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山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

パリ同時多発テロを受けて

悲劇とは我々の姿を映す鏡

パリの同時多発テロから数日が過ぎ、ようやく事態の全体像が見えてきました。当初の混乱の中では、首謀者が誰であったかも、全員が拘束されたのかもはっきりせず、追加的な攻撃の恐怖も持続していました。フランス当局は、ISの犯行であった旨を断定し、ISの側からも犯行声明が出されました。フランス軍は、有志連合との協力の下にシリアにおけるISの主要拠点への空爆に踏み切っています。

テロとは、何よりも恐怖を作り出し、我々の日常生活を破壊することを目的とする行為です。世界有数の都市であり、文化の拠点において狙われたのは、人々が友人とのおしゃべりを楽しむカフェでした。音楽を楽しむ劇場であり、スポーツを観戦するスタジアムでした。テロによる破壊の目的は、現代社会における自由で文化的なライフスタイルそのものでした。

市民の姿が消え、重武装の兵士と救急隊員だけが行きかう戒厳令の街並みは、戦場を彷彿とさせる光景です。現地の情勢を伝える目撃者やジャーナリストは瞳孔が開いた興奮状態にあって、聞いている側も鼓動が早まるのを感じました。

今回のテロを受けて改めて感じるのは、この種の悲劇が我々の姿を映し出す鏡であるということです。ここで言う我々とは、現代社会であり、西側諸国であり、日本社会という意味で使っています。各方面から寄せられる反応は様々でした。ある者は、「西側の結束」を語り、文明国としての自由や平和を守ることの意義を強調します。ある者は、多様性や寛容について語り、何万人単位で押し寄せる難民達に同情を寄せます。またある者は、かつての植民地支配や宗教間の根本的な対立について語り、中東で進められている戦争を糾弾します。それは、人間としてしょうがないことなのだろうけれど、悲劇にかこつけて、従来からの主張を展開する誘因のいかに強いかということです。

そこに存在するのは紛れもない一人の人間の死です。平和な社会に暮らす我々にとって、自爆する狂気、無差別に銃を乱射する狂気、人質を一人一人殺していく生々しい憎悪と向き合うことがいかに難しいかということでしょう。目の前の悲劇を題材に自分のストーリーを語ってしまうことの安易さを思います。改めて、目の前の悲劇にコンパッション(=共感)を覚えることの難しさを思い知らされます。

ジハーディー・ジョンの死

パリの同時多発テロの前日には、ISの広報戦略において大きな役割を果たしていた、いわゆるジハーディー・ジョンが有志連合の空爆によって死亡したというニュースが流されました。日本人の人質二人を拘束し、黒頭巾とナイフで脅しながら無慈悲にも手をかけた犯罪者の死です。しかし、日本で最もなじみ深いテロリストの死に対して、日本社会は奇妙なほどに無反応でした。

米国を中心とする有志連合による空爆の結果を確認するのが難しく、現代戦の結果を想像するのが難しいというのはあるでしょう。精密誘導弾やドローンによる攻撃に不気味な無機質さがあるのは事実です。けれど、私にはそれが感情的なつながりを持つにいたった一人の人間の死に対して戸惑いであるように思えます。戦争や暴力がどこか遠くで行われる抽象的なものとしてではなく、無法な理屈をでっちあげて無防備の同胞に手をかけた犯罪者の死という形で我々の前に現れたからです。

彼は、テロを通じて我々に恐怖を植え付け、やるかやられるかの構図を作り出すことに成功してしまった。戦争や暴力が具体的であるということは、そこに対置される平和や正義もまた、具体的にならざるを得ません。その世界観において我々は、我々の平和と安全が戦いによって守られているという証を突き付けられてしまいました。ジハーディー・ジョンの死という具体的な事象を、平和や正義として読み替えることにほとんどの日本人は強い感情的抵抗を覚えるのです。

我々が生きる現代という時代において、戦争や平和の概念はそのように具体的なものへと変化していっています。

終わりのない戦い

今般のテロの背景やその影響については様々なことが言われているけれど、安全保障の専門家の間で共通認識に近いものがあるとすれば、先進国において今回のような攻撃は防ぐことは不可能だということです。恐ろしいことです。フランスやアメリカや日本のような開放的な社会を維持し、すべての公共施設を準軍事的に警備するという前提を置かないのであれば、テロは防げない。これは、我々の安全と自由に対する根本的な挑戦であり、不吉なことを予言するようですが、この種の攻撃は続くだろうということです。

今般のテロを受けて、国際社会の雰囲気は変わっていくでしょう。有志連合のIS掃討に向けた動きが勢いづくだろうと思います。パリやワシントンでは、ISとの闘いに向けた新たな政治的意思が表明されるはずです。しかし、その意思が中東の現実を変化させられるものであるかと言えば、難しいのではないでしょうか。軍事力によってISを滅ぼすことはできないと思うからです。

有志連合が軍事介入を本格化すれば、今日現実に存在し、現実にイラクやシリアの領域を支配しているISの諸勢力を滅ぼすことは可能であると思います。しかし、それはISという名を持たないけれど、限りなくISに近い存在としての新たな勢力を生み出すことにつながるでしょう。それこそが、30年来続けられてきた構図です。

アフガニスタンにおける共産主義者と戦うためにムジャヒディーンの戦士達に武器が与えられ、そこからアル=カイダが生まれ、9.11のテロが生じました。イラク戦争が生じさせた権力の真空と中東の春が生じさせた混沌をISが埋め、今回のテロが生じました。ISを滅ぼした権力の真空は何者かによって埋められる運命にあるのです。そこからは、まだ見ぬ悪魔的な存在が生まれるに違いないのです。そこに無知と憎しみが存在する限り、その悲劇は繰り返されるのです。

パリの同時多発テロと時を同じくして、レバノン自爆テロでも数百人規模の犠牲者が出ています。いまやテロの脅威は中東全域で日常化しています。シリアという国はもはや存在しません。領域の人口の約半数の1,000万人以上が難民となって住処を追われています。イラクも、無能な中央政府の下で事実上の独立圏が生じています。ISに対して奮戦しているのは、スンニ派に対する敵意のあるイランの支援を受けるシーア派系の民兵であり、自分達の生存権と独立を求めるクルド人系の勢力です。

求められているのは、交渉可能な当時者を特定することであり、停戦の合意を模索することであり、諸勢力が宗教的寛容を受け入れることです。その先には、新たな悲劇を生み出さないための難民への支援があり、経済を再興するための国際社会の足の長い関与と援助が必要です。教育を通じて多様性を育み、無知と憎しみの連鎖を断ち切ることです。

残念ながら歴史が繰り返し示してきたことは、自国民がテロの犠牲にあっているときに民主主義国のリーダーがそのような長期的な政治的意思を持続させることは不可能に近いということです。

パックス=アメリカーナの終わりの始まり

我々は、冷戦時代を通じた「アメリカによる平和」の時代の終わりの始まりに立っています。もちろん、それは文字通りの平和ではありませんでした。ベトナムイラクでは不正な暴力が行使され、無実の市民が命を落としました。

「戦略的」でない地域で生じた悲劇は捨て置かれ、そこでの殺戮は記憶すらされていません。しかし、西側の市民にとって暴力は遠い存在であり、日常には平和がありました。それは、他者の犠牲の上ではじめて成り立ったものであり、冷酷なものではあったかもしれないけれど、平和ではありました。

かつて、古代と中世を隔したのはゲルマン民族の大移動であったと言われています。人が現実に移動することによって、その後の歴史に対して不可逆的な影響の連鎖が生じていくからです。近年の中東諸国の混乱とそこから発生している難民の動きは時代を隔するインパクトを持つでしょう。ドイツには、一日1万人の難民が押し寄せています。東欧諸国は国境を閉ざし、右派政党が台頭しています。

中東の混乱が収まらない限り難民の流出が収まることはないけれど、近い将来に事態が収拾される可能性は低いでしょう。そこに、十分な政治的意思と資源が投入される可能性が少ないからです。もっともっと事態が悪くならない限り、良くなることはないだろうということです。

戦後の日本社会は西側からも一定の距離を取っていた結果、暴力からは二重に隔離されていました。指導的な立場にいる者でさえ、国際社会の混沌を前に難しいですねと言って会話を引き取り、平和は大切ですねと言って結びました。そんな時代が終わろうとしているのです。グローバリゼーションの進展がそれを許さなくしています。テロの拡散によって日本人が犠牲となることも珍しくなくなってしまいました。

戦後の日本が享受していた平和は、特定の構造の上に成り立っていた僥倖でした。そして今日、暴力を抑え込んでいた装置のタガが外れつつあることを恐れています。国際社会の変化は、日本を放っておいてはくれません。その変化に対処する方法は、その変化を否定することではないのです。日本が慣れ親しんできた平和という概念をどのように捉えるかという根本に変化が押し寄せているのです。

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