山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

資本主義からの逃走(1)

 ギリシャの選挙で急進的左派連合が勝利し、公約どおりの反緊縮策を進める構えを見せています。南欧の小国の政治変動は、本来的にはそれほど大きなニュースではないのですが、欧州の経済危機の震源地でのことでもあり、金融危機以後の世界を苦しめた財政危機が再燃する可能性があります。今後予想されるEUとの交渉の成り行き如何では、今なお脆弱な世界経済の波乱要因となることでしょう。

 ギリシャ危機の本質は、資本主義のルールを破って暴走した小国に対して、国際社会が一つの解決策を示したということです。本来は、これまでにも繰り返されてきた救済策の一つに過ぎません。ことがそれほど単純でないのは、採用された解決策が、純粋に合理的な解よりも踏み込んだものであると認識されたからです。実際、財政規律を守れない南欧諸国に苛立つ欧州の強国の民意には激しいものがあり、問題解決にあたる指導者達の手を縛りました。そして、経済の論理と、民主主義の論理がぶつかるところに、金融危機以来高まった資本主義への懐疑が重なります。本日取り上げるのは、資本主義からの逃走、とも言える、この状況についてです。

 日本でも、資本主義は終焉すると言ってみたり、資本主義の拠って立つ価値観を修正すべきと言ってみたり、全般的な資本主義への懐疑が世間をにぎわせています。強調される価値観は、「公益」であったり、「里山」であったり、「企業の社会的責任(CSR)」であったり、いろいろです。識者によって、主張の洗練度には相当なばらつきはあるのですが、資本主義に対する強い不信感は共通している。そして、それらを受容する社会の側にも、資本主義に対する苛立ちが募っているので、一般に反資本主義的言説は受けがいいようです。支配的な「空気」を真に受けるならば、今まさに資本主義が終わろうとしている錯覚さえ覚えてしまうほどです。もちろん、ふと我に返って、資本主義は終わらないという当たり前の現実と向き合うことになるわけですが。

 資本主義批判には、様々な問題がありますが、ここでは主要な点を3つ取り上げます。一つ目は、そもそもの資本主義の定義があいまいなことです。多くの場合、資本主義は、市場経済、金融資本主義、グローバリズムなどと読み替え可能な形で批判されます。極端な場合には、世の中で起きていることの悪い側面がすべて資本主義の定義に入れられていて、だから、資本主義が悪いというトートロジーになってしまっている。「中心と周辺」、「収奪」などの中間概念を立ち上げて、それと資本主義を結びつけて批判するのも、本質的には同じです。

 資本主義というのは、実際、それほど定義のはっきりしたものではありません。各国で資本主義の形や価値観が異なっているのもそのためです。その基盤となっている原則を挙げるならば、私有財産の不可侵ということと、契約自由の原則くらいです。つまり、私有財産が保障され、それを自由意志に基づく契約によって自由に処分できるという近代社会を成立させた根本的な原則です。

 少し脱線しますが、欧州における近代の成立とは、最初に資本主義が成立し、次に政治的側面も含めた自由主義が成立し、最後に民主主義が成立したわけです。各国でニュアンスはもちろん異なるのですが、日本も同じ過程を経た国の一つです。実は、この順番が異なった国の多くが、資本主義と自由主義と民主主義の定着に苦しんでいるわけです。

 さて、資本主義批判の第二の問題点は、資本主義の一つの側面を取り上げて、その問題点を過剰に強調するというものです。格差を強調するのが典型です。確かに、自由な取引を原則とする資本主義は、必然的に勝者と敗者を生み出します。そして、勝者は、その常として自らの勝者としての地位を保持するために様々な手を打つので、いったん形成された勝敗が格差として固定するというのもよくあることです。

 また、資本主義の自己責任の原則の下でこそリスクとリターンがつりあっていなければならないはずなのに、金融危機に際しては無謀なリスクをとり続けた金融機関が税金によって救済されたということも指摘されます。政策決定プロセスを、金融機関をはじめとする資本主義の勝者達が歪めていると。

 これらの指摘は、もちろん、部分的には正しいわけです。金融危機前夜の金融規制は相当いい加減なものだったし、資本主義と民主主義を両立させ、格差の拡大を抑える制度の多くが時代に合わなくなってきていることも事実です。しかし、国民経済を支える根本の考え方や制度に不備があることと、その考え方や制度を「終わらせる」こととは、まったく別です。その点が、三つ目の問題点とつながっています。

 資本主義批判の第三の問題点は、純粋な資本主義、というものは実際にはどこにも存在しないにもかかわらず、存在しないものを批判しているという点です。資本主義には様々な問題傾向がありますが、それらの多くには修正が加えられています。それが、20世紀の経済史そのものであるといってもいいくらいです。資本主義の結果形成されるにいたった独占企業に対しては独占禁止法が制定されましたし、格差の是正に対しては累進的な税制や、社会保障制度が導入されました。資本主義の暴力的な景気変動を抑制するために、中央銀行制度が整備され、ケインズ主義の政策が採用され、法人税制が設計されています。鉄道や、電力、放送、小売などの個別の業界規制にも、剥き出しの資本主義の結果から、民主主義や市民社会を守ろうという動機が働いているのです。

 これらの諸制度にはうまく機能している面もあれば、そうでない面もあるでしょう。そして、それぞれの制度をうまく運営していくために、経済学は、公共財の提供のあり方についても、人々のインセンティブの設計についても、情報利用のあり方についても理論と実証を積み上げてきたのです。それらを丁寧に論じるのではなく、いきなり、資本主義を終わらせてしまうのはさすがにちょっと怠慢でしょうし、おそらく、他の動機もあるのでしょう。

 思えば、資本主義への批判は新しいものではありません。繰り返しになりますが、資本主義そのものは多義的であり、私有財産契約自由の原則は古代から存在しており、資本主義の本質的な要素というのは、太古から存在していたのです。新しかったのは、資本主義の政治性でした。アダム=スミスが「神の見えざる手」の存在を指摘したとき、それまでの神の論理でも、王の論理でも、国家の論理でもなく、個人による経済的な利益を追求する論理による統治概念の可能性が開かれたのです。経済活動と倫理とを分離することが革命的だったのです。

 もちろん、この革命は、直ちに成立したわけではありません。アダム=スミス自身が既に修正を加えていますし、その後、何百年にわたって西欧人は経済活動におけるキリスト教の論理を強調し続けます。西欧の拡大を通じて近代資本主義に触れた、非西欧の社会においてもこの衝撃は大きく、資本主義を受容しながらも、日本人は「論語とそろばん」を強調しました。アジア的な資本主義や、社会主義的な資本主義が強調されるのも根っこの動機は共通しているのかもしれません。

 各人が自らの欲求を利己的に追及することが、社会全体としては、もっとも倫理的な結果を招くという発想は、今に至るまで論争的です。資本主義からの逃走の誘惑が強いのは、根本的なところで、このような発想に納得していない方が多いからだと思います。上述のとおり、資本主義には負の側面があり、それらを是正するための仕組みにもうまくいっていないものがある。

 そんな中、目の前の倫理主義に走る誘因は強いのでしょう。資本主義批判をされる方には、実は、元々は資本主義の中にいて、それを当然視していた方が多いのも特徴的です。功なり名を挙げた識者が、例えば金融危機をきっかけとして転向する。そこには、資本主義が持っている醜さに対する贖罪意識があるようです。それは、それまでの抑制性も判断力もかなぐり捨てて感情論に走らせ、伝統に回帰させるほど強いものです。

 資本主義からの逃走、という現象を経済的な側面だけから理解できないのはそのためです。次回は、資本主義批判の背景に存在する政治性に焦点を当てたいと思います。

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