サミット「空回りの外圧利用」
「G7ではいかなる大きな決定もしなかった」-伊勢志摩でのサミットに先立って行われた財務省・中央銀行総裁会議での独ショイブレ財務相の発言です。ホスト国に対し、ここまでストレートに失礼な発言をするあたりはさすがです。債務危機に対して、欧州中を敵に回しながら財政規律の守護神として一歩も引かなかった、傲慢さと、切れるような論理性の面目躍如というところでしょう。本日の首脳会談ではもう少し、日本に配慮した玉虫色の表現がなされるようですが、各国の事情に基づいてそれぞれが努力する的な、どうとでも解釈できる表現に落ち着くようです。
そもそも、サミットの準備に向けてはちょっと不可解な展開があったと思っています。連休中の総理の欧州訪問と前後して、サミットの焦点が、いつの間にか「G7が財政出動で一致できるか」という風に報道されるようになったのです。世界経済の停滞感に対応することをG7の中心に持ってくることは自然なことですが、どうして、「財政出動」となったのか。ちなみに、独ショイブレ財務相は、「借金をして景気を刺激するやり方は、わらが燃えるように効果がすぐに息切れし、持続的な成長にはつながらない」と語り、追加的な財政出動を否定しています。また、日本政府から財政出動の要請も「ない」と明言しています。
教科書的には、経済対策には大きく金融政策(=Monetary Policy)と財政政策(=Fiscal Policy)と構造改革(=Structural Reform)があります。ですから、メディアが「財政出動」とやたらと言い出した時には、単に、「誤訳」されたのかと思っていました。それはそれであるのかもしれませんが、報道がいきなり「財政出動」となり、かつ、それがまったく実を結ばなかった展開はやはり不自然でした。
そもそも、世界経済への影響力を低下させているG7なんてどうでもいいではないかという意見もあるでしょう。それでも、日本ではいまだに重要視されています。アジアからの唯一の参加国というステータスが、時代遅れになってしまった心地よい特別扱いに思えるのでしょう。その日本外交の晴れ舞台であるはずのG7における、不可解な展開の背景には、もう少し根深い問題が潜んでいると思うのです。サミットを「外圧」として内政上の政策推進に利用しようとはかり、空回りしてしまったということです。
一人荒野を行く日本
金融危機や欧州の債務危機からの回復期にある過去数年の間、先進国各国の国内政治における最大の論点は、「緊縮」(=Austerity)に対するスタンスでした。特に欧州各国における保守系の政権は、厳しい政策を国民に訴えてきたという経緯があります。特に、独メルケル政権のショイブレ財務相や、英キャメロン政権のオズボーン蔵相は、ボコボコに批判されながら信念をもって規律と成長を訴えてきました。
緊縮策が、国家の経済と国民の幸福に対して万能なわけではありませんから、各国の事情に基づいて個別に精査する必要があるでしょう。それでも、意味のある形で「小さな政府」を代表する政治勢力が存在しない日本からすると、筋のとおった議論が展開されている印象です。その間の日本はというと、一人荒野を行っています。
アベノミクスは、前述の金融政策と財政政策と構造改革を「ぜんぶやる」政策体系であったはずでした。しかも、先進国最悪の財政赤字についても改善するという難しい課題を自らに課したわけです。4年目に入ったアベノミクスの評価はどうかというと、金融政策は舵を振り切っていて息切れ状態にあり、構造改革は小粒なもの以外は進んでいません。国内改革を進める起爆剤になるはずだったTPPは米国が「政治の季節」に入って先行き不透明となっています。そして、懸案となっているのが消費増税の是非です。
政権が消費増税を予定通り行うのか、再び先送りするのかは不透明な状況です。政権中枢の腹は決まっているのかもしれませんが、これまでのところは外野が騒いでいるだけのように見えます。財政規律の原則論を言う者、アベノミクスの失敗を認めたくないという政治論を言う者、増税とセットとなる財政の大盤振る舞いに期待する者など様々です。景気が悪化しているとまでは言えないとして、力強くないということはそうでしょうから、景気回復の重しになるような政策を打ち出すべきタイミングではないという王道の経済論ももちろん存在します。
消費増税の是非そのものについては改めて議論したいと思いますが、はっきりしているのはこれが安倍政権にとって最重要の決断であり、政権の歴史的存在意義を左右する決断になるであろうということです。衆参両院で圧倒的多数の議席を国民から与えられ、3年半の時間も与えられた中での決断ですから、その判断の結果はどう転んでも安倍政権の成果であり責任です。民主党政権の不手際についていろいろと批判してきた私ですが、さすがに、今度ばかりは民進党のせいにもできません。本格政権として、正々堂々と決断すべきことなのです。
だからこそ、気になるのがG7サミットにおいて垣間見えたある種の狡猾さです。相手国がしらけている中で自国の特殊事情を押し付け、外交と現実と内政の願望とを混同するのはいかにもかっこう悪い。玉虫色の外交合意を、内政上の懸案を推進するダシにするのは外交的に筋が悪いだけでなく、内政上の説明責任を回避するものです。政権を担った一定期間の経済政策の結果として重要な決断が必要なのであれば、国民への敬意としても、筋悪の外圧利用をすべきではないでしょう。
政治主導の外交
もちろん、日本という国は昔から自国の特殊事情を相手に押し付ける国ではありました。冷戦の圧力の下では、憲法9条を言い訳として国防負担から逃れてきたのがその典型でしょう。国際的な貿易交渉に際して、自国農業の特殊事情を延々と訴え続けるというのもそうでしょう。それらは、相対的に小国であったの日本が弱者の言い訳を使いながらも生き抜いていく方便でした。ただ、直近の事例は異なる力学に基づいているのではないでしょうか。
歴代の日本の政治的リーダーは基本的にドメドメ〔非国際派〕であった結果として、日本外交は長らく外務省主導で展開されてきました。官僚主導の外交には、スケール感はなかった代わりに一種の手堅さがあり、何より相手の事情を忖度するプロの配慮がありました。
プロの配慮にはマイナス面もあります。それがもっとも表れてきたのが、対中国や対韓国のアジア外交においてでしょう。外交のプロ達が各国への配慮を優先する中で、次第に日本外交と日本国民との間に距離ができてしまった。そして、安倍総理こそが、そんな流れを反転させる動きを主導した政治家です。日本外交にあって「毅然」とすることの政治的価値が見出されたのです。
政治主導の外交は、日本が過去20年間にわたって行ってきた改革の成果であり、基本的には良いことと思っています。まずは、各国の水準に追いつくという意味で時代の流れであり、外交や安全保障の分野でも機動的な政策運営が可能となるからです。総理や内閣をサポートする体制も強化され、民間から政権を支える人材の質や厚みも増していますから、日本外交はそのメリットは享受しています。今回はそのデメリットが明確に出たのではないかということです。
オバマ大統領の広島訪問
日米首脳会談とオバマ大統領の広島訪問も同じ文脈の中で理解できるのではないかと思っています。日米首脳会談後の共同記者会見はいつになく厳しいものでした。沖縄で軍属による殺人事件が起きた直後とは言え、会見で総理はのっけから喧嘩腰で、外交儀礼に反するレベルだったと思います。痛ましい事件に対して厳しい姿勢を取り、その背景に制度的な欠陥があるなら、そこにチャレンジすることは一国のリーダーがとるべき姿勢として適切です。
ですから、痛ましい事件をある意味「政治利用」して、日米地位協定の改定につなげたいという戦略があったのであれば、納得感はあるのですが、少なくとも共同記者会見でははっきりと言明しませんでした。痛ましい事件に対して、「怒る」ことは人間的には自然なことだけれど、一国のリーダーに求められる一番の役割ではありません。メディアの報道がそのままの形で各国に伝えられる今日にあっては、相手国内での報道のされ方にも気を使う必要があります。「怒る」ことに意味があることもあるけれど、そこには対価が伴うということです。
オバマ大統領の広島訪問についても、日本の内政上「絶妙なタイミング」で行われることに目が行き過ぎていないか。広島訪問をつつがなく実現するために、直前に起きた沖縄の殺人事件に対して「強行姿勢」を取ったとしたならば、沖縄の状況改善でも、日米同盟の信頼醸成のためでもなく、内政上の利益を優先したと言われても仕方がないだろうと思います。
もちろん訪問自体は評価すべき点もあります。「謝罪を求めない」ことを明確にしつつ、大統領の訪問を「暗黙の謝罪」と受け取るという日本的な解釈が、世界に理解されるかどうかは別として、一種の日本的な品格の示し方ではあるでしょう。昨年の米国上下両院での演説以来の寛大な和解路線は、中韓で歴史問題に火種を抱える日本にとって、スマートな選択肢です。
そもそも、大統領の広島訪問は、米外交のタブーに挑んできたオバマ政権のレガシー=ビルディングの一環です。オバマ大統領は、キューバに行き、ミャンマーに行き、イランと核合意に至り、ベトナムと和解を演出し、そして、広島を訪問するわけですから。何より、演出の人である同大統領がプラハで行った核なき世界の理想を語る作業の総仕上げのピースです。
外交というのは双方に利益がない限り機能しませんので、そこを見極めて実現までもっていったことそのものを「成果」とすることもわからなくはない。しかも、世論調査や事情通の話を総合すると、それは安倍政権にとって内政上有利になるという。私がなんとなく違和感を覚えるのは、内政上有利になる理由が何なのか、メディアがはっきり切り込めていないことです。情緒的に語るだけでは、論評したことにはなりません。
オバマ大統領の広島訪問について、どれだけ現実性があるかとは別の次元で、核廃絶への理想を体現する行動として評価する向きはあるでしょう。安全保障の根幹を米国の核の傘に頼っていることとの矛盾はいったんおいておき、欺瞞があることは承知の上で、理想を語ることには一定の意味があるからです。
日米の和解の象徴としてということもあるでしょう。東アジアの安全保障環境が悪化する中で、日米同盟を強化する方向に舵を切ってきたのが過去数年の日本です。それは、米国の力と意思が揺らいでいるように感じられる中での変化でした。同盟強化の路線には、戦後保守が抱え込んできた米国から見捨てられる恐怖と、米国へのわだかまりという相矛盾する感情をコントロールする必要がありました。そのためには、原爆についての「暗黙の謝罪」という象徴性がどうしても必要だったのでしょう。
まとめ
サミットや日米関係の成果を「外圧」として利用することの最大の問題は、民主主義の健全性を歪めるからです。責任ある経済政策を訴えることも、同盟の重要性を訴えることも政権のど真ん中の責務です。政権の支持基盤の中には多様な意見があるだろうけれど、その説得から逃げるようであれば、何のための本格政権かということになってしまうでしょう。