山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

ガザにおける紛争について

 ガザでの紛争に出口が見えない。何度かの停戦を挟んで交渉は行われているようですが、停戦合意の継続さえままならないようです。積み重なった怨恨と利害関係の複雑さにフラストレーションばかりが募り、平和という言葉が、もはや空疎にさえ聞こえてしまうほどです。結果的に、国際社会の論調も、とにかく平和をということになります。その願いはもっともではあるのだけれど、必ずしも現実の理解に立脚しておらず、残念ながらあまり建設的でもありません。しまいには、どうせあの地域では何千年も紛争をやっているんだからという無力感の表明すら聞こえてきます。日本では中東の情報を現地ではなく欧米に頼っている状況があり、その傾向が顕著です。

 現代における民主主義国を当事者とする紛争を前提とする限り、平和が成立する方法は基本的に一つしかありません。民意の信託を得た代表者の意思を、正統な権限をもった交渉者が代弁し、お互いに妥協することです。別段複雑なことではありませんが、その要素の一つが欠けても平和はままなりません。紛争に直面していない先進国の人間は、都合よくそのことを忘れがちです。

 しかし、人間の歴史においていつもそうだったわけではありません。歴史上、平和とは、ある人間集団の殺戮によってもたらされることも、隷属によってもたらされることもありました。多くの場合、その悲劇は世代を超えて定着しました。その矛盾は、時の流れの中で忘れられ、やがて建国や統一のストーリーが作られていきます。多くの国が通った道です。何が言いたいかというと、イスラエルという国はこの建国の過程を現代の民主主義という舞台の上で通ってきているのである、ということの特殊性を指摘したいのです。外側から、かの地で起きていることを理解しようと思えば、その認識からはじめる必要があると思います。

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 1947年の建国以来、イスラエルパレスチナのそれぞれが、生存のため、水のため、土地のため、報復のために戦ってきました。現在の紛争は、相手側の民族の少年を殺し合う過激派同士の犯罪に始まり、ガザを実効支配するハマスが張り巡らしたトンネルの破壊のために戦っていることになっています。トンネルは物資の輸送から戦闘員の移動にまで幅広く使われ、その避難にも使われているといいます。安全保障の観点からどれだけ意味があるかは不明ですが、その場しのぎの目的に思えてなりません。イスラエルは、もちろん、ずいぶん前からこれらのトンネルの存在を知っています。イスラエル少年たちの誘拐殺人事件をきっかけに反ハマス世論が高まり、それを機に相手を叩いておこうというネタニヤフ政権の便乗主義を非難することはたやすいことです。しかし、観点を変えれば、明らかに自らに敵対的な勢力が、実際に敵対的な行動をとっていることを知りながらこれまでは自制していたということもできるでしょう。

 ネタニヤフはイスラエル国内のハト派から非難攻勢を浴びていますが、こわもてのタカ派が必ずしも「平和」をもたらさないわけではありません。首相在任中に病に倒れ、長い昏睡状態の後死去したアリエル・シャロンは、イスラエル史上最もこわもてな首相だったと言えるでしょう。彼はパレスチナ住民の居住地とイスラエルを分断する分離壁を建設したことで国連や先進各国から批判を浴びましたが、(むろん正義かどうかは別として)確かに自爆テロは減ったのです。また、シャロンは占領地に建設したユダヤ人入植地を撤去した際に、自国民の入植者に対してさえ過酷なほどの実行力を持って行ったこともあります。むしろ何より気を付けなければいけない点は、シャロン自身が1980年代に大イスラエル構想を実現しようとしたレバノン侵攻で失敗したように、自身が実現不可能な幻想を抱かないことです。

 現在のイスラエルには、かつて存在したような中東の地図を書き替えようというような大イスラエル構想は、意味のある形では全く存在しません。ある意味、90年代前半のオスロ合意以後のイスラエルはずっと撤退戦を戦っています。それは、武力において圧倒的に勝りながら、ゲリラ相手の市街戦であり、テロを通じて前線と銃後が渾然一体となった戦いです。今次の戦闘においても多くの民間人の犠牲者が出ており、その一つ一つの具体的な死には正当化すべき要素は殆どみつからないけれど、それとて、近代兵器を通じた無差別攻撃の結果ではないし、イスラエルはあくまで「先進国の戦争」をしています。そのことは、推定される民間人の死傷者数をシリア内戦と比較すれば明らかです。ただし、現ネタニヤフ政権が、ハマスファタハの対立関係を利用して親イスラエル政権をパレスチナに樹立・維持しようと考えているのならば、そろそろそれは諦めた方がよい、ということはいえます。それはイスラエルキリスト教勢力に加担することで親イスラエル政府をレバノンに樹立できると信じて侵攻した1980年代のレバノン介入の失敗において、最も学ぶべき教訓として覚えておかなければならなかったはず。

 何も、私はとりたててイスラエルを擁護したいわけではありません。村上春樹氏の言ったとおり、高い壁を前にして卵の側に立つ心の動きは当然です。私が言いたいことは、剥き出しの具体的な敵対行動にさらされた民主主義国が自制することの難しさです。日本国民がイスラエルの立場にあったと想像したならばどうでしょうか。アメリカ人やイギリス人であったならどうでしょうか。そのとき、他国の国民が自制できるとは思いません。それは何もそれらの国民が好戦的だからではなく、構造がそうさせるのです。それは、大層のイスラエル人が好戦的なわけではないことと同じです。弱き者に寄り添う心は、平和を実現するための人の心の原動力ではあるのだけれど、それが構造に目を向けない議論に立脚しているとすれば、危ういと言わざるを得ません。その観点から、良い記事をご紹介しましょう。イスラエル政府に、ハマス幹部及びその家族の暗殺をやめるように呼びかけたHaaretzのコメンテーター、Gideon Levy氏の本日付の寄稿記事です。相手の側に立って物事を見ることは常に有用です。

"What would Israel do in Hamas' shoes?"

http://www.haaretz.com/opinion/.premium-1.611672

 そもそもイスラエルという存在は、非常に特殊です。きわめて洗練された先進国であり、活発な言論が存在する民主主義国です。経済的にも、世界的なハイテク・スタートアップの集積地として注目度も非常に高い。文化/芸術でも最先端を行っており、テルアビブのネヴェ・ツェデク地区の劇場やカフェにいると、こんな国が戦争をしていることがにわかには信じられないほどです。他方で、国境の中に、壁を持っていて、その向こう側には第三世界を内在しています。そこには、バザール経済から大きく抜け出ていない市場があり、活気はあっても、違う時間と価値観が流れています。資本蓄積は乏しく、人々の生活は持続的に改善していきません。不平等を内包した人造国家のバックボーンとなっている統治原理はユダヤ主義としての民族主義であり、ここに民主主義との本質的な葛藤があります。パレスチナ人から剥奪された機会均等は、イスラエルの民主主義を蝕むものであり、憎しみを糧として生きテロ組織に力を与えています。

 国際社会には、グローバルな象徴性を与えられた戦いと悲劇の継続を望む勢力も存在します。幾度の中東戦争を通じて、概して中東諸国はパレスチナ人に冷たかったということは記憶されるべきでしょう。エジプトにとっても、シリアにとっても、パレスチナ人は厄介な存在であり、かろうじてヨルダンに寄生して生きていた時代が長く続きました。グローバル化を通じて彼らの大義に共感する裕福なスポンサーが現れましたが、彼らが支援するのは、パレスチナの市民というよりはあくまで反イスラエルの大義です。パレスチナを代表するはずの指導者達も、その実態は部族の代表であったり、個別の私的軍団の代表であったりであり、和平の責任ある当事者とはかけ離れた存在です。

 イスラエルパレスチナ間の紛争は、国際社会が作り出し、悪化させてきた紛争です。当事者の持続的な努力が必要なことはもちろんですが、国際社会には建設的に関わる道義的な義務があります。平和を願うだけでは責任を果たせないのではないでしょうか。解は、イスラエルが領域国家としての原則に則り、民主主義を深化させることです。国際社会は、イスラエルやユダヤ人を丸ごと非難するのではなく、イスラエルを領域国家とし、成熟した民主主義を奉じるそのような勢力を支援すべきです。それが、中東を蝕み、世界を蝕み続ける紛争への答えなのではないでしょうか。