山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

9条とリベラリズムの死

リベラリズムとは何か?

総選挙が公示され、本格的な選挙戦が始まっています。今般の選挙においては、リベラルという言葉が注目を集めています。直接のきっかけは、小池都知事率いる希望の党への民進党の合流話が持ち上がったこと。希望の党は「保守」を標榜し、小池氏もリベラル系議員の排除を表明しました。安保法制と憲法改正を軸とした「踏み絵」が課され、枝野氏をはじめとするリベラル系議員が立憲民主党を結成した展開は周知のとおりです。

ただ、小池氏や枝野氏が拘ったリベラルとはいったい何かという点は必ずしもはっきりしません。政治家も、メディアも随分乱暴な使い方をします。一般的にリベラルとは、自由と進歩を大切にする姿勢ということになるでしょう。もちろん、これだけでは政策的な傾向ははっきりしません。実際、諸外国を見ても、いわゆるリベラル政党の主張は多岐にわたっています。

リベラルにとっては自由が大切であると言っても、経済分野では自由よりも規制に傾く傾向があります。それは、自由経済はどうしても貧富の差を生んでしまい、弱者の実質的な自由を奪ってしまうことが多いから。結果として、大きな政府を通じて経済を統制するような方向に行ってしまう場合もあります。

本来は、リベラルは共産主義に代表される権威主義的な左翼とは明確に区別される存在なのですが、特に経済分野では両者に混同が生じやすいのです。

社会問題では、リベラルは多様性を重視します。いろんな立場の人の自由を認めるためには、結局多様性を重視するしかないからです。リベラリズムは、宗教、人種、性別、年齢、性的嗜好と多様性の幅を徐々に広げてきました。

ところが、多様性を広げることが具体的な予算措置を伴う場合には、既存の「生活者」との間で緊張関係が生じます。新に多様性を認めることが既存の利益配分に変更を迫る場合があるからです。結果として、リベラルが多様性の進展を遅らせる側にまわったこともありました。

このように、リベラルと言っても国によって時代によって、政策には相当程度幅があるのが実態なのです。

9条信仰の内実

日本のリベラリズムにも、当然特徴があります。小池氏が、リベラルに課した「踏み絵」が安保と憲法であったのは示唆的です。ある意味、日本型リベラルの核心には憲法9条があることを裏書きしていると言ってもいいでしょう。

憲法9条の制定と受容の過程は戦後史の大きなテーマです。占領軍によって起草された日本国憲法は、帝国議会による議決という形をとって成立し、70年以上にわたって保持されてきました。日本国憲法が適正な手続きで制定され、民主的基盤を有するものであるのかは長らく論争の対象であり、そこには、いかにも日本的なあいまいさがあります。

当初、占領軍による日本の武装解除という意味合いが強かった9条は、しだいに「平和国家」としての日本のアイデンティティーの核となっていきます。私は、それは限りなくナショナリズムに近い感覚であったと思っています。日本のナショナリズムは敗戦によって根底から揺さぶられました。日本は(戦争という)悪いことをして、しかも負けた。街では、占領軍が偉そうに振る舞っている。自分の国を誇らしく思いたいという感情は行き場を無くしていました。

そんな精神状況を救ったのが、「日本こそが世界に誇る9条を戴いた『平和国家』なのだ」というストーリーだったわけです。9条は、戦後日本社会が自らのために作り上げたフィクションです。それは、選民思想に基づいた、都合の良い論理のウルトラCなのですが、この欺瞞が70年以上にわたって、少なくない国民から支持されてきたのです。

戦後初期の日本にとって、9条には歴史的必然があったと思います。敗戦国再軍備を制限されるのは、大戦争の後始末としてある程度やむを得ないことです。周辺国の猜疑心を和らげることで徐々に国際社会に復帰していけるわけですから。

問題は、憲法9条の存在によって日本人が平和や安全保障について考えなくなってしまったこと。9条は、それさえ言っていれば良い呪文のようなものになってしまいました。この欺瞞は、自衛隊を発足させたあたりから先鋭化したと思っています。

平和について考えることは「しんどい」ことです。9条信仰が、そのしんどさと向き合わないための言い訳になってしまっています。

例えば、昨今の国民の一番の関心事は北朝鮮危機でしょう。北朝鮮は世界有数の人権蹂躙国家です。金正恩は、自らの政権の幹部達を機関砲で粉々にしたり、犬に襲わせたりするような残忍な独裁者です。国民に自由はなく、政治犯は強制労働収容所に送られます。国家によって、実質的には奴隷制や強制売春である行為が公然と行われるような国です。

しかし、和平とは、そんな国との間でこそ取り結ばなければならないものなのです。和平が成立した暁には、そんな国に、経済援助と称して国民の血税を注ぎ込むことになるでしょう。和平とは、耐えがたきを耐えることです。それでも、核戦争よりは「まし」だからです。

日本型リベラルにとって、9条と決別することは自らのアイデンティティーを試されること。同時に、日本が国家として成熟し、平和と正面から向き合うため乗り越えるべきことです。

ジレンマを含んだ選択

9条信仰が持っていたもう一つの役割は、国内問題に潜む様々なジレンマと向き合うことを回避する手段となったことです。リベラルが全ての人の自由を達成し、社会の進歩を目指すにしても、その達成は一筋縄ではいきません。特に、国内の経済政策や社会政策には国民を分断しかねない断層があるからです。

リベラルにとって最も悩ましい断層の一つが、組織労働者と非正規労働者の間に横たわるもの。働く者の権利と福祉を増進する上で、労働運動はリベラリズムの強力な担い手です。労働運動が力を得るためには、労働者が組織されることが何より重要です。当然のことながら、労働組合は組織労働者の利益を最優先します。

ただ、この論理が強すぎた結果として、労働運動は非正規の増加にうまく対応できませんでした。最も弱い立場で働いている非正規の権利増進に対して、リベラルが非常に冷たいという時期が、長く続きました。

もう一つ重要だった断層が働く女性と専業主婦の間のもの。より一般化すると、多様性と生活保守の間の断層と言い替えても良いかもしれません。女性の地位が向上し、多様な働き方が生まれて価値観も多様化していく中、リベラルは股裂き状態になっていったのです。一方には、働く女性をはじめとする多様性を後押しする政策があり、予算措置も必要になる。他方には、専業主婦をはじめとする従来の価値観に基づく「生活者」の既得権がある。

例えば、リベラルは共働き家庭との比較において専業主婦を優遇する税制や年金制度について、終始あいまいな姿勢をとってきました。このような難しいジレンマと向き合うことを嫌ったのです。

9条信仰は、これらの断層をとりあえず踏み越え、リベラルを大同団結させる錦の御旗になってきました。支持基盤が割れてしまうようなめんどくさい論点は置いておいて、とりあえず「戦争反対!」、「9条守れ!」と唱えていれば済んだからです。

今般の選挙において、希望の党は9条を含む改憲の側に立ちました。結果として、立憲民主、社民、共産の護憲を媒介とした結束が際立っています。選挙は国民の審判ですから結果についてはわかりませんが、改憲の発議を阻止するための衆院の1/3である155議席を獲得することは難しいでしょう。9条改憲は時代の趨勢として、早晩実現するでしょう。それは、日本社会の進歩にとって良いことです。

私が懸念するのは、日本型リベラルが時代遅れの9条信仰の道づれになって敗北することで、結果として日本からリベラリズムの火が消えてしまうこと。今後、より革新的な進歩的政策として、少数者の権利を保護しようとする機運が保守の側に生まれるとも考えづらい。日本がリベラリズムと真摯に向き合ってこなかったツケを、将来世代が払うことになるのです。

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*NOWワシントンDCオフィス所蔵の写真を許可を得てお借りしました。