山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

政権の歴史的偉業とは何か

 GWで少し時間が空いてしまいましたが、前回のエントリーでは、安倍政権において進んでいる経済改革について一歩引いた立場からの評価を試みました。そして、確定的な評価には時期尚早との留保はありつつ、圧倒的な政権基盤や同政権の保守的なイデオロギー故に経済政策の進捗が過小評価されているのではないかと申し上げました現在進んでいる経済政策の成果は、普通の国並みの政権基盤の安定を経てようやく可能となったものであり、日本もようやく政権のレガシー(=歴史的な意義)について考え得るスタート地点に立てたわけです。近年の短命政権の混沌というマイナスから出発して、内政、外交ともに成果が積みあがっていく中、本日は、多少長期的な観点から歴史的偉業とはそもそも何なのかについて考えたいと思います。前回触れたように、そのキーワードは「開かれた保守」ということだと思います。一般的な使われ方とはちょっと違う意味で言っていますが。

 いきなり結論めいたことを言うとすると、政権の偉大さとは、その国がもっている「くびき」を乗り越えるための努力をどこまでできるかということではないかと思っています。

 国という人間集団には、歴史的に形成されてしまった何らかのくびきがあるものです。それは、集団を分断してしまう何かであり、政治的エネルギーの源泉でもあります。政治的エネルギーとは、正義や進歩のような正のエネルギーであることもあれば、往々にして不信や嫉妬や怒りなどの負のエネルギーであることもあります。米国で言えば、奴隷制に根をもつ人種差別が大きなくびきでしょうし、近年はそれが経済格差と結びついていることでしょうか。英国であれば、階級かもしれませんし、植民地支配や北アイルランドスコットランドなどを統合してきた歴史的経緯かもしれません。韓国には歴史的に地域対立があり、中国は、まあ、いろいろありますが農民に対する差別的な諸制度でしょうか。

くびきであることの本質は、正のエネルギーと負のエネルギーが不可分に結びついていることです。現在の米国や英国において人種差別や階級対立を正面から正当化しようとする考えは少数ではあるのでしょうが、人種や階級が国の自画像と否応にも結びついています。そして、この自画像を具体的に論じていくと対立が鮮明になってしまうのです。それはサミュエル・P・ハンチントンの後期の一連の作品においても明確になった点でしょう。

 国を富ませたり、強くしたりすることはもちろん重要ですし、拠って立つべき土台なくしては国も存続できないのだけれど、しかし、偉大さと強大さはやはり違う。民主主義には、政策を競い合って国民の支持を得ると言う側面があるので、リーダーにも自らの陣営の利益を追求する誘引があります。ただ、陣営の利益を追求するだけでは、陣営の英雄にしかなれないものです。自陣営を超えた、くびきの向こう側にいる「他者」にはたらきかけ、手を差し伸べる自己犠牲と拡大された連帯感の中に偉大さは宿るんだと思います。何よりも自由を大切にする立場からは、個人や家族や社会などのもう少し小さな、自然発生的な集団こそが真善美を体現する主体であるべきであって、いちいち国に出てきてほしくないという考え方もあるでしょう。国の偉大さを云々すること自体が気持ち悪いというような。人間がもっと進歩したとすれば、そんな日も来るのかもしれません。しかし、国というものの後退が、くびきの向こう側にいる人々の犠牲やそれへの無関心のもとで行われるのであれば、それもまた偉大さとは違うものなのだと思います。

 当然、ここで重要になる問いは日本のくびきとは何なのかということです。人によってもちろん立場は異なるでしょうが、多くの日本人が合意できるだろうことは、日本のくびきはそれほどわかりやすくない、ということです。>日本にはわかりやすい形での大きな分断がない。それは、社会として、国家としてとても幸福なことです。いや、米国や英国のそれも、外から描写する風景と実際のその地の国民個々の感覚は違うこともあるでしょう。人によっては、人種や階級でなくて、信じている宗教、背負っている文化、生まれついた性(=ジェンダー)、性的な嗜好、障害の有無、人生の中の季節(=年齢)など、より重要だと思う分断があるかもしれません。

 戦後長い間、先の戦争への評価は日本人にとって、唯一の公なくびきと呼びうるものであったのかもしれません。戦争への評価やその象徴であるところの靖国神社や、南京大虐殺や、慰安婦への評価は日本人を明確に色分けする、一体感を損なうテーマでした。戦後長きにわたって左右両陣営はお互いに不毛な踏絵を突きつけ合ってきましたし、今もその構造を引きずっています。「戦後政治の総決算」や「戦後レジームからの脱却」が目指されるたびに、このくびきに新たなエネルギーが注ぎ込まれ、かえって対立が深まったような気さえします。もちろん、時間が解決してくれたこともあります。日米同盟についても、自衛隊についても、今でも、立場は様々あるけれど、明日解散してしまえと思う人はそれほど多くはなくなった。これは、戦後の日本社会がそのくびきを乗り越えつつある証左でもあります。安倍総理自身の書かれたものや過去の発言を追うと、少なくとも当初は対立の一方にいた側=保守層を代弁することを自身の役割として捉えていたとふしがあります。私も、それを指して「過去の敵と戦っている」という表現を使ったことがあります。

 ただ、最近の総理の言動や内閣の方針を見ると、多少の変化を感じます。例えば、集団的自衛権憲法解釈変更の議論は、当初は保守陣営の踏絵としての色彩が色濃かった。憲法解釈を変えるという行為の象徴性そのものに意味があるという発想です。そして、それに反対する側も、それを阻止するという象徴性にこだわった。最近は、もう少し安全保障の実務に近い具体的なケースを対象に議論が進みつつあり、多少は建設的な議論になってきました。慰安婦の問題をめぐる発言で、2015年に発表予定の「歴史認識に関する総理談話」についてもニュアンスに微妙に変化があります。中韓との関係を改善する必要があるという戦術的な側面もあるのでしょうが、保守層を代表する気概の強かった政権が、本来の国民を代表する政権へと意識を変えつつあのかもしれません。

 元来、安倍総理はいろんな意味で複雑な政治家ではないでしょうか。保守的な象徴性を持った背景を背負い、政治家としてのキャリアを積む過程でも拉致問題をはじめとする政策で保守陣営のプリンスとしてその思いを強くしてきたように思えます。他方で、和を尊ぶという日本的な美風を重視するむきもあり、戦闘的な政治スタイルを貫くタイプではない。歴史的偉業や総理大臣というものはこうあらねばならないという責任感が強い一方で、個人的な感情や思い入れが重要な側面も感じさせる。政権発足から1年半ほど経過して、政権運営の自信も増し、政権の歴史的な位置づけについての意識がもう少し前に出てきているのではないかと思います。保守的な思想信条が明確な政権の方がかえってリベラルな打ち手を打ちやすいというのは頻繁に語られる歴史の逆説です。例えば、反共で鳴らしたニクソン大統領だからこそ中国と和解できたというのも一面の真実ですし、戦後の日本では鳩山(一郎)内閣の日ソ関係改善、福田内閣の日中平和友好条約締結などもその例かもしれません。

 以上を踏まえ、安倍内閣の歴史的使命は、かつての不毛な保革対立を和解に導くことでしょうか。和解と言うのは、安全保障政策を神学論争の世界からより実務の視点を反映したものにしていくということです。もちろん、古い世界観に立つならばそれは保守優位のもとでの和解ではあるのですが。しかし、私は安倍政権の歴史的な位置づけは他にあると思っています。日本の民主主義への信頼ということからいくと、もっと多くを期待したいと言い換えることもできます。

 さて、ここで日本のくびきとはなんだろうかという本筋に話をもどしましょう。私は、日本のくびきというのは、くびきを意識させない気風、ある種の一体感信仰ではないかと思っています。「和をもって尊し」というのはどの国民にもある動きだと思いますが、その優先順位が異なる。日本人に特異さがあるとすれば、その価値観がいわば憲法の第一におかれてきたということかもしれません。どんな国民よりも、差を際立たせること、くびきを意識させることに居心地の悪さを感じる。実際の程度問題とは別の次元で、格差という概念や言葉に我々が非常に敏感な理由もこの辺りにあるのだと思います。そして、一体感を損なう、空気の読めない行動や言説への反発と制裁には実に激しいものがある。

 東日本大震災の後、「絆」という言葉が社会的に非常に重要な概念となりました。それは、我々にとって心地よい概念であり、危機の最中にあった日本人や日本社会のこうありたいという自己イメージととてもよく合っていました。絆という概念には、非常に強力な規範意識が宿っていて、大きな社会的なプレッシャーを作り出します。この規範意識が、混乱の最中にもほとんど治安が悪化しないという世界が驚嘆する状況を支えているのです。しかし、絆の力は、同時に大規模な防潮堤の建設に反対しにくくしたり、福島以外での再起を目指す人々に冷たくあたったりする方向にも作用してしまう。

 一体感そのものが悪いわけではありません。けれど、一体感を乱すものを敵対視してしまうこと、あるいは、一体感を弱い立場から支えている人々に手を差し伸べない冷淡さを生むことがあります。社会的弱者と向き合うことは、社会の欠陥を認めることであり、一体感への脅威にもなるのです。「みんな一緒だ」、「みんなでがんばろう」と言っているときに、「弱者、弱者とそんなしらけたことを言ってくれるな」という感情が我々の中に厳然と存在している。ありきたりの集団単位で弱者を認識するアプローチだけでは不十分なのかもしれませんし、文脈によって弱者とは何かは異なるのだけれど、それは地方であったり、女性であったり、非正規で働く人々であったり、なんらかの病気や障害などの不自由を抱えた人々であったりします。これら条件のいくつかが重なるところにつらい思いを抱えた方々が多くいるものです。

 総理大臣とは国民すべての総理大臣であり、政権とは日本の民主主義の結果として権力を信託されている存在です。偉大な政権とは単に一体感を高めた政権でなく、一体感の向こう側に意識を向けられたかどうかということではないかと思っています。希望のないところ、光の届かないところに目を向ける、本当の弱者に手を差し伸べることが一番の責務ではないかと思うのです。それこそ、開かれた保守ということの国内的な意味です。次回は、開かれた保守ということの対外的な意味合いについて書きます。