山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

資本主義からの逃走(2)

 前回は、巷をにぎわす資本主義批判に共通する問題点について指摘しました。本日は、資本主義批判の背景に存在する政治性に焦点を当てたいと思います。

 まず、歴史的な構造からいくと、資本主義がどのように成立するに至ったかということがあります。経済史の成果を乱暴にまとめると、近代資本主義の生誕地である英国では、資本主義が時間をかけ、一進一退を繰り返しながら徐々に進行しました。資本主義が自由主義の基盤となり、やがて民主主義にいたるモデルケースです。なにも、このようなルートが正統で他が間違っているということではないのですが、何しろ一番最初に成立したので、多くの国の参考事例となって、良かれ悪しかれ我々の思考を縛っているわけです。

 大陸欧州は、資本主義が確立する前に革命を通じて自由主義と民主主義を行きつ戻りつさせたフランス型と、自由主義と民主主義を抑制しながら資本主義を推し進めたドイツ型があります。米国は、英国の伝統に則っている部分と独自に発展した部分とが混在していますが、独立戦争という明確な基点において3者を同時に成立させたことがユニークでした。結果として、資本主義と自由主義と民主主義の結合が、建国の理念として強固に定着する社会となります。

 他の先進諸国の例を引くのは、日本との対比を意識しやすくするためです。日本の近代化の特徴としてしばしば語られることですが、日本の近代化は、「一等国」になるために上からの恩恵として成立しました。明治・大正期の自由民権運動をはじめとする内発的な運動を再評価する指摘もされているものの、諸外国との比較で言えば、資本主義も自由主義も勝ち取ったという認識は弱くなるわけです。多くの日本人が、経済活動の自由≒資本主義を安易に批判し、自由から逃走してしまう背景には、根っこの部分の権利意識というか、アイデンティティーの要素が影響しているような気がします。

 加えて、20世後半の冷戦期にこの傾向が強化されてしまった。冷戦期に共産主義の脅威がどこまでリアルであるかは、国によって相当のばらつきがありました。東側諸国と地続きの欧州では、共産主義は、経済体制の選択肢としても、安全保障上の脅威としてもリアルでした。米国では、共産主義は経済体制の選択肢としてリアルであったことはありませんが、安全保障上の脅威として厳然と存在し、そのことがかえって経済における資本主義の理念を強化した側面があります。

 日本では、この構造も中途半端でした。終戦期や占領期の一時期、日本の指導層に共産化の脅威認識が強かったことは間違いありません。しかし、米国との同盟路線が安定して以降は、実際の脅威認識は大幅に後退し、赤化の懸念は保守層が陣営の引き締めのために思い出したように持ち出す脅威でしかなくなります。加えて、戦後の日本は、戦時中の総動員体制の残滓を残しており、統制色の強い経済運営を行いました。戦後の日本の経済政策は、総動員体制の統制経済を各分野で少しずつ解きほぐしていくというものでした。

 日本人の多くにとって、資本主義の諸原則は、誇らしく勝ち取ったものでも、共産主義の脅威から守ったものでもありません。しかも、経済は統制されているのが当たり前で、それが、徐々に自由化されてきたに過ぎないと考える。したがって、官僚はもちろんのこと、多くの民間経済人も、まず最初に経済活動の不可侵があるという発想にないわけです。

 日本人に限らず、人類は幾度となく資本主義を否定し、その度に悲劇を繰り返してきました。各国で時代を超えて繰り返されてきただけあって、資本主義否定の政治的立場にも共通するパターンが存在します。

 伝統的にもっとも一般的な反資本主義の言説は、社会主義者や共産主義者から寄せられてきました。これらには、資本主義は必然的に行き詰まり共産主義が出現するというイデオロギー色の強い発想から、現実の資本主義の負の側面を異なる統治原理を用いて乗り越えていこうという発想まで様々なものがありました。根本にあるのは、資本主義が有するエネルギーやパフォーマンスよりも、経済の平等性や安定性を優先する価値観です。共産主義や、社会主義の失敗が明らかになった後も、この種の価値観をもつ識者は、今日でもこの視点から資本主義批判を続けています。

 最近勢いを増しているのが、保守主義の立場から資本主義を批判する姿勢です。冷戦期までは、保守主義の最大の敵は共産主義であり、敵の敵は味方ということで、保守主義は資本主義と親和的でした。しかし、共産主義の脅威が消え、グローバリゼーションの要素が強くなると、保守主義への一番の脅威が資本主義にとって代わりました。伝統を重んじる保守層にとって資本主義は、保守主義の中で育まれた社会的なヒエラルキーを崩しかねない存在なのです。若者、女性、労働者、障害者、外国人、業界の枠組みからはみ出た自由な業者などは、経済活動の自由を保障する資本主義の下で始めてチャンスを与えられます。お金に色はなく、資本主義の価値観が、我々をして、より安くより良いものを求めさせるからです。

 先進国の中間層の自己利益としての反資本主義というのも、実際の利害関係に基づいているだけあって根強いものがあります。これは、一見、社会主義共産主義の見地からの批判と似ているのですが、法則性よりも具体的な利益を重視する点が異なります。先進国の中間層というのは、これまでは資本主義から利益を得てきた存在ですので、資本主義にかわるシステムを本格的に提唱するというよりは、資本主義が自らの利益に適っていた古き良き時代に戻りたいという発想に基づいています。当然、古き良き時代というのはおぞましい国際的な貧富の差に支えられていたという事実には、目をつむってしまいます。

 この他にも、環境破壊の観点からなされる批判も存在します。資本主義を国際社会における紛争を誘発する根源的な存在と位置づけて平和主義の観点からなされる批判もあります。もとより、資本主義は完璧な仕組みではありませんし、わかりやすい不備がいろんなところに存在しますので、批判することはたやすいわけです。

 そんな中、欧米ではともかく、資本主義の政治性や倫理性を擁護する立場はすっかり不人気になってしまいました。歴史を紐解けば、資本主義こそが自由主義の前提であり、民主主義の前提であったと言っても、なんだかバタ臭い感じがします。社会における現実の不満を前にすると、資本主義は、何よりも自由のためにある。そして、自由を守るためにもっとも適した制度であるということが空疎に聞こえてしまうのです。つい、安直な資本主義批判になびいてしまいそうになります。

 しかし、我々の生活のあまりに多くが、資本主義の恩恵によっているのです。資本主義が成立する以前の世界は、生産性も低く、人々は生存するだけで手一杯でした。多くの人は、外国はおろか、隣の町さえ訪れることなく一生を終えました。貧困に支配され、自由とは物語の中だけに存在する現実離れした夢想でしかなった。若者は搾取され、女性は抑圧され、病気になることや障害を持つことは命の危険と直結しました。資本主義とは異なる資源配分を目指した経済は、独裁権力を生み、腐敗官僚を生み、環境を破壊して、最終的には自滅しました。

 繰り返し強調しますが、資本主義には多くの不備があります。経済の不安定化も、格差の拡大も、民主主義のプロセスが歪められることも大問題です。しかし、これらの個別の問題には、個別の対応策が必要です。正統の経済学者や意思決定者は正統派経済学の力点として、資本主義を主に効率性の観点から擁護します。この抑制主義は、冷戦期の不毛な左右対立の反省に立っており、間違ってはいません。しかし、政治や倫理の観点からされる資本主義批判に対しては、もっと声を大にして反論しなければなりません。

 資本主義批判の一番の問題点は、真の問題から我々の目を背けさせてしまうことでしょう。我々は、資本主義を終わらせる不毛な議論ではなく、資本主義をよりよく機能させる丁寧な議論をすべきなのです。当たり前ですが、資本主義は終わりません。何より、終わらせてはいけないのです。