山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

安保法制について(2)―国際平和共同対処事態

 前回は、安保法制の諸論点のうち、日本の防衛に直接かかわる点について取り上げました。日本の防衛を確実なものとし、抑止力を維持するための現実的な選択肢としては、日米同盟の信頼性を高める以外にはありません。そのためには、技術的にも、政治的にも集団的自衛権の行使容認が必要であると申し上げました。だからこそ、そのような重要な政策変更を、妙なごまかしや周辺的な事例を提示することで切り抜けるという発想は良くないと。

 本日は、日本の防衛とは直接にはつながらない、「国際平和共同対処事態」について考えたいと思います。国際平和共同対処事態とは、普通の日本語で言えば、何らかの地域紛争ということでしょう。冷戦終結後も、ソマリア、旧ユーゴ、ルワンダスーダンアフガニスタンイラク、シリア、リビアウクライナなどで深刻な人道的危機を伴う地域紛争が発生しており、国際社会はその都度介入の是非について苦慮してきました。日本自身も、これまでは特措法を制定して個別に判断を行ってきた領域です。そこに、常設の基準を設定しようといういわゆる恒久法の議論です。

 もちろん、以上に例示したものだけ見ても、紛争の性質には多様なものがありました。一国内での民族や部族の対立もありましたし、それが国家の分裂と戦争につながる場合もありました。脅威と認定された国が大国の介入を受けた場合もありました。ここでも細かい法律論に入る前に、日本という国がどういう事態において、どういう価値観に基づき、どのように当該紛争と関わっていくべきかという議論からはじめるべきでしょう。

 安倍政権の掲げる積極的平和主義には、平和を、武力行使を行わないという不作為として定義するのではなく、積極的な行動を通じて平和を作り出すというニュアンスが込められています。平和を作り出すために、時として、武力の行使が必要であるというのは、残念ながら今日の世界の現実です。平和国家としてのアイデンティティーを国是として掲げる日本にとっても、国際社会の平和のために、積極的に行動する余地があるという発想には、私も原則として賛成です。

冷戦後の介入の教訓

 他方で、特に冷戦後の世界が直面した様々な紛争を振り返ったとき、平和を作り出すための行動が、果たして本当に平和を作り出してきたのかという点については厳しい考察が必要です。多くの介入が、実際には権力の空白を作り出し、長引く戦後統治の混乱を通じてかえって地域全体の暴力の水準が高めてしまったというのが現在の中東の現実です。正義や平和を求めたはずの行動が、平和をより遠い存在としてしまうことがあるということもまた、我々が生きる現代のもう一つの現実です。

 だからこそ、国際社会のスタンダードな議論は、どうすれば国際社会において平和を作り出せるのかという困難な命題と正面から対峙するものなのです。そこで行われているのは、多様な紛争を理解し、分類し、介入の成功事例と、失敗事例を突き詰めていく作業です。そこで発せられる問いは様々です。外部からの介入を必要とするような安全保障上あるいは人道上の危機が存在するか、介入を正当化するための国際的なコンセンサスは形成可能か、現地勢力を中心とした解決は可能か、戦後統治や復興はどのように進められるか、そのための軍事的・資金的・人的リソースは確保できるか、介入側の出口戦略をどのように描くか、などです。

日本で論じられるべき課題設定

 日本のメディアや政治の場で展開されている議論とは、ずいぶん様相が異なることがわかると思います。日本で行われる議論の中心には、日本の行動が「後方支援」にとどまっているのかどうか、それが「戦闘地域」で行われているのかどうか、医療品・水・油・弾薬などの物資のうちどれは運べてどれは運べないか、などの論点です。どうにもピントがずれているというのが率直なところです。

 過去の国会における支離滅裂な答弁を引用するまでもなく、紛争地域において、戦闘地域であるか否かは極めて流動的です。そもそも平和構築のための介入が必要なのは、多くはいわゆる破綻国家であり、軍閥やテロ集団が跋扈する地域なのですから当然でしょう。兵站の重要性がますます高まっている現代戦において、後方支援部隊と前線の戦闘部隊との線引きはますますあいまいになってきています。特に、前方と後方を犠牲が発生する可能性の大小で分けるのはナンセンスです。実際には、後方部隊の方がしばしば犠牲が多いのですから。

 国際的な介入が、国連の正式な授権を経たものかどうかという外形的な基準を重視する議論もいまだに盛んです。政府与党は、イラク戦争アフガニスタン戦争のような事態に日本が戦闘部隊を派遣することはありえないと、あくまで、後方支援を行うだけであると主張しています。しかし、もっとも大切な問いは、紛争に介入する際の役割や態様ではなく、そもそも、その介入が平和に資するものであるのかどうかという点です。

 大国の意向に振り回され、しばしば機能不全に陥る国連にその判断を委ねることはできません。同盟国にその判断を委ねることもできません。その判断は、日本の民主主義の結果として、日本政府だけが行えるものです。

平和国家としての理想をどのように具現化するか

 日本が、介入を検討する際の材料としてもっとも近いものがいわゆるPKO五原則といわれている基準でしょう。そこでは、

1)紛争当事者の間で停戦合意が成立していること

2)当該平和維持隊が活動する地域の属する国を含む紛争当事者が当該平和維持隊の活動及び当該平和維持隊へのわが国の参加に同意していること

3)当該平和維持隊が特定の紛争当事者に偏ることなく、中立的立場を厳守すること

4)上記の基本方針のいずれかが満たされない状況が生じた場合には、我が国から参加した部隊は、撤収することが出来ること

5)武器の使用は、要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られること

という5つの原則が掲げられています。

 部隊単位での武器使用をめぐって、第5原則の緩和しようという動きがあります。部隊の安全と任務遂行のためには必要な場合もあるでしょうが、部隊行動の態様にばかり注目が集まるのは本質からずれています。上記の第1~第3の基準では、複雑性を増す現代の紛争にはほとんどには対応できません。この部分を本質的に議論すべきです。

 平和につながらない正しくない介入には、仮に後方支援であったとしても介入してはならないのです。それが、平和に資すると思われる介入であるならば、日本も応分の負担を行うべきです。それが、犠牲を伴うものであったとしても。「平和国家」であることを理由として平和のための行動を回避するというのは論理的にも、道義的にも、国際的な信用という観点から政策的にも破綻しています。

 日本に突きつけられているのは、世界で起きている紛争について、主体的に考え、リスクの伴う判断も行わなければならないということです。もとより、それは簡単な作業ではありません。冷戦後の世界で現実に行われた介入を振り返ったとき、平和のための武力介入が正当化される事例の見極めには慎重な上にも慎重に行われるべきでしょう。イラク戦争のような、間違った、犠牲の多い、本質的な解決につながらない戦争を見極め、そこには断固として介入すべきでないと主張できるかが、平和国家としての正念場なのです。

偽善に満ちた不介入もまた許容すべき

 人道的悲劇が深刻で、介入の大義はあるけれど、介入側の犠牲が多すぎるという判断が必要な場合もあるでしょう。その場合、国際社会はしばしば人道的見地を過小評価して、もっともらしい理由をつけて犠牲者達を見捨ててきました。シリアでも、ウクライナでも国際社会はそうしています。国際政治とは、偽善の葛藤と隣り合わせの世界です。戦後の日本は、米国という同盟国を通じて世界を理解し、平和国家という原則にかこつけることで、生々しい世界の現実と向き合わずに来られた部分があります。

 積極的平和主義を字義通り捉えるならば、この現実と向き合って生きる覚悟を持つとことを意味します。共同体としての国家が意思決定主体である現実を踏まえれば、自衛隊にあまりに多くの犠牲が見込まれる介入は、どんな人道的危機であったとしてもノーというべきというのが私の持論です。なぜなら、そこまで必要な正義であると認識されていれば、共同体の成員で可能な誰もが駆けつけるだろうけれど、物事は往々にしてそうならない。ノーといえない道具としての軍に正義の戦いを押し付けるというのが民主国家の宿命だからです。

「歯止め」論が民主主義を弱くする

 日本の安全保障論議は、憲法解釈の限界を見極める作業ですから、どうしても法律論に偏ってしまいがちです。今般の安保法制をめぐる議論においても、「歯止め」をどのように入れ込んでいくかということが中心的に語られています。結果として、社会全体に誤解があるのではないかと思うのは、法律上、武力行使を可能とする要件が整うからといって、必ず行使しなければならないわけではないということです。当たり前のことですが、法的には行使できたとしても、政策的に行使すべきでないという広範な領域があります。

 安全保障というのは、本質的に万が一に備えるための政策領域です。そこでは、あらゆる事態を想定して、政策の選択肢は幅広く確保した上で、実際の政策判断は慎重に行うというのがもっとも望ましいアプローチです。もちろん、日本では長らく自民党の一党優位体制があり、国会において数の論理で押し切ることがたびたび起こったために国会が機能しないという反論もあるでしょう。しかし、私が気になるのは、このような発言が本来死力を尽くして頑張るべき野党の側に散見されることです。それは討議の場としての国会を弱くし、国民の判断力を軽く見ることにつながります。もちろん鶏と卵の問題なのですが、国民の判断力を信頼していないから、真正面からこの問題が議論されないのではないでしょうか。

 日本の安全保障論議にもっとも不足しているのは、この政策判断をめぐるリアルな議論です。リアルな議論が行われる前提は、政策決定がリアルな情報に基づいて行われるということであり、主権者である国民にリアルな情報が提供されているということです。

 安保法制について、実際に進められようとしている方向性は、国際的なスタンダードからすれば常識的な内容です。気になるのは、その結論に至るための議論が十分成熟したものになっていないということです。政府与党には、リアルな状況認識に基づく課題設定が求められ、野党各党には、手続論や経緯論を超えた実質的な討議を期待したいところです。

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