山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

国内冷戦を乗り越える年に

 2015年はいろいろな意味で節目の年です。戦後70年であり、自民党結党60年であり、村山内閣から20年です。時代を画す節目というのは、人を物思いにふけらせる効果があり、過去を見つめなおす契機となります。ところが、政治の世界において、過去を見つめなおすというのはなかなか厄介なことです。過去を見つめなおすことは、現在の自らのアイデンティティーを探る行為でもあるからです。実利的な問題では、最後は足して二で割ることができるのだけれど、アイデンティティーの問題ではそうもいきません。

 冒頭に挙げた3つの節目は、冷戦という時代におけるターニングポイントでした。1945年の敗戦のタイミングにおいて、冷戦は既に始まっていました。日本の戦後は、最初から冷戦の影響を色濃く受けてスタートする運命にありました。もちろん、それが「寛大な講和」を可能としたという部分もあるのですが、日本人自らが先の戦争の惨禍と責任について主体的に向き合うことを不可能にしてしまいました。保守合同に伴う自民党の結党は、冷戦が国内にも波及し、社会主義への傾斜がかつてないリアルさでもって想定されたことへの解でした。そして、村山内閣が、「自衛隊合憲、日米安保堅持」を明確にした瞬間は国内冷戦の終焉を意味するはずの瞬間でした。

 しかし、日本では国内冷戦が終わってくれなかった。他の先進民主義国では、そうではなかったのに。90年代には、米英独などでリベラルな政権が誕生しましたが、そのいずれもが冷戦の束縛から自由でした。共通点は、現実的な安全保障政策、グローバル経済と向き合うための経済改革、そして、福祉や教育などの分野に競争の要素をうまく導入することでした。それらの政策には振り返ってみればうまくいったものとそうでないものがありましたが、リベラルな勢力は、社会における前向きな変化の担い手であり続けたのです。

 そして、国内冷戦が終結すべき時点から20年がたって、日本社会はかつてないほどの冷戦的な遺恨にさいなまれているようにさえ見えます。

サザンのちょび髭

 昨年末のNHK紅白歌合戦でのサザンオールスターズのパフォーマンスは象徴的でした。桑田さんの意図が反戦を訴えることだったのか、アジアにおける各国間の緊張の高まりに警笛を鳴らすことだったのか、安倍政権への強烈なあてこすりだったのか、私にはわかりません。歌い始める前につけていらしたちょび髭は、ヒトラーをイメージしているのでしょうが、誰がヒトラーだと言いたかったのでしょう。

 私は、茅ヶ崎出身ということもあり、生まれながらのサザンのファンです。湘南で青春時代を過ごした身からすると、サザンの自由さとあらゆる権威をせせら笑う姿勢は爽快だと思います。もともと、ファッションとしての反権威と平和主義というのはいつの時代もアーティストの特権ですし、そこに真摯な感情があることを疑っているというわけではありません。桑田さんの反戦のパフォーマンスは、確かに時代の空気を代弁しているのだと思います。問題は、その時代の空気なるものにどれほどの正当性があるのかということです。

60年代の空気といま 

 1960年代、ビートルズが活躍した時代は、大英帝国が、普通の国としての英国に縮小してゆく局面でした。彼らの反権力の対象は、筋金入りの帝国主義者たちでした。世界中の若者がビートルズに熱狂していて同じ時に、アジアでも、アフリカでも植民地戦争を通じた殺し合いが続いていました。ボブ・ディランブルース・スプリングスティーン反戦歌を歌っていた時代は、何万人もの自国の兵士が命を落とし、何百万人もの敵国の市民が殺されていた時代です。彼らは、本当の戦争と、死と、不正義と対峙していたのです。彼ら自身がどこまで反戦の象徴となり、時代の声のなることを望んだかはわかりませんが、だからこそ彼らのメッセージは強烈だったのです。

 さらに言えば、60年代や70年代の日本にもリベラルにとっての真正な敵がいたのだと思います。戦前の統治機構の多くが温存され、時代の雰囲気も相当に権威主義的でした。そこでは、女性や、労働者や、貧困者や、障害者や、高齢者のために戦うことに大義があったのです。それに対して、私が懸念するのはファッションとしてのリベラリズムです。なんとなくやさしい、なんとなく市民派の、なんとなく平和主義的な主張です。それらの主張の多くは、現実の試練を経ておらず、危機に直面したならばあっという間に腰砕けしそうに思えてしまう。それは、この国と社会が平和であることの裏返しなのかもしれないけれど、真にリベラルであるということはそれほど生易しいことではないのです。

反権力が提起する右傾化の懸念

 反権力のメッセージは現代においても必要です。香港の学生達は、自由な選挙権と被選挙権の行使を許されないという真正な不正義と戦っています。マララさんは、女性の基本的人権と人間を真に人間たらしめている教育を受ける権利のために戦っています。日本にだって、現存する不正義はいくらもありますから、戦うべき場所ではおおいに戦うべきです。

 日本のリベラル勢力は、社会の右傾化を本当に懸念しているのだと思います。だからこそ、今、声を上げないといけないという。ただし、この右傾化という概念はなかなかの曲者です。そこでは、右傾化している対象が社会全体なのか特定の集団なのかはっきりしません。また、問題が右に寄ってきていることなのか、絶対的に右なのかもあいまいです。

 私の立場は、日本社会は確かにある分野においては右傾化している、しかし、絶対的にはまだまだリベラルであり、戦後リベラリズムは磐石であるというものです。右傾化しているのは、国際情勢の変化によって国際社会のより生々しい側面と向き合わざるを得なくなったからでしょう。それは、戦後、国際社会の厳しい現実から目を覆っても生きていられた自己欺瞞から遅ればせながら半歩踏み出したということです。日本の右傾化のきっかけとなった拉致問題に関して、金正日主席がそれを認めるまでは、主要なメディアはもちろんのこと、官僚機構でさえもがその問題と真摯に向き合っていなかったのですから。

 昨年大きな話題を呼んだ集団的自衛権をめぐる憲法解釈の変更や秘密保護法について、戦前の日本と比較する議論もあります。あたかも、治安維持法国家総動員法と同じことがおきているという風です。懸念があるのはわかりますが、さすがに均衡を欠いているのではないでしょうか。戦前とは、露骨な言論弾圧があり、思想信条によって死刑になりえた時代だったのですから。

 主要国の中で、集団的自衛権を行使する権利がないとしている国はありません。武器を輸出していない国もありません。中国は、確かに集団的に自衛権を行使が想定されるような軍事同盟を外交政策の基盤としていませんが、替わりに歴然とした核保有国です。そして、秘密保護法にあたる法律が存在しない国も、もちろんありません。

 今日の日本に訪れているこれらの変化は、かつては国内冷戦があまりに激しかったために歴代政権が躊躇して手を出せなかった改革です。そういう意味では、「普通の国」へ向けた一歩だということであり、その路線自体への反対はあり得たとしても、国際的に見て突出したものではないということです。

実質的な議論をしないことが反権力を安全にしている

 だからと言って、最近の安全保障政策について懸念がないと言いたいわけではありません。集団的自衛権について、特に同盟国の間で行使することが可能であると考えるのは当然であると思っています。その上で、実際に行使すべきかどうかについては現在の国際社会の常識よりも相当慎重であるべきです。それが、イラク戦争の惨禍と今なお続く中東の混乱を経た教訓であるべきです。武器輸出については、紛争地域への輸出には既存の国際ルールを守りつつ、ルール作りを主導するくらいであるべきでしょう。秘密保護法については、とにかく時限を区切って全面開示とすることを担保すべきです。それ以外に官僚機構に対する抑止力は利きません。

 これは、若干論争的だろうと思いますが、私が疑っているのは、実は日本にはそれほどの分断はないのではないかということです。集団的自衛権をめぐって争われているのはもっぱらその象徴性なのではないでしょうか。現在の日本にあっては、右から左まで、例えばイスラム国との戦いに自国民の血を流す気はないでしょう。紛争当事国に武器を売って他人の不幸でカネを稼ごうとは思っている人もいないでしょう。争われているのは、しかるに、象徴性であって実質ではありません。しかも、その象徴性は冷戦の象徴性です。ベルリンの壁が崩壊してから25年、国内の冷戦構造が崩壊して20年が経ったわけですから、そろそろ過去の象徴性をめぐる争いに区切りを付け、実質について議論すべきときではないでしょうか。

 確かに、政権与党は磐石な権力を有していますし、野党が現実的な選択肢足り得ないことによって議会における抑止力には多くを期待できません。だからこそ、メディアや、学者や、在野のアーティストが声を上げることは重要です。権力が強いときこそ、反権力が必要になります。しかし、相手をヒトラーになぞらえている限りは、実質的な対話はできませんし、サイレント・マジョリティーの支持を期待することもできないでしょう。

 そういった意味で、2015年が、国内冷戦を乗り越えられる一年になればいいなと願っています。

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