山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

攻める農政の先にあるビジョン

 前回は、現在進められようとしている農協改革の意義について申し上げました。今般の改革は、それ自体のインパクトを評価しても本質を捉えられるものではなく、農協改革を通じてより大きな農政の変化を可能とするところに意味があったと。当然沸いてくる疑問は、その大きな農政の変化とは何なのかということです。攻める農政というキーワードには、農業の生産性向上、農業者の所得向上、農産品の輸出等も視野に入ってきます。本日は、日本の農業が生き残るためのビジョンについて考えたいと思います。

 農業が生き残るというのは、まずもって、産業として生き残るということを言っています。産業として十分な付加価値を作り出すことができ、その付加価値が市場から十分に評価される状態です。そうなることで、利益が投資を生み、投資が雇用とさらなる利益を生む好循環が生まれます。この基本線を踏み外してはいけません。日本社会は、農業の話になったとたん、このような当たり前の前提をふわふわーと忘れてしまいがちです。それは、農業が日本という国の歴史や文化と不可分に結びついていて、深いところで日本人のアイデンティティーとつながっているからでもあるでしょう。「瑞穂の国」というのは、今も昔も多くの日本人が好む日本イメージの原風景です。農業を語る際に持ち出される社会的な側面や伝統の側面がどれだけ重要であっても、過度の精神性を持ち込むことが、かえって農業の持続可能性にとってマイナスであったかもしれないという可能性と向き合わなければいけないのです。

 もちろん、農業はいろんな意味で特殊な要素を宿している産業です。最大の点は、生産の過程で自然を相手にすることでしょう。自然には、人間の英知を超越したところがあります。自然は、我々に恵みを与えてくれる存在であると同時に、無慈悲に恵みを奪う存在でもあります。それは産業の言葉で言えば、リスクであるけれど、そこには数値化して管理するだけではない世界が広がっている。農業の科学と、実践の先駆者はこのリスクに敢然と挑み、その多くを克服してきたわけですが、それでも、土作りで団粒を増やし、太陽と雨の恵みを受け、作物の病気と闘い、生と向き合う過程には、産業化からこぼれ落ちる何かがあることも事実です。

 でも、それは人間の営みの多くに共通して言えることです。先端産業の、もっとも先端にある基幹部品が、町工場の職人の手技に依存していることと同じです。すべてを合理で割り切ることができないことと、だからと言ってあからさまな非合理の存在が許容され続けることとは別なのです。

 かつては、日本でも農業は普通の産業でした。20世紀中盤までは、農村人口がこの国の産業人口の多くを占めており、農業は一般的な産業だったのです。戦後の急速な工業化を通じて農村人口は都市に流入していきます。GHQ主導の農地改革は、全国に小型自作農を作り出しましたので、都市化の流れは、少なくとも当初は農家の次男、三男の食い扶持を心配する必要がなくなるということを意味していました。しかし、次第に農村の持続可能性に焦点が当たるようになります。この流れは、貿易の自由化を通じて外国産の農産品が流入する中で加速します。国内外の農業の圧倒的な生産性の差が問題となり、日本農業の弱者としての地位が確定してゆくのです。そこからは、農政は保護一辺倒の分野となってしまいます。

 もちろん、日本という国土の現実を考えたとき、米国や豪州のような大型化を通じて生産性の改善は望めません。デンマークや、オランダや、フランスなどの欧州の農業国のあり方はおおいに参考になるでしょうが、それさえも、そのままコピーできるモデルではないでしょう。日本も、そろそろごまかしではない独自のリアリズムに根ざした農業ビジョンを持つべきところに来ています。

 日本の農業には、プロの生産技術に関する限り世界でもトップクラスのものがあります。農地も、細分化され低生産性に甘んじている現状ではあるものの、欧州の小規模農業国程度には存在します。何より、全体としては縮小傾向にあるとは言え、高付加価値の食品には対価を厭わない国内市場を持っています。しかも、目の前には世界有数に富裕でありながら、信用に値する農産品がほとんど手に入らない巨大な隣国マーケットが広がっているのです。攻める農政とは、以上のような状況に産業としての勝機を見出しているわけです。

 問題は、産業として勝機を裏書する社会的な意味でのビジョンが明確でないことです。もちろん、そのビジョンを正面から語ることに政治的な困難があるからであり、だからこそ、今般の農協改革という「地ならし」が必要だったわけです。

 日本の農政には、実際に、戦後以来の大改革が必要なのです。戦後の農地改革の目的は、多くの小規模自作農を作ることで、民主主義の基盤を強化しその赤化を防ぐことにありました。今日の攻める農政の目的は農業を産業として自立させ、地方における産業と雇用の好循環を作り出すことにあります。加えて言えば、美観も含めた美しい農村の復活を目指した観光資源化や、都市生活者にとっても交流の拡大を通じた広義の豊かさを作り出すものであるべきなのです。

 そのためには、戦後の日本の農政の根っこにある小規模家族経営という固定観念を取り外して考えるべきでしょう。農業は、高付加価値の産業として洗練されたプロによって担われるべきで、その形態は十分な資本投下を可能とする株式会社であることが当然の前提です。これまで、株式会社の農業参入を阻み、あるいは遅らせてきた各種の制約は時限を区切って廃止していくべきですし、既存の零細農業者が新規参入者を阻むことにつながる農業委員会のあり方も抜本的に見直す必要があります。資本主義社会において、競争が働かない空間には持続的な生産性の改善は見込めないからです。さらに、現状のような兼業農家では化学肥料と農薬の大量投入に頼る手間のかからない農業が主流であることも分かっておくべきです。

 しかし、規制緩和一辺倒では、十分な解につながらないでしょう。例えば、農地の転用については規制を厳格化すべきです。どうして、日本の農地は虫食い状態となってしまうのか、あまりに小規模経営で意味のある所得を獲得できない農家が廃業しないかと言えば、農地が宅地や道路に転用された後の転売益に期待しているからです。日本でもっとも裕福な農家は、大規模な農地で大きな生産高をあげている農家ではなく、大都市近郊で土地を換金している農家です。この流れと、不健全な経済的インセンティブを止めるべきです。

 小規模農地には、資産税を割り増しして農地の集約と大型化を促すことも有効でしょう。もともと、土地という有限な資源には、重要な私有財産として個人が自由に処分できるという側面と、社会的に一定の生産性を促すものであるべきという側面が混在しています。農地には、後者の要素が強いからこそ、これまで特別に保護されてきたわけです。その保護は、しかし、農業を守る目的に行われるべきものであって、農業を守れない存在になってしまったならば、もはやそのような農家を守るべきではないのです。

 以上のような改革を平時の民主主義において行うことは至難でしょう。改革を進めるために外圧を梃として使うことは、日本の民主主義がしばしば採用する悪癖で、本来は慎むべきものとは思います。ただ、現状の農業の危機的状況を考えれば、TPPを次元的な改革の起爆剤として活用することには一定やむをえない部分があるのかもしれません。もはや、基幹的な農業者の6割が65歳以上の高齢者です。この割合が7割を超える地方も多く、このままでは農業は数年のうちに突然死することが見えています。

 攻める農政の社会的なビジョンは、生産性の高い農家がそれぞれの強みを生かし競争する姿です。有機などの農法にこだわった高付加価値化という路線もあれば、あらかじめ販路を確保した上で普及価格帯の農産品を安定的に生産する路線もあります。農産品の生産(1次産業)、加工(2次産業)、それを使ったサービス(3次産業)までを一貫して行う6次産業化を、文字通り産業の名に値するだけの規模と生産性でもって推進する路線もあるでしょう。

 はっきりしていることは、これらを担う人材の大半は、現在の農家ではないということです。そもそも、生産に直接関わる純粋な農業従事者は現在の数分の一で十分でしょうし、必要となってくる経験もスキルもまったく異なります。農業従事者数は縮小し、生産性は向上し、一人当たりの農業所得は大幅に上昇する世界です。エネルギーや食品の地産地消を広げて、都市との交流人口を増やすことで追加的な所得とするのです。

 結果として、現在の小規模農家を中心とする集落や市町村がそのままの形で生き残ることもありません。はっきり言えば、現在ある自治体も集落も大半はなくなります。そうやって初めて、日本には持続可能な形で農業が生き残ることができ、我々は安心な食材をリーズナブルな価格で手にすることができるのです。そうやって初めて、日本の美しい農村の風景は守られ、治水をはじめとする農業の多面的な機能は守られます。美しい農村を手にする対価は、国道沿いの醜い中古車ディーラーもファーストフード店もやめることです。個別のエリア単位で見れば、確実に人口が減少するのでそれらを支える経済圏は大規模化し、多くは廃業せざるを得なくなるのです。

 政権は、攻める農政に向けて舵をきろうとしているように見えます。それは、日本にとって避けて通れない改革です。今般の農協改革をこれまで申し上げたビジョンを実現するための第一歩とするならば、その用意周到さは評価されるべきでしょう。政治家は、なかなか農政のビジョンを正面から語りたがらないけれど、これは、日本の国家像にとって非常に重要なピースです。

 民主主義には、ごまかしを続けることで失われる何かもあります。今日の農業の延長線上に未来があるかのような幻想を振りまくことなく、かといって、徒に恐怖心を煽るのでもない議論とスピード感のある政策実行が求められています。日本の民主主義は、そのような難しい課題にも正面から向き合えるほどに成熟しているのではないでしょうか。

 

f:id:LMIURA:20120607085129j:plain