山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

集団的自衛権(2) – 闘え左翼、ただし正しい戦場で

 7月1日、集団的自衛権が現行憲法の解釈として認められるという趣旨の閣議決定がなされました。関連する法整備はこれからですし、その後も、安全保障の現場で日々行われる意思決定や行動規範がただちに変化するわけではないでしょう。安全保障の世界の常識からすると、同盟国が互いに(=集団的に)自衛権を行使することは一般的なことですので、本来は、それほどインパクトのある政策変更ではないはずなのですが、戦後民主主義の伝統からは確かに大きな一歩です。以前のエントリーで、私は集団的安全保障論議を、泥仕合と表現しました。ここ数週間にわたって展開された不毛な論戦とセンセーショナリズムに辟易していらっしゃる方々から共感のメッセージも数多くいただきました。とは言うものの、そんな泥仕合の中にこそ日本の民主主義の課題が垣間見えたような気もしますので、本日はそんなことについて考えたいと思います。

 多少乱暴ではありますが、泥仕合の様相を振り返りましょう。まず、日本をめぐる安全保障環境の悪化への懸念と、長年保守や右翼としてマージナライズ(=周辺化)されてきたイデオロギー集団の執念がないまぜになった改革意欲がありました。「平和勢力」の側にも、自分達が一生を捧げてきた運動とアイデンティティーのシンボルを守りたいという執念があります。そして、諸勢力が入り乱れて理と情のボルテージを徐々に上げていく中で、問題は具体的な政策課題を超えて、「この国のかたち」を巡る争いへと再定義されてしまいます。国賊軍国主義、戦争、ファシスト等々の言葉があふれ、なんでもあり、の論争からは定義や方法論が曖昧な思惑含みの世論調査結果まで飛び交います。最終的には、安全保障論議を法律論に押し込めて議論する伝統にのっとり、それぞれの勢力が勝利宣言するためにも、論点を字句解釈に矮小化させる手法がとられました。それこそ、戦後日本の政治的、知的伝統の積み上げであり、本質的でないことが本質的という複雑な状況があるのです。

 本日の論旨からは少しずれますが、集団的自衛権の行使は国際政治の観点から見ると、50年ほど遅れて訪れた日本の再軍備の重要なピースと言えなくもない。繰り返しになりますが、国際的には、自衛隊はとうの昔から意味のある戦力ですし、集団的自衛権を行使することは日米同盟の当然の帰結であると各国も思っていますので、象徴的な意味しかありません。ですが、実質的にせよ、象徴的にせよ、敗戦国の再軍備が波風をもたらし、反発を呼ぶのは当然のことです。ドイツは、その人口と国民の生産性の当然の帰結である経済的な覇権を手放して、欧州に統合されるという意思決定をしたわけですし、その過程で、特にフランスにはずいぶんいじわるをされました。そういうものです。直近の習近平国家主席の訪韓時の演説を引くまでもなく、中国も、韓国も激しい国民感情を抱えています。70年を経た、今日の彼らの「懸念」にどれだけ正当性があるかは別にして、国民感情にはリアルなものがあるわけで、それはまあ、そう言うよねという感覚は必要でしょう。

 そもそも論で恐縮ですが、政治プロセスとは美しくないものですし、政治的決断が正しい理由によってなされるとは限りません。もっと本質的な議論をしようと識者の方がおっしゃるのもわかりますし、それは識者の役割ですから、私もついそのようなことを申し上げたくなります。けれど、ある次元では、今回のごたごたも理想論ではない日本の民主主義が健全に機能した結果だと言えなくもない。我々のすぐ近くにも、恐怖と抑圧の中でそもそも議論が封殺されている社会もあれば、日本にもごまかしと欺瞞の中で議論そのものが成立しない分野もあるのですから。私が気になるのは、むしろ、世の中には一つの真実があり、何事も話せばわかるという思い込みがあって、それが民主主義の成熟を妨げていることです。泥仕合に嫌気がさした時こそ、民主主義の本質を見つめなおすことが大切です。

 政治の本質は闘いであり、友敵概念です。

 けれど、これだけでは身も蓋もない。だからこそ、民主主義を機能させるための、非民主的な要素が重要になります。それは、行政やマスコミの真のプロフェッショナリズムであり、サイレントマジョリティーを説得するための謙虚さであり、浅薄な一体感信仰の向こう側にある弱き者への優しいまなざしです。議論を成立させるためのお互いへの信頼感であり、リスペクト(=敬意)であり、コンパッション(=共感)です。勝った側はけっして殲滅戦はしてはいけないし、負けた側は、考え方は異なっても民主主義が出した結論を尊重しなければいけない。最後の最後に平和や人権を守るのは、法律の字句にこめられた「歯止め」などではなく、民主主義の下で生きる我々の市民精神でしかありません。平和や人権というものが、いかに危うい基盤の上にあるかということの自覚こそが民主主義を力強くするのです。

 集団的自衛権の論議が峠に差し掛かった今週、日経新聞の『経済教室』に加藤秀樹氏の日本の民主主義の本質についての論考が掲載されていました。泥仕合を経た疲労感を意識してこのタイミングで掲載したのだとすれば、日経新聞のセンスに感心する思いです。民主主義の本質を指して、行政対住民ではなく、住民対住民と喝破しているあたりはさすがです。民主党政権時代の政治的な「仕分け」でケチがついてしまったことは同氏も認識しているようですが、やはり、この方向以外に我々に進むべき未来があるわけでもないでしょう。

 日本社会は、良い意味でも悪い意味でも、友敵概念に基づく政治の本質を覆い隠すことに長けた社会です。それは、権力政治の対極として王道の統治を理想とする儒教的伝統によるでしょうし、近代の上からの近代化が市民の闘争というより政権による恩恵と言う形で進行したことにもよるでしょう。戦後、冷戦の枠組みの中で国家戦略のレベルでとり得る政策の選択肢は極めて限られていましたので、政治を拡大したパイの分配に集中させるという日本政治が辿った経路によるところも大きいでしょう。結果として、日本には目に見えるわかりやすい形での「くびき」や分断がありません。

 唯一のわかりやすい分断が歴史認識であり、安全保障をめぐる観念論の世界です。この分野だけは、左右のラディカルな意見が紙面を覆い、友敵概念が明確すぎるほど明確な泥仕合が展開されます。特に、冷戦後、一貫して押されがちのリベラル勢力にとっては生き残りをかけた戦いであり、自らの来し方に関わるアイデンティティーの問題になってしまっている。しかし、ふと、冷静になって考えたとき、リベラル勢力のエネルギー配分は果たして正当化されるものなのでしょうか。

 日本にはわかりやすい形での分断がないというのは、もちろん、見かけ上の問題であって、人間の集団である以上は日本にも重要な分断がいくつもあります。それは、例えば、地方であり、女性であり、非正規です。そして、これらの要素が重なるところにこの国の大きな不正義があります。

 地方は、中央集権の情報と資金の流れによって永遠に意思決定の下部構造にとどめ置かれ、自立する精神も体力も育ちません。繰り返される「地方の活力」を高める試みは、中央とのパイプを誇る人々を潤すだけで、ほとんど効果がないばかりか、かえって自立を遠ざけてさえいます。

 女性の地位も、建前上は平等になりました。子育ても、介護も社会化される部分が増えて実質的に改善した部分も多いけれど、不見識な議員のヤジの例を挙げるまでもなく、変わっていない部分が多い。日本中のキャリアウーマンのほとんどは、セクハラのヤジのような状況に自らがおかれたとき薄ら笑いで傍観する冷たい男性社会の実態を経験していることでしょう。世代を超えて積み重ねられた差別意識は、世代交代でしか変えられないのかもしれないし、足を引っ張る同性も多いけれど、啓蒙の余地も、踏み込んだ政策の余地もまだまだ大きい。

 非正規の労働者は、彼らを助けるべき立場にあって地位も組織も持っている労働界に見捨てられ、生活のために、自己責任で黙々と努力している。多くは、生活改善への希望もなく、積み上げたセーフティーネットもありません。そして、そんな働き方しかしてこなかった世代がそう遠くない将来に年老いたとき、この国には、彼らを支える物質的な備えも、心の準備もないのです。

 何が申し上げたいかというと、別に日本の暗い部分を殊更に強調することではありません。日本のリベラルには、闘うべきテーマがいくらもあると言いたいだけです。学生運動が盛んだったころの壁新聞の伝統に則って過激な言葉で結ぶなら、こんな感じでしょうか。

 ―闘え左翼、ただし正しい戦場で―