山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

非正規雇用と日本の民主主義

 非正規という形で働く方の割合が継続して高まっています。統計によって多少の差があるようですが、80年代の後半から実数で2.5倍増加し、足もとでは既に労働者の約4割に相当します。非正規労働のすべてが一概に悪ということではないでしょうが、本日は非正規労働の不平等性に着目して、それを非正規問題という形で取り上げます。非正規問題の原因やその社会的影響については既に無数の研究や論評がなされていますので、本稿の目的は、非正規問題が孕む構造的な不平等を、日本の民主主義の問題としてとらえることです。

 繰り返しになりますが、非正規は労働者の4割の問題であり、国民の多くにとっては働き方の基本パターンです。筆をとる動機となった私の最大の違和感は、日本の労働現場がこれだけ変わっているのに、日本経済や雇用を語る際の基本的なストーリーがそれほど変化していないように感じることです。

 例えば、アベノミクスにともなう景気回復と労働人口の減少が相まって、流通業やサービス業では人手不足が深刻化しています。しかし、それは過去20年間のデフレ時代に形成された「最低賃金に近い労働」の需要が高まったに過ぎません。景気回復の実感を幅広い層に届ける、と言ったところでこの層にとってはむなしく響くだけでしょう。都市圏では多少の時給上昇もエネルギーコストをはじめとするインフレで吹っ飛ぶ程度です。一人当たりGDPのような統計数値を見てもそうですし、海外の友人知人と話しているとすぐにわかることですが、この層の日本の労働力は既に世界的にも高くはないのです。北欧などの先進国や、オーストラリアなどの資源国では、長年の物価上昇で都市部の時給は既に1,500~2,000円水準まで上昇しています。日本は、全体としては、世界第三位の経済大国であり豊かな国には違いないけれど、日本人の多くは必ずしも豊かではないのです。

 もう少し、長期的な認識に基づいて組まれるはずの「成長戦略」においても、日本経済のイメージとして技術力を生かした製造業中心の世界観があって、そこでの労働者像は終身雇用の男性正社員に偏っています。最近でこそ戦略を語るストーリーも、医療や介護を「成長産業」と言ったり、サービス業の生産性を上げると言ったりするようになりましたが、そこで働く労働者のイメージは時給800円の非正規労働者なのでしょうか。その戦略に、夢や希望はあるのでしょうか。

 なにより、官界でも財界でも政策担当者には非正規労働者のリアリティーが全く湧いていないのではないかと思ってしまう。年越し派遣村のかわいそうな人たちは理解できるし、お茶くみのお姉さんやおばさんはイメージできても、労働者の4割が、将来を見通すことも、家族設計もできない社会が広がっていることがリアルになっていない。しかも、そう遠くない将来にこの層も老いるのです。

 リベラル系の識者が以上のようなことを主張すると、そんなこと言っても競争があるだとか、経済が分かっていないだとか、実態を知らない左派知識人である等と言われます。これらの批判は部分的には当たっています。日本の政治空間においては、確かに左派も右派も資本主義ときちんと向き合ってきませんでした。特に、資本主義のグローバルな競争という側面については。私は、日本の政治家と知識人が資本主義と向き合ってこなかったつけを、非正規労働者が払わされているという側面があると思っています。

 グローバリゼーションの本質は、ヒト、モノ、カネ、情報が国境を越えて自由に行き来するようになることです。グローバルな資本主義の下で競争する企業とは、最適な場所で労働者を採用し、最適なサプライヤーから原料や部品を購入し、最適な市場で資金調達し、世界中から情報を集めることができるということになります。それは、そうしなければ競争に勝てず淘汰されていくということです。このような世界では、労働者の待遇は熟練度に応じてグローバルに決まってきます。熟練度というのは労働者としての、付加価値の水準、あるいは希少性という意味で使っています。極論をすると、同じ熟練度の日本人と中国人とアメリカ人の労働者は同じ待遇に向けて収斂していくということです。

 もちろん、ことはそれほど単純ではありません。世の中の多くの仕事は、グローバル経済に直接にはつながっていないからです。国内市場を対象とする業種、例えば、小売業やサービス業などの存在が大きいからです。ただ、これらも労働市場という形で他産業との間で労働者の移動があり、間接的にはグローバル経済とつながっているので中長期的には影響を受けます。

 市場の特性、慣習が労働者の熟練度に影響を与えることもあります。代表的なものが、語学です。例えば、アメリカ人のコールセンターのオペレーターの待遇は、英語圏のインドやフィリピンへのアウトソースを通じて非常に悪化し、多くはそもそも職を失いました。日本では、日本語という障壁に守られてこのような現象は今のところ軽微です。

 しかし、グローバル経済がそのまま労働者に影響しない最大の理由は規制です。それは、例えば、国民国家が定める最低賃金、雇用や、待遇や、安全に関する諸々の労働基準などです。世界をグローバル経済の側から見ると、その最大の障壁は国民国家なのです。国民国家は、国民の最低限の福祉と国民の間に一定の公平性を担保するために規制を作ってきました。そして、その規制の枠組みをグローバル経済が飛び越えようとしているのです。世界を国民国家の側から見れば、最大の脅威はグローバル経済という状況が生じているのです。

 考えてみれば、そもそも国民国家というものは国家内の公平を実現するために国家間の公平には目をつむるという制度です。同じ知識や技能を持つ日本人と中国人とベトナム人の労働者の待遇が何倍も、場合によっては何十倍も違うというのは見方によっては公平ではないはずです。少なくとも先進国の政治家にも知識人にもそんな発想をする人はほとんどいませんが、世の中を考える単位を国ではなく、世界、あるいは個人のレベルに置くと、そういう発想の方が普通のはずです。

 資本主義と向き合うということは、グローバリゼーションと国民国家との関係を理解した上でそのどちらかに寄りかかりすぎないということです。左派にせよ、右派にせよ、国民国家に偏りすぎて鎖国すべきみたいなことを仰る方は、たいていの場合、そうすることで我々がどれだけ貧しくなるかを理解されていない。貧しくなるどころか、もはや実現できないことを知るべきでしょう。反対に、グローバル化する世界にあって国民国家は邪魔でしかないとするリバタリアンや一部のビジネスエリートは、平和や、治安や、衛生や、福祉や、教育や、科学技術研究をはじめとする現代社会の基盤のほとんどが国民国家によって支えられていることを都合よく忘れています。

 これは、日本の民主主義という問題意識に立つと、グローバリゼーションという文脈の中で、国民国家を維持するコストの問題と、そもそもの国民の間の公平の問題に帰着します。

 コストというのは、国民すべてに最低限の生活を保障し、社会があまりにギスギスしたものにならないために一定の所得の再分配を行う度合のことを言っています。グローバリゼーションによって国内の秩序に影響があった時に、日本の民主主義の意思として、基本的には税金という形で、どのくらいのコストを払う気があるかということです。現在の日本は、コストということでいくと、コンセンサスと言えるものがあるのかもしれません。中福祉、中負担などと言われますが、多くの日本人は負担もそれほど増やしたくないし、給付もそれほど減らしたくないと思っているようです。ただ、実際の政治過程に乗せると、発言力の強い高齢者の意思がより強く反映されて負担増は通るけれど、給付減は通らないということになるのですが。

 対して、国民の間の公平の問題はコンセンサスからは程遠い状況です。本人の能力や努力に基づかない過度な結果の違いを不公平と定義するならば、それを是正することが公平なはずです。そして、日本の民主主義はこの公平をうまく実現できずに来ました。その最大の課題の一つが非正規労働の問題なのです。労働組合も労働規制も、本来は労働者を守るために存在しているはずなのに、労働者の4割を守ることができていません。百歩譲って、組織労働者を代表するのがミッションの労働組合の姿勢はしょうがなかったとしても、2,000万人の国民の意思をうまく政治過程に乗せられなかった各政党の責任は免れないのではないでしょうか。

 グローバリゼーションによって、熟練度の低い労働者の待遇に下方圧力が働くならば、その結果は、本人の能力や仕事の内容に応じて公平に負担されるべきです。本人の意思や能力に基づかず、仕事を始めたタイミング(=年齢)や性別によって一部の労働者が負担するのは不公平です。もっと乱暴に言うと、グローバリゼーションから受ける圧力が同じならば、同じ負担をすべきということです。同じ仕事をしているならば、同じ待遇を受けるべきというセームワーク=セームペイの発想です。労働者の取り分である労働分配率は、グローバルな競争の中で大きくは変えられないでしょうから、労働者間の配分を変えて公平性を担保するということです。現実的に多くの場合には、中高年男性正社員の待遇を下げて、若年層と女性の待遇を上げるということになるでしょう。

 世界中でそうですし、日本でもそうなのですが、既得権を持っている層とそうでない層では公平のイメージが全く異なるものです。民主主義が既得権に切り込むのに躊躇しがちなのも、もちろんそうでしょう。しかし、思えば、各種の税金にせよ規制にせよ、国民国家はずいぶん踏み込んだことを個人にも企業にも要求するものです。その要求の一つが、「同じ仕事に対しては同じ待遇を与えなければならない」であったとして、それほど実現が難しいものなのでしょうか。

 これは、国民国家における公平の問題ですから、民主主義の意思によって実現できることです。国民の間の不公平は、究極的にはグローバリゼーションのせいにはできません。それは、何より民主主義の怠慢と不作為の結果だからです。

 非正規労働の問題を解くカギは、資本主義に背を向けることではありません。それは、民主主義と向き合うことです。