは、有名女優が実名で被害を告発したからです。通常の裁判におけるような証拠を提示したわけではないにせよ、一人の人間の社会的地位に重大な影響を持つ告発を行う以上、告発者は目に見える存在でなければならないという原則が働いているわけです。その後のMeToo運動の広がりにより、有名女優から一般人へと声を上げる被害者の輪が広がっていきました。米国では、被害を受けたことは落ち度があるわけでも恥でもない、そして社会がバックアップしてくれる、という信頼が広がりました。それまで、リベラルの牙城であったハリウッドで自らの業界内のセクハラには口を拭っていた、ということに対する社会の怒りが思いのほか強かったのです。

今般の事案もあり、日本のMeToo運動は、個人として名乗り出なくていいようにしようという方向に流れていきそうですが、果たして、それでいいのかという問題は残ります。一般的に、セクハラ問題について認知を高め、組織の風土を変えることが目的である場合は匿名の告発で構いません。もしかすると、そういう方法の方が日本社会にはあっているのかもしれません。

しかし、今回の事案のように、一人の加害者を特定して糾弾する場合には、実名での告発を必要とするのではないかと私は思います。そのうえで、被害者の立場を守るためにあらゆる手段を尽くすべきです。MeToo運動の本質は、弱い立場にある者達が、「自分も(=MeToo)」と言いやすくすること。そうでなければ、社会進歩の目的で広がったはずの運動が、単なる魔女狩りになってしまう危険があります。それは、長期的に見た女性の地位向上にとっても良くない効果を持つでしょう。

世界中に広がっているMeToo運動ですが、各国のお国柄を反映して異なる展開を見せています。例えば、中国では、MeToo運動に触発された運動が盛り上がりを見せたものの、民衆発の大衆運動が共産党批判へと飛び火することを警戒する当局によって路線変更を余儀なくされました。「外国発」の運動であることも当局に警戒される原因となったようです。

韓国では、芸能界や教育界において、かなり広範囲にセクハラ問題が存在したものの、今年に入ってからの告発にはすさまじいものがあるようです。大学生、高校生という力の弱い立場の者に加え、エリートの女性検事までもがセクハラ被害に遭っていたことが分かり、自分なんて抑圧されても当然、と思っていた女性たちが立ち上がり始めました。各方面から寄せられる告発を、進歩派のムン大統領自身が奨励したうえで、問題の抜本的な解決のためには「文化」を変えることが必要であると述べています。政治のトップダウンの決断と、大衆運動の威力が大きい政治文化を反映した展開です。

社会の反応がもたらす効果

さて、財務次官の問題については、多くの人々が被害女性が受けた苦痛に共感する旨をSNSなどに投稿し、財務次官の行った発言はアウトであると意見を表明しました。そこで、次に社会の反応がセクハラ問題の今後にどのような影響を及ぼすかについて考えてみたいと思います。

被害の告発は勇気ある行動です。しかし、セクハラ問題のような構造的課題を克服するためには、社会の反応が重要となってきます。告発に対し、多くの人が、詳細があいまいにぼかされていても同じような被害体験を告白したり、応援するよ、と告発を支援する姿勢を示すことの方にこそ、次につながる大きな意味があるのです。立場の強いものが弱いものに対して、望まれない性的な行動をとることは「アウト」であるということが広く共有されるからです。

例えば、次のような仮想の事例を考えてみてください。

ある偉い男性幹部がいました。その男性幹部は地位があるので、公共の場ではきちんとした振る舞いを求められます。それに、ボスの会食の席に同行しても仕事第一ですから、楽しんでいる風は見せてもうかうか気を抜くわけにはいかない。けれども、発注を自分が一手に握っている取引先から、5年前から頻繁に接待を受けている。一次会では、毎回一番若くて美しい女性社員が隣に座り、お酌をして持ち上げてくれる。肩に手を回しても、軽口(と自分が思ったもの)を叩いても、怒られなかった。酔っぱらうとスカートの上から太ももをこっそり撫でたりしたことも頻繁にある。

女性社員の方は、触られるのが嫌でたまらない、と思ってはいてもその場で機嫌を損ねられないし、社内でそうした被害を打ち明けても、いなすのも能力の内だよ、と逆にたしなめられた。早くこのポジションから別の部署に異動したいと思い続けて二年で交代していく。後輩のことはかわいそうだと思うけれども、自分も我慢したし、いなすやり方を伝授するなど自分としてはできるだけのことをしたつもりだ。

そのうち、時代が進んで新しい世代が入社してきた。昔新人類と言われた上司からするとあっちの方が新人類だと思うくらい、世間の常識に縛られない。そのなかで飛び切りガッツがある女性がいて、しかも美人なので、責任者は大事な取引先を担当させた。するとかなり積極的に営業をしてくれ、先方の幹部のお気に入りになった。しかしある日、その幹部にきわどい発言をされたことでショックを受ける。けれども、新人女性も取引先を失いたくなかったので酒席では誘ってくる相手の発言をはぐらかすなどの自衛策をとりつつ、日々営業には尽力した。

しかし、その幹部は発言をエスカレートさせたので、彼女は社内で告発した。けれども、一番親身に応援してくれていた上司は、彼女が社内や取引先の男性に叩かれ、出世コースから外れることを懸念して、むしろ異動の時機が来たら部署替えすることを前提に、告発を内部で共有しなかった。そのうち別の会社との競争で取引量が減ってしまい、わが社の担当は一体どうなっているんだという批判も出てきた。その競合会社の担当も美人である。彼女は不信に燃えた。みんな自分だけを犠牲にして儲けようとしているんじゃないか、グルなんじゃないかとさえ、思えた。

絶望した彼女が週刊誌にネタを流したことで事が明るみに出て説明責任が生じ、当該男性幹部の組織も守り切れなくなったことから男性は出世コースを外れることになる。世間は騒ぎ、美人を利用して出世したかったんじゃないか、ニコニコしてセクハラ発言をやり過ごしていたんじゃないか、お互い納得ずくだったんだろと新人女性を責める人もいた。他方で、そのような見方を非難し、被害女性の苦しみに目を向けろ、二次被害を出すなと主張する人もいて、両者が真っ向から対立した。

社会にとって、本件は他人のセクハラ案件であり、本来は感情的に争うような陣営対立の問題ではないはずです。しかし、実際の社会では陣営対立が起きてしまう。それはなぜでしょうか。被害の実体験や共感力の有無を別にすれば、実は単に構造を変えようと思うかどうかの問題なのです。

先進国社会において、セクハラの存在を必要だ、あるいは好ましいと考える人はほとんどいません。社会にとってセクハラが存在するというのは、むしろ不幸なことである、というのも共通認識でしょう。

しかし、前者の立場はセクハラを生みがちな構造を変えないままに、当事者の行動を変えるべきだと主張しており、それはときに加害男性に対する「いくら何でもそれは下品」という説教、または被害女性に対して「媚びを売るな」あるいは「セクシーな服を着るな」という批判につながります。この場合、二人での宴席にいくなという意見も出てきますが、まず大事なのは欲望を感じても相手の同意なしに手を出したり、性的な暴言を吐いてはいけないというごく基本的なところ。そうは言っても防げないのだから、という人は、まさに構造を変えようと思っていない意見ということになります。

後者の立場はそれに対し、年功序列の男尊女卑の文化が色濃く残る社会において、若い女性がお酌をすることを当然視したり、権力関係ゆえに触っても怒られなかったり、黙っていなければ損をする構造そのものを変えようとしています。

さて、仮想の事案である本件の男性幹部になってみましょう。接待のたびに、高級ホステスの接待を受けるのと同じ快感、つまり効用を得ていた。なのに、触っても、だらしなく酔っても愛想をつかされることもなく、黒服につまみ出されることもない。しかも、無料。

本件の新人女性になってみましょう。終身雇用が当たり前の社会で会社を辞めるハードルは高い。やる気を買われており、セクハラに苦情を言ったらたしなめられた。セクハラがエスカレートしていって、上司に相談したら握りつぶされた。その理由は、「もしあなたの告発が社内や取引先に知られたら、あなたのキャリアが潰されるから」。

さて、お分かりでしょうか。加害男性にはセクハラをおとがめなしでできる動機が与えられています。被害女性には被害の告発や仕事を辞めることに対する罰や損害が控えています。こういう状況を、セクハラを生む土壌と呼ぶのです。経済学者はこれをナッシュ均衡として説明するようですが、私はそれを長年の慣行と文化による誤った誘因として表現します。

もしも、本件が報道されたときに、観衆がみな先に述べた後者の立場を採ったらどうでしょう。被害に遭った女性は次から社内でも世間でも告発しやすくなります。それを予見して潜在的な加害男性は行動を慎むでしょう。従前の状態ではまるで罰が与えられない(このくらいで)というのが「常識」であったのに対し、世論が変化してからは、罰の大きさが新たな常識として予測可能だからです。

被害女性には味方せず、彼女の「過失」の「可能性」やあるいは特定の会社の体質を示唆し、しかし一般論としてセクハラには反対だと表明するのは、コストなしで誰でもできます。セクハラはすでに悪いこととされていますがなくならないのですから、インセンティブの構造を変えることに一ミリも役立たない一般論は、助けにならないのです。

セクハラに巻き込まれる構造そのものを批判し、それを(メディア業界だけでなく)社会全体の問題として捉え、構造変化をバックアップする。そんな姿勢がなければ、構造そのものは変わりません。「言葉遊び」や、「悪ふざけ」といった言い逃れができる環境、周りの人間が傍観してしまうような土壌を変えないといけないのです。

ときに支配的な言説を疑ってかかる必要な場合もあるでしょう。そもそも、セクハラの存在は軽視されてきたのであり、人によってはまったく「見えない」問題です。今般の事案をめぐっても、偏った言説や誤った言説が相当程度飛び交いました。今一度、被害者に共感する努力が必要でしょう。

その上で、最終的に力ある者が男性ばかりである状況が変われば、日本社会は一歩先に進めるのかもしれません。

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