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山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

テロリズムと時代認識

 日本人2名が殺され、同じくISIL(「イスラーム国」)に拘束されていたヨルダン人のパイロットも、残忍な方法で殺されました。整理できぬ感情、整理できぬ情報の中で、それでも、我々は進んでいかなければならないのだろうと思います。それが、日常を破壊することで力を得るテロリズムへのせめてもの反抗であるからです。

 今後、犯罪捜査の専門家や、中東地域の専門家によって事実関係の精査が行われることでしょう。もはや、国家とは名ばかりとなっているイラクやシリアの将来において、ISILの脅威はどのように推移していくことが予想されるのか。そこで、新たに生まれる悲劇に対処するために文明世界の一員である我々には何ができるのか。そして、新たなテロの脅威に対応するために国際的、国内的に我々がすべきことは何か。突きつけられたこれらの重い課題に、一つ一つ答えていかなければいけません。

 日本国内では、もう少し政治的な議論も展開されることでしょう。テロリズムは、我々の中に予め存在した不信感や憎しみを増幅させてしまいます。ある者は、米国を中心とする国際社会の枠組みに異議を唱え、またある者は、政府の対応を検証する中で、安倍政権の中東歴訪のタイミングや、政策スピーチの文言や、今後の邦人保護のあり方について批判するでしょう。圧倒的な不正義を前にして、殆どの論者は、「テロは許されるものではない」という枕詞をつけるでしょうが、国会で始まった論戦からは目の前の悲劇についてよりも、70年前の日本の戦争をどのように位置づけるかに関心があるような議論さえ聞こえてきます。

 そのような言論に与する気にはなれないけれど、そのような言論が行われ得る空間自体は守っていかなければいけないと思っています。自由な社会を根っこのところで支える言論の自由とは、もともと心地よいものではないのです。テロという悲劇を政治利用してでも、政権を批判したい人々にはその権利があります。宗教に対する偏見も、イデオロギーに対する偏見も、聞いていて心地よいものではないし、そこで傷つく人もいるのだけれど、それが言論にとどまる限りにおいては、社会として許容していくべきものです。

 だからこそ、自己責任論を振りまいて危険地域への渡航をより厳しく制限しようという意見には特別な危うさがあります。国に迷惑をかけるな、社会に迷惑をかけるなという感情には共感を得やすいところがあるけれど、やはり、それは素朴な村の論理でしかありません。村の掟を無視したものへの見せしめとしての処罰感情です。実際問題としても、日本型の組織は官庁にせよメディアにせよ危険を伴う紛争地域に社員を派遣することはできないのだから、我々の社会は後藤さんのようなフリーのジャーナリストに情報の多くを負っているわけです。しかも、政府の責任ある立場にいらっしゃる方は、自己責任論云々と主張しているわけではないことも指摘すべきでしょう。

 しかし、今後展開されるであろう狭い意味での検証を超えて、テロリズムと向き合わなければならない現代という時代認識についても、改めて考えるべきと思います。本日は、時間軸を少し長くとってみて、我々はどのようにしてこの状況に向き合い、ここからどこに向かうべきかということについて考えたいと思います。

 まず、確認すべきは、テロリズム自体は特に新しい現象ではないということです。何らかの理由で、正規の闘いができない集団が一般市民を巻き込むことで政治的目的を達しようとする行為は昔から存在しました。パレスチナでも、アルジェリアでも、アイルランドでも、テロが頻発しました。日本でも、日本赤軍がおり、オウム真理教がいました。ただ、それらは世界史的な観点からすれば脇役でしかなかった。長らく、世界の平和にとって主要な脅威は冷戦でした。冷戦は、東西陣営の周辺部においては熱戦となることもあったし、何より核兵器を通じた殲滅戦の恐怖が世界を覆っていました。

 四半世紀ほど前に冷戦が終結を迎えたとき、西側諸国が感じた解放感は本物でした。これで、核戦争の恐怖はなくなった、これでソ連の戦車部隊が地響きを立てて進駐してくることもなくなったと。そして、資本主義と自由主義と民主主義が世界中に広がるはずだった。それを、「歴史の終わり」と表現する論者さえいました。もちろん、もっと懐疑的な論者もいて、その主要な存在が「文明の衝突」という主張を展開したハンチントンでした。

 ハンチントンの議論をめぐっては、賛成・反対の大騒ぎになりました。世界中がハンチントンの議論の乱暴さや、細かい誤謬を指摘しました。それはそれで意味のある指摘もあったように思うけれど、批判の多くはお釈迦様の手の中で暴れまわる孫悟空に似ていた気がします。つまり、価値観がずれていってしまう文明同士の対立が、世界史を動かす主要な対立軸になるという根本の部分を乗り越えることはなかったのではないかということです。

 殊に中東専門家たち、日本の場合それはほとんどがアラビストなわけですが、イスラームが寛容の宗教であり原理主義勢力は例外的な犯罪者に過ぎないという立場と、いやそれさえも弱者の戦略であって本質的な脅威ではないのだという立場が強いが故に、ハンチントンの指摘に真正面から反論し得たものは少なかったような気がしています。それはひょっとするとアラブの隣国として生きて行く必要がなく、中東系の移民社会を抱えずに済むから成立し得た議論なのかもしれません。何も対立を煽っているわけではありません。物事の本質を矮小化したり相対化することによる危険に対し自らを戒めなければならないと思うのです。

 2001年の米国同時多発テロとそれに引き続くアフガニスタン戦争、イラク戦争アラブの春、そして今日の中東の混沌は、テロの脅威が世界史的な観点から見た主要な脅威となった世界です。そんな中にあって、世界中の心ある指導者や論者の殆どは、文明の衝突のような状況に陥ってはいけないと考えています。多様性の容認、宗教的な寛容さを強調することはとても大切です。しかし、そうあってほしくないということと、そうではないということは別です。

 テロリズムといかに戦うべきかというときには、警察的行動に留めるべきなのか、脅威がエスカレートするに従って軍事的な行動も必要となるのか、経済制裁や金融制裁の方が長期的には効果を発揮するのか、などなど多様な論点が存在します。これらの方法論に関する議論は、もちろん大切なのです。しかし、テロと戦う上での思想的な背骨の部分をどこにおくべきかということは、それ以上に重要なのではないかと思っています。冷戦が終わり、テロリズムとの闘いが続く中で、悲劇と誤謬が重ねられてきました。イラク戦争の失敗の本質が何であったかは、現代文明が取り組むべき最重要の課題であり続けています。私自身、国際政治学者としてのキャリアをこの課題と格闘することでスタートさせました。

 冷戦が終結してから四半世紀の月日が流れましたが、今日においてなお、究極の問いは、資本主義と自由主義と民主主義のセット以外に我々に進むべき道はあるのかということではないでしょうか。この点は、我々一人一人がよくよく考えるべきことです。一時の反米的な気分や、歴史的経緯から来る感情論を脇に置いたならばどうでしょう。私は、やはり、その道しかないのではないかと思うのです。

 何も、世界中がアメリカになるべきだとか、その価値観を受け入れるべきと言っているのではありません。アメリカの資本主義とドイツの資本主義は別物であるし、アメリカの民主主義と日本の民主主義もずいぶんと異なります。しかし、根本の部分で価値観を共有していることは事実ですから、その中でのお国柄から来る差異はむしろ健全でしょう。

 そして、歴史的経緯や宗教的信念や価値相対主義の名の下であったとしても、許容すべき範囲とそうでないものがあるはずです。どんな大義名分の下でも、特定の信条、特定の宗教、特定の性別を理由とした構造的な抑圧を許容すべきではないのです。自由で平和な社会の価値を信じるからこそ、最後の最後で何のための自由なのかが大切になります。

 2001年の同時多発テロ以降、正面からテロリズムに対抗したのはアメリカでした。アメリカは、時に誤謬を犯しながらアフガニスタンイラクで犠牲の多い「対テロ戦争」を戦いました。そのアメリカは、しかし、もはやテロリズムに一国で対処する意思を持ちません。それは、二つの戦争があまりに犠牲の多いものだったからであり、世界における自らの相対的な力の低下を意識するからであり、帝国であると同時に民主主義国である米国民の意思だからです。

 アメリカがテロリズムに対抗する中心的存在である間、言葉を選ばずに言うならば、日本を含む世界は気楽でした。テロリズムが突きつける剥き出しの暴力と憎しみに対処しながら自由な社会をどのように守っていくかという難問と向き合わずにいられたからです。我々は、対テロ戦争を主導するアメリカの不手際や認識の間違いを指摘するだけでよかった。テロも悪いけれども、アメリカも悪いということを同次元で語れる程度の当事者性しかなかったわけです。アメリカが自らの役割を見直していく中、残念ながら、今後もテロは続いていくでしょう。欧州は内部に移民社会を抱え、中国もロシアも内部に民族対立を抱えていますから、わかりやすい形でリーダーシップが提供されることはありません。世界中が、暴力と非寛容さとどのように向き合うべきか主体的に考えざるを得なくなったのです。

 だからこそ、日本人も資本主義と自由主義と民主主義のセットの議論と正面から向き合わなければいけないと思うのです。日本には、強固に価値相対主義が根付いています。『世の中にはいろんな考え方があるのだから上から目線で押し付けても駄目』という考え方です。それは、ある意味では日本の非常に良い知的伝統です。非西洋文明の国でありながら西洋で価値観や制度を最初に受け入れた歴史と関係しているのかもしれません。我々の多くには、イスラム教徒だろうが、キリスト教徒だろうが、仏教徒だろうが基本的人権は守られるべきということを胸を張って言えない何かがあるわけです。

 欧州における移民社会の研究では、社会的な少数者に対して過剰に特別扱いすることでかえってその集団への差別や偏見を助長するということがわかっています。他者との摩擦を過剰に恐れることは実は非寛容への道なのです。お互いに不快な言説をぶつけ合うのが相互理解の第一歩であることもしばしばです。資本主義と自由主義と民主主義のセットは西洋の専売特許ではなく、人類全体が到達したすばらしい成果です。テロリズムとの闘う上で、過激主義を廃し中庸を掲げることは重要ですが、どんな理想に向かっての中庸なのかについて、今一度考える余地があるのではないでしょうか。