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山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

自民党の憲法改正草案について

 本日は憲法改正について取り上げたいと思います。言うまでもなく、憲法をめぐる問題は、戦後日本の政治対立を象徴する論点です。改憲護憲、加憲、創憲などの政治的立場に色分けされた戦後日本ほど、憲法が政治対立の中心にあって国民を分断し続けてきた国はないでしょう。政治評論の世界でも、憲法はまさにイデオロギー対立の主戦場です。そして、衆議院で2/3の議席を有し、2016年夏の参議院選挙でも2/3の議席を窺う与党によって、憲法改正は初めて現実的な政治カレンダーにのってきました。

 私は憲法学者ではありませんし、その筋の議論は展開することもできません。またするつもりもありません。とはいえ憲法学者と対話ができないとは思いません。こちらから見た風景を申し上げることには一定の価値があると思います。憲法学者への非礼はお許しいただくとして、いきなり否定的なことを申し上げると、実は、日本の憲法をめぐる議論自体に相当の違和感があります。あらゆる政治問題を憲法と結びつけて論じる思考方法が日本の政治言論を貧困にしてきたと感じるからです。政治問題には、おのずから論者が拠って立つ立場というものがあります。それをいちいち憲法問題にする必要はない。憲法自体も抑制的であるべきだし、憲法論議も抑制的であるべきという立場です。

 大仰な定義を振りかざす気はありませんが、素朴な感覚を交えて言うと、民主主義とは、国民相互がさまざまな立場をぶつけ合いながら妥協していくというプロセスそのものです。そこにおいて憲法というのは、お互い立場は違うかもしれないけれど、同じ国という器の中で隣り合って生きていかなればいけない者同士の最低限のルールというべきものです。それは、具体的には、民主主義そのものを縛るという原則であり、現行憲法においても自由主義基本的人権という形で結晶化されています。この、最低限という部分が重要なのです。

 さまざまな立場の人間が、それでも一緒に生きていくためのルールですから、最低限度を踏み越えた瞬間、無用の摩擦を生みます。個人に保障された自由は、他人の自由を侵害しないという意味での『公共の福祉』の他からは制約されるべきでないという発想です。憲法とは生き方を強制するために存在するのではなく、生き方を強制されないために存在するのです。

 憲法を通じて政治論議を展開することの一番の副作用は、憲法の無用の拡大を生むことです。政治には政治の空間が準備され、憲法には憲法の空間が保障されるからこそ、憲法が本当に守らなければいけない価値が守られるのです。多様な立場の者でも最低限合意できる原則を掲げることに意義があるとすると、憲法がそもそも論争的であるという戦後日本的な政治空間が不健全なのです。歴史的な経緯のある話ですからあまり乱暴なことを言ってもしょうがないのですが、この違和感は重要だと思っています。

 原則論はこのくらいにして、現実的な改正論議の中心にある自民党改憲草案について見ていきましょう。ここでも、最初はあえて印象論を申し上げたいと思います。一言で言うと、気持ち悪いというのが率直なところです。これまで述べてきたとおり、最低限のラインを明らかに踏み越えているからです。改正案には、様々な価値観が入れ込まれていますが、この点が、改正案の最大の欠点です。入れ込まれている価値観の一つ一つには害のないものが多いのも事実でしょう。前文に掲げられた和を尊ぶことも、第24条に掲げられた家族を尊重することにもなんら異存はありません。ただ、他人から、ましてや国家から尊重しろと押し付けられることには大いに異存があるわけです。この感覚が、自由を愛する者の感覚です。学者にせよ、実務の世界の方にせよ、報道などに関わる方にせよ、この感覚が共有できないと、正直、ちょっと暗澹たる気持ちになります。

 私は絶対に和を尊びたくない、家族を尊重したくないという人は、実際には少ないでしょうから、もう少し論争的な点を取り上げると、第3条の国旗国家の尊重義務というものがあります。私は、日の丸はシンプルでかわいいデザインだと思いますし、日が昇るデザインのコンセプトに込められた前向きな感情も気に入っています。しかし問題は、私の好き嫌いではないのです。近現代史を学んだ者であれば、日の丸が象徴するものに違和感を覚える方がいることは周知の事実でしょう。この、嫌がる方がいることを承知で、憲法に書き込むことで尊重させようという感覚が気持ち悪いのです。

 この気持ち悪さは、同時に美しくないという審美眼の問題とも関係しています。何を美しいと感じるかは人それぞれですから、自由の問題とは次元が違いますが、私には、改正案の日本語が美しいとはとても思えません。憲法とは、法的な文書ですから独特の言い回しが必要なのはしょうがないことです。それでも、憲法には国民が共有するものとして美しさがあることは重要だと思います。「美しいことが重要」というのが表現として強すぎるとしても、素敵なことではないでしょうか。

 アメリカの小学生の多くは授業の中で憲法を暗証しますし、フランスの小学生だって、自由を守るための最低限のルールという意味では憲法と同じくらい重要なナポレオン法典を『書き方』の授業のお手本にすると聞きます。それらの文章が美しい英語やフランス語のお手本であるからです。個別の条文はともかく、せめて前文くらいは美しい日本語で、無駄なく、リズム良く、格調高く書いてほしいものです。現行改正案の起草者をジェファーソンになぞらえてもしょうがないのでしょうけれど、少し惨めな気分になってしまいます。

 最低限を超えた価値観を入れ込むべきではないという原則は、ここでは、『言わぬが花』という日本文化のひとつの重要な原則に反しているのです。現行案成立時に自民党は野党であり、民主党との対抗から保守主義を前面に出すという立場をとった経緯があります。であるからこそ、改正案には日本の伝統や文化が色濃く反映されているはずなのですが、どうもそうとも思えない。憲法改正の意義の一つが、占領軍から押し付けられた英文翻訳調の表現を美しいやまとことばに書き換えるということであるならば、もう少しがんばらなければいけないでしょう。しかも、戦後日本は近代化の上に文明が洗練される過程を経て、戦前のそれなりに美的とされた忠君愛国の表現よりも数歩先に到達しています。例えば手仕事や匠の技が尊ばれ回帰する動きにしても、それを取り上げたテレビや雑誌の画面に映るものには、撮影現場でのライティングや映像フィルターを通して誇張された象徴美があることは、すぐわかることです。従って、より都会的な感覚を持つ人々や若者世代から改憲草案に反発が寄せられるのは当然のことです。

 もちろん、憲法に書き込むということに意味がある場合もあります。それは、国権の最高レベルで承認を与えるということであり、例えば、基本的人権の項目に障害者に関する記述を加えることは意義があるでしょう。この部分は、過去70年で国民の意識が随分と変化した部分です。憲法本来の政府を縛る、権力者を縛るという発想に立つならば、国家の財政的健全性を維持する、あるいは、世代間の平等を担保するための根拠付けになるような項目を入れ込むことにも一定の意味があると思います。

 ただ、それが憲法を政争の具にするようなものであってはいけません。例えば、外国人参政権に関する方針を憲法に書き込んでしまおうという姿勢はいただけない。外国人の地方参政権という課題自体は様々な立場がある、論争的な政策です。論争がある問題を憲法に入れ込み、憲法を過度に政治化してしまうのは民主主義の発想として健全な発想でないということです。戦後の左派勢力は、安全保障の問題について憲法を盾にとって戦ってきました。結果として、安全保障の世界は法律論に席巻されて本来行われるべき論争が行われず、この分野の日本の民主主義を歪めてきてしまった。戦後政治のそのような負の伝統を今度は右の側から再生産するというのが良いことだとは思えません。

 憲法改正の最大の目的は安全保障関連の項目であり、憲法9条が体現する平和主義の精神を継承しつつ、時代に合わなくなった部分を是正するということです。憲法のその他の部分は、完璧ではないにせよ戦後70年経って定着しており、まあ、そこそこうまくいっている。仮に、憲法9条だけを国民投票にかけると負けるかもしれないので、他の雑多な条文も加えて政治性を薄めようという意図があるとすると、さすがに姑息な印象を持ってしまいます。

 かつての世代と比べ、私の世代には憲法は一言一句たりとも変えてはいけないと考える層は少なくなりました。私も、政治や安全保障を研究する者として改憲には意義があると思っています。理想を言えば、改憲は国民を分断するものではなくて統合するものであるべきです。その統合は、特定の価値観を押し付けるものではなくて、戦後70年の時代認識と、日本国民の歩みの中から沸きあがってくるコンセンサスを抑制的に反映するプロセスであるべきなのです。

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*京都にある青蓮院門跡の写真