山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

解散総選挙(2)

 前回のエントリーでは、今般の解散について党利党略であるとの批判よりも、アベノミクスを正面から争点に据えて戦うべきということを申し上げました。野党にとっては、左派的なプラットホームで戦うことは万年野党への道であり、右派的なプラットホームで戦うことは今の日本には不必要と申し上げたうえで、勝てる争点は地方分権しかないのではないかと。

 臨時国会の最重要テーマと内閣改造の最大の大義名分は地方創生でしたから、政府与党も問題意識は共有しているのだと思います。統一地方選前のリップサービスの側面があるとはいえ、経済の停滞も、継続的な人口減も、高齢化による社会保障費の爆発などのこの国の抱える難題は、地方において先に顕在化しているからです。

 政府与党の進める地方創生については、結構しっかりフォローしている私ですら正直よくわかりません。何やら地方の自主的な取り組みを応援するらしいのですが、結局審査をし、判断をするのは中央のお役人のようです。それで、何かが変わるとは誰も思っていないでしょう。石破大臣が就任された時点では、もう流れはできていたような気もしますので酷なのかもしれませんが、もう少し、抜本的なことを期待していただけに残念です。

 そもそも、既存の制度で成功体験を重ね、地位を築くに至ったプレイヤーには新しいことに挑戦するインセンティブがありません。それは、誰かに悪意があるとか、やる気がないとか、そういう問題ではなくて、構造上の問題です。その構造を変えずに、急に政策が斬新になったりはしませんし、期待する方が間違っているのです。

 例を挙げましょう。小泉構造改革の過程で竹中大臣経済財政諮問会議を仕切っていた時期は、日本の政策決定の構造が財務省主導から一時的に変化し、結果として、それまではとは違うアウトプットが出されました。今般の日中首脳会談に際しては、国家安全保障局ができ、そのトップである谷内局長が活躍をされたようです。総理の谷内局長に対する個人的な信頼感も影響しているのでしょうから、構造が変わったのかどうか判断するのは時期尚早ですが、これも各省の縦割りの構造を変え、その弊害を乗り越えるアウトプットを目指すものです。

 では、地方分権を進めるための構造転換は何かというと、これはもう、地方にまるっと権限移譲するしかないのです。

 公共部門でも、民間でも、改革には2つのやり方があります。ひとつは、既存の枠組みの中でやりたいことを一つ一つ提案し、審査にかける方式です。これがいままでのやり方です。個別には成果が上がることもありますが、一つ一つの改革に膨大なエネルギーをかけざるを得ず、10年たって振り返ってみて「あんまり変わってないよね」ということになりがちです。もちろん、いつでも骨抜きにできるし、逆コースも可能です。

 いまひとつのやり方は、改革案の立案と承認のルールを変えて、やれないことだけを禁止事項とする方法です。改革案実現の挙証責任を転換することがポイントです。答えから言うと、改革というのはこうしないと進まないものです。

 経済体制になぞらえて言うと、前者の方法が管理経済の発想です。改革の工程表を細かく作っても無駄とは言いませんが、大局的視点に立つとたいして進みません。個別の判断は間違っていなくても、改革の全プロセスの整合性をとることは複雑すぎるので、不都合が生じる度に現状維持の圧力が強まるからです。後者の方法が資本主義の発想です。百花繚乱の創意工夫を期待するというものです。こちらは、現場ではいろいろと不都合も生じるので大変ですが、責任を持つにいたった側が個別撃破して「カイゼン」していくしかありませんので、結果的には改革がグッと進みます。

 経済学者や経営学者によって言われつくされていることですが、資本なり情報なりが希少だった20世紀の中盤までは、権限の集中化と資源の集中投下という方法論に比較優位がありました。最新の研究では、統制経済や傾斜配分にどれだけ意味があったのか争われていますが、特に経済がキャッチアップ局面にあるときには、確かに効果があった。

 対して、現代はカネ余りで、情報があふれている時代です。さすがに統制経済ではなくなりましたが、いまだ行政が非常に細かいところまで手を突っ込んでいることは事実です。細かい業界規制はもちろんのこと、民間の創意工夫もつぶしにかかります。薬品のオンライン販売の例も、ビールと発泡酒の例もひどいものです。

 地方分権の進め方は、中央政府の役割を、外交、防衛、通貨、年金や生活保護など生存権にかかる最低保証、領域横断の警察、災害対応などに限定し、あとは地方に任せると、まず決めるのです。その上で、とにかく税金を取る権利と使う権利を地方に与えます。そうすることで初めて経済政策を立案・実行する能力が高まります。20年間言われ続けてきたことです。

 では、どうやったら民主主義のプロセスの中で実現するか。別の言い方をすると、勝てる争点にするためにはどうすればいいのでしょうか。地方分権という論点は長らく、お役人同士の権限争いの代名詞でした。財務省と、総務省(旧自治省)と知事会が何やら難しいことをやりあっているという感じです。これでは、争点たりえません。国民にとってわかりやすい政治的表現を見つけてこられなかったというのは、地方分権論者や道州制論者が素直に反省すべき点です。

 まずは、国民の損得勘定に訴えることを目指すべきです。長期的にはこれはよく効きます。が、資本主義的発想の方が経済発展が見込めるというのでは、いかにも心許ないでしょう。経済成長が加速化する保証は正直言ってありません。保証してほしいという発想がそもそも管理主義的ではあるのですが。これは、一部地域で、特区のような形で運用して実際に成果が上がったということを見せるしかありません。これが、民主主義の本筋の方法論なのですが、日本にはそんな悠長なことを言っている時間は残されていないような気もします。

 しかるに、おすすめは2つの意味で人々の感情に訴えることです。

 一つは、地域ナショナリズムとも言うべき感情です。お国自慢の強烈な形態で、多少、反東京のニュアンスが入ります。イタリア北部、ドイツ南部、英国におけるスコットランド、スペインにおけるカタルーニャ、台湾南部などに見られる感情です。これらの地域は、かつて違う国だった歴史を背負っており、日本にはあてはまらないと見る向きもあるでしょう。確かに、明治以降の中央集権化の150年は日本人のメンタリティーを変えましたが、かつては日本にも藩という、違う「国」がたくさんあったのです。近世日本は、同時代にしては世界的に珍しく封建制が維持されており、各藩は財政権も警察権もほぼ完全な形で持っていました。徳川幕府は、煎じ詰めると一つの私的な家でしかなく、その影響力は人口で見ても、算出する富で見ても、日本全体の過半には遠く及びませんでした。だからこそ、それが明治維新の大義名分にもなったわけです。

 現在でも、地域ナショナリズムと言えるだけの強い感情を有するのは関西地方くらいでしょう。九州や北海道には、お国自慢はあるし、地理的にも、島であることもあってまとまりはあるのですが、反東京の気骨が足りません。東北、北陸、中部、中国、四国は、そもそもまとまるべき単位が曖昧で、反東京の感情はさらに低いようです。

 だからこそ、二つ目の感情が大切になるのですが、それは、反役人の感情です。これは、この国では全国津々浦々で一定程度効果があります。必ずしも人間として高尚な感情ではありませんし、度が過ぎた批判、根拠のない批判は良くないけれど、個々のお役人個人を超えて、構造に問題があるのは事実です。そこを突くべきです。

 これを部分的に実現したのが、大阪での維新でした。議員定数を減らし、国民に還元する代わりに、借金を減らしました。この政治運動を可能にした政治的エネルギーが、大阪ナショナリズムと反役人感情です。維新は国政レベルでもこの原点に返るべきです。外交も、安保も、マクロ経済も、中長期の社会保障の制度設計も、実際にはよくわかっていません、専門家の作文ですと。その上で、でも地方分権は重要だし、得意ですと訴えるのです。維新には引き続き、得意なところで頑張っていただければと思います。

 他方、民主党の最大の強みはなんだったかというと、反自民の受け皿となったことでした。民主党が何を代表し、何を目指すのかは、実はずっと曖昧だったのだけれど、反自民をめざし、その受け皿であることは間違いありませんでした。政権交代の失敗でそれがぐらつきました。民主党には明らかに新しい旗印が必要です。それは、地方分権と言いたいところですが、ことはそんなに単純ではないでしょう。

 頼まれもしませんが、日本の中で引き続き民主党が意味ある勢力であるためにどのような戦略が適切なのか、これを次回のお題としたいと思います。

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*1:スコットランド、ボーダーの牧草地