山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

内閣改造前夜

後世の批判に耐えられるか

内閣改造が明日行われます。明日の今頃には新任の閣僚に対していろいろな論評が行われていることでしょう。そもそも、「(内閣の)骨格は変えずに、人心は一新する」という難しい課題設定は、政策は継続しつつ話題だけ変えることが目的なのですから。とはいえ、改造の度に騒ぎとなるのは、政治の「まつりごと」の部分として大衆社会の健全性とも言えなくもないでしょうが。

ただ、改造前夜の「待ち」の時にこそ、これまでを振り返り、明日起きるであろうことを解釈するための整理をしておきたいと思います。言ってみれば、日常から少し離れて、時代感覚を取り戻す作業です。例えば、1年前の夏にタイムスリップしたとして、どんな景色が見えていたか。

自公政権参議院選挙で圧勝し、維新などの一部野党と合わせて衆参で「改憲勢力」が2/3を取りました。戦後、ずっと先延ばしにしていた、国造りの根本がようやく動き出すという期待感がありました。

2017年には大型の国政選挙がないから、難しい改革にも取り組める。2度にわたって消費増税を先延ばしにしたのも、そもそも増税できる経済環境を作り出せなかったから。野放図に拡大を続ける社会保障改革や、金融緩和で環境を整える間に構造改革に取り組むはずでした。保守の本格政権という権力を、存分に行使する舞台は整っていたはずでした。

世界も動いていました。英国がEUからの離脱を決定し、米国ではトランプ候補が勢いを増していました。メディアには、自由主義や資本主義を冷笑的に捉える不穏な空気が充満していました。中国は単独行動を続け、ロシアとの外交交渉は佳境を迎えていて、そこには生々しい地政学的緊張がありました。北朝鮮は、世界中を敵に回しても核開発に邁進する意思を明確にしており、戦後日本の安全保障の前提が崩れつつありました。

取り組むべき国内改革は見えており、国際社会において日本政治は例外的に安定していました。今こそ、仕事をするときでした。

それから1年。実際の日本政治で展開された狂騒は何だったのか。後世の歴史家は日本中が何を騒いでいたのか、おそらく理解できないでしょう。無論、1年間という時代感の下地には過去20年以上にわたって蓄積する危機のエネルギーがあります。加速する高齢化、止まらない少子化、積み上がる借金、変わらない低成長、上がらない物価。そんな中、東アジアはより物騒になり、頼りの同盟国は内側から変質していっている。

狂騒の原因と結果

過去1年の狂騒の淵源は、権力の側にある者と、権力を批判する者の双方が、深刻な危機を正面から見据えることをしなかったことにあります。権力にある者は、その権力を国民の将来のために果断に行使するというより、権力そのものを維持するために慎重になった。権力を批判する者は、国民の将来のために必要な対案をぶつけるのではなく、強大な与党の足を救うためにスキャンダルをあさった。そうして、日本から、仕事をするための1年が失われていったのです。

ただ、精いっぱい前向きに考えると、政権がグラついたからこそ明らかになったこともある気がしています。政治的な凪の時より、多少波風がある時の方が物事の本質が見えてくるということです。

まず、ポスト安倍のリアルが見えてきました。安倍総理の次を狙う覚悟がある人と、その運動の広がりの程度が見えました。禅譲を期待するだけで、戦えなさそうな人も見えました。メディアからの攻勢を受け、もはやリーダーとして立ち行かない人も出てきました。本音では、憲法改正にも構造改革にも後ろ向きなご都合主義者達もはっきりしました。グラついている議員や政党に信念はあるのか、真贋を見極めるには良い機会です。

他政党にも動きがありました。公明党がにわかに憲法改正に消極的になっているように見えるのは残念です。「機が熟す」ことを言い訳として、現状維持と自党の影響力最大化を図るようでは、歴史の審判には耐えられないでしょう。

民進党は、足の引っ張り合いといういつものお家芸に励んだ結果、党首の首を挿げ替えるところまで行きました。支持母体の連合と政権との接近度合いによっては、解党的出直しではなく、普通に解党ないし分党に落ち着くかもしれません。都民ファーストを呼び水とした、政界再編の可能性は高まっています。

モリ・カケ問題の本質

日本政治を彩ったモリ・カケ問題とはいったい何だったのか。細かい経緯や論点は、これまでも書いてきたので、日常を離れたそもそも論を語るべきでしょう。両問題の根幹には、「口利き政治」という日本政治の根本的な課題があります。

国有地の払い下げが適切に行われたか、あるいは、大学の設置認可が適切に下されたかという行政判断に、何らかの政治力が働いたことも明らかです。それが、法的に問題のあるものだったかは、法に則って関係機関が精査すればいいとして、政治力の存在を否定する議論は、詮無いものです。政権側がむきになって政治力の存在を否定するような姿勢を取るからこそ、問題が大きくなっているだけです。

私が疑問なのは、本当に口利きの政治を否定することが正しい課題設定なのかということです。メディアだって日本政治とは、口利き政治そのものであることは十分理解しています。自分達だって陳情するわけですから。良い子のふりをして純情ぶっているのは何故なのか。普通の議員の後援会でのスピーチを聞けば、いかに自分が口利きに励んでいるかをアピールしているようなものです。日本政治ってそんなものです。

それは、日本の官僚機構の力が強く、大きな裁量を有しているにも関わらず、民間の経済主体の身になった行政ができていない故に生じる現象です。国有地の取得や、業界参入の許認可取得に際して、官僚機構は民間では考えられないようなことを要求してきます。それを、経済の実態に合わせて調整するのが政治の役割であり、自民党の存在意義でした。

行政は歪められたのか、という問いそのもののピントがずれているのです。身も蓋もないかもしれないですが、「まあ、そうですけど」という以外の答えはないのです。ただ、歴代の自民党政権には一定の節度はありました。行政への介入は、単に一事業者の利益のためではなく、業界や地元への還元という視点が重視された。しかも、総理にまで上り詰めた者は、直接には手を下さないという不文律があった。

それでもモリ・カケ問題を追いかけるのであれば、収賄罪や背任罪やあっせん利得罪を構成する事実を見極めること。それ以上は、どこまで行っても節度の議論にしかならないわけです。

他方で、獣医学部新設程度の問題でこれだけの政治力が必要だったということには、つくづく驚かされました。獣医師会の抵抗があり、族議員の抵抗があり、文科省の抵抗があり、国家戦略と銘打つにはスケール感の小さい政策を動かすのにさえ、これだけの政治的エネルギーが必要だったわけですから。それでは、大玉の規制改革案件など動かしようがない。日本という仕組みそのものが制度疲労を起こしているのです。 

防衛省の日報問題

モリ・カケ問題に加えて、過去1年の狂騒に大きく影響した問題が防衛省の日報問題でした。本件は、日本で政と官の関係や、政と軍の関係を考える上で重要な示唆を含んでいます。

ところが、野党やメディアは稲田前防衛相の資質に着目し、本件の核心を見誤っていました。稲田氏の問題は、単なる資質を伴わない政治家の失敗でしかない。不名誉な形で大臣職を辞し、将来トップリーダーとなる芽もなくなったのだから、それはもう決着のついた話でしょう。

むしろ特別防衛監察の中に織り込まれた論点を丁寧に救い上げることが重要です。私は、大きく5つの問題があると思っています。

PKOの現地活動記録という重要情報を、公開を避ける目的で個人文書としたこと

②行政の無謬性神話を維持するために、問題があることを認識しながら、複数回にわたって「文書不存在」という判断を行ったこと

③文書不存在の判断を事後的に正当化するために、文書を破棄するという、積極的な隠ぺいと言われても反論できない判断を組織として行っていること

指導力に欠け、組織からの人望のない大臣の命を受け流し、あるいは、重要であることを認識しながら報告を怠ったこと

PKO五原則や、駆けつけ警護の任務が成立しているとの擬制を維持するために、現場のありのままの報告を抑制し、実力組織を欺瞞と忖度の連鎖に引き込んでいること

読者諸賢からすれば、舞台が防衛省であり日報問題であるけれども、他の行政機関でも類似の問題が頻発してきたことがわかるのではないでしょうか。気持ち悪いのは、特別防衛監察の中で語られる再発防止策が全く本質をついていないことです。

特別防衛監察の提言は、むしろ、次からは問題にならないようにうまくやりますとも読めてしまう。メディアや野党の追及も、日本の行政の体質に踏み込むのではなく、稲田氏のクビを取った後は、安倍政権の痛手を最大化することにしか関心がありません。

何に取り組むかという権力

過去1年の狂騒は、権力にある側と、それを批判する側双方が本質と向き合わなかった結果であると申し上げました。その意味で、まずは政治がアジェンダセッティングの力を取り戻す必要があると思っています。政治の最大の権力は、ある問題にどのような解を見出すかということではなく、そもそも、どの問題を解くのかということにあります。言い換えれば、大事なのは答えではなく、問いそのものということです。

政権も、野党も、メディアも、重要な問いが何なのかを今一度考えるべき時でしょう。私自身、部分的に身を置いているメディアについても、批判的に振り返る必要があります。最近は、血の匂いを嗅ぎつけ、政権を打倒するまで叩き続ける体制に入っています。それが、一部保守から言われているような、9条改憲を明言した安倍政権への護憲イデオロギー側からの抵抗運動であるならば、理解はします。元々、メディアの中立性というのは、歴史的にも現在の実態としても眉唾だと思っていますから、そこは正々堂々と言論を戦わせれば良い。

私が疑っているのは、それが単なるセンセーショナリズム(≒情緒主義)なのではないかと言うことです。事案の本質についてよく考えずに、シニシズム(≒皮肉、しらけ)だけを振りまく姿勢です。ニュース解説の実に多くが、「国民は納得しているのでしょうか」や、「よく考えてほしいですね」という中途半端な「感想」で終わっています。

メディアの役割が、真に政権を監視することにあるのだとすれば、政権にとって都合の悪い問いを次々に発し、どんどん検証していってはどうでしょうか。

金融緩和を5年近く続けても当初の目標を達成できないのはなぜか、経済の潜在成長率を高めるような規制改革の大玉が出てこないのはなぜか、2020年までプライマリーバランス黒字化目標の未達の責任はどこにあるのか、等々。安全保障でも、憲法改正でも、いくらでも重要な問いを発することはできます。

内閣改造は、政権にとってある種の賭けであると言います。改造後も政権の座に留まるであろう安倍総理に注文を出すとすれば、もう一度、集中してほしいということです。

スキャンダルには謙虚に対応し、パフォーマンスを上げられない大臣はそもそも任命しない。その上で、これまでに倍する力を重要政策に注いでほしいと。焦点は、当たり前の安保政策を行うための改憲と、当たり前の成長戦略を実現するための構造改革だと思っています。

歴史というのは、慎重に慎重を重ねた者が名を遺すのではなく、明日がないかの如く今日を生きた者が名を遺すものなのですから。

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