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山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

ロシアのG8追放は禍根を残す

 ウクライナ情勢をめぐる国際社会の緊張がエスカレートしています。エスカレートという言葉自体、冷戦中に頻繁に登場した言葉で、現代にはいかにも合わないものですが、残念ながら現在の状況を言い当てる言葉になってしまいました。クリミアでの住民投票、同地域のロシアへの編入、欧米によるロシア政府高官を狙い撃ちした制裁発動から、いよいよG8からの追放と、事態はどんどん進展しています。

 前回のエントリーで、ウクライナとクリミア、ウクライナ内部の諸民族の利害関係の塊と、ロシアとEUやアメリカとの関係の塊を明確に区別して論じるべきということを申し上げ、そして、19世紀半ばのクリミア戦争や直近の南オセチアの紛争がどのように「誤用」されているかについて申し上げました。そこでは、プーチン大統領のロシアが利己的に、厳密には不法に、しかし、現場の秩序を維持し、より大きな悲劇を未然に防ぐという意味では部分的に正しく行動していると言えなくもないということを申し上げました。現在の「空気」の下では、国際社会や外交の専門家の中でも完全に少数意見にあたるようです。けれど、事態が進展するに従ってもなお、基本的な認識は変わりません。

 クリミアの住民投票とロシアへの編入の過程を通じて現地住民が見せた反応から言えることは、この問題は日米欧のメディアがわかりやすく切り取るほどには単純でないことです。複雑な歴史的な背景を持ち、現地の住民や集団のアイデンティティーや、安全認識や、利害認識が複雑に絡み合う問題を、原則論で一刀両断するのはいつでも危険です。特に、国際社会が寄って立つべき国際法や、国際正義という概念自体が本質的に多義的である場合には。

 まず、はっきりさせておくべきは、今のところ、現場の緊張は際立ってエスカレートしてはいないということです。ロシアの軍事行動の本質は、治安維持目的の先制展開です。多少なりとも軍事的センスがあれば、特殊部隊や空挺部隊が飛行場、港湾、通信施設を中心に展開することの意味合いがわかるはずです。本質的なウクライナ併合を目論んでいれば、いまだに世界最強のロシア戦車部隊が大量に投入されるはずですが、幸いなことにそうはなってはいませんし、そのような強硬な展開を必要とするほど、現地の住民がロシア軍に敵対していないということです。しかも、偶発的で単発的な衝突以外は、死者も出ていないし、組織的な戦闘も行われていません。治安も悪化していませんし、民族浄化も起きていません。もちろん、このような情勢では不可避である、国境地帯への軍の展開は行われているようですので、今後の事態の推移如何では状況が悪化する懸念はあります。

 ですから、エスカレートしているのは、国際社会の反応の方です。先進各国の市場は脅威の高まりをいったん織り込んで沈静化していますので、経済的には新冷戦は想定されていません。新冷戦がもたらす経済的なインパクトを市場が本当に織り込んだとしたら、各国市場の株価も、ロシア、東欧、中央アジアに権益のある企業もガタガタになるはずです。他方で、日米欧の識者のボルテージはどんどん高まってきています。また、当初から明らかなことは欧州にも米国にも、クリミアをめぐってロシアとの武力対決を本気で想定している人間はいないということです。そういう意味では、新冷戦だ、新冷戦だといっているのは良くてメディアのセンセーショナリズムであり、政治家のレトリックであり、茶番です。一連の紛争の推移と反応を見ていると、茶番だとわかっているプロと、茶番だとわかっていないアマチュアがいます。これは、ある意味健全というか、普通です。たちが悪いのは、プロだと思われている人たちもだんだん問題の本質が見えなくなって、現場で起きているファクト(=事実)と、そこから導かれるべき教訓と、自分の欲求や思考パターンから来る限界とが混同される傾向にあることです。

 我々が恐れるべきは、我々自身の無責任な冷戦思考です。冷戦思考には、様々な悪癖があります。まず、繰り返し強調してきたように現場の複雑な歴史や利害関係を単純な戦略論に置き換えてしまうことです。日米欧は、戦略論の大義の下に無益な戦いと犠牲者達を作り出し、独裁者やテロリストの不正義について目をつぶってきました。しかし東欧や中央アジアをめぐるロシアの拡張主義というのは、一面の真実ではあっても、問題のすべてではないし、今般の紛争における主要な点でもなかったはずです。

 しかも、戦略論は、実際には戦略的にも破綻していることが多いものです。ロシアの協力が得られない中で、シリア情勢をどのようにコントロールするのでしょうか。いまだに政治的にも経済的にも脆弱なポーランド以東の東欧諸国や、豊富な資源と不安定な民族/宗教構成を抱えた中央アジア諸国をロシアの協力なしにどのように安定させるのでしょうか。歴史的にロシアと強い関係を持ち、ロシア自身が豊富な権益を持つ、欧米にも日本にもいろんな意味で重要な、ベトナムや、モンゴルや、北朝鮮への影響はどのように考えるのでしょうか。現在行われている制裁論議がそこまで想定しているものとは到底思えません。「お花畑」の平和主義で言っているのではありません。ロシアとの協力可能性ということの戦略的価値を過小に見積もってはならない、ということです。戦略論のイロハのイは、紛争がどのように終わるか、エンドゲーム(=End Game)が何かを熟考せずに事をおこしてはならないということです。現在の日米欧には、プーチン大統領が急速に高まった自身への支持を犠牲にするリスクを犯しつつも、急に矛を収めるという、「ありそうにない展開」=希望的観測以外にエンドゲームの想定があるのでしょうか。

 冷戦期の冷戦思考には緊張と危機の自己実現的な悪癖があったわけですが、それでも究極的には核戦争の恐怖に由来するある種の責任感と抑制主義が伴われていました。冷戦の緊張がピークに達したキューバ危機の最中にも、ケネディ大統領はフルシチョフ書記長の立場から世界がどのように見えているか十分に想定していました。拡大した泥沼のベトナム戦争においても、ソ連や中国との対立という文脈では米軍は非常に抑制的でした。米軍のイラク戦争アフガニスタン戦争における開戦経緯や戦闘態様とはまったく異なります。今の欧米の制裁論議を主導しているオバマ政権は、任期を3年弱残して既にレームダック化しています。シリアにおける武力介入をめぐって腰砕けになってしまった教訓から、ロシアへの強硬姿勢も中間選挙を前に、国内メディアや共和党からの弱腰批判をかわしたい思惑が見え隠れします。

 冷戦期に米国や西側には、倫理的な力がありました。ベトナムや中東など冷戦の前線になってしまった地域では違っても、東欧やロシア国民の多くには西側の自由と繁栄が輝いて見えました。ベルリンの壁を指して、「この壁を取り払いなさい」と言ったレーガン大統領のレトリックにはシンプルで力がありました。今回の危機において、欧米に倫理の力はあるのでしょうか。もちろん、ウクライナの主権尊重は重要です。第二次大戦後にほぼ確定した国家とその国境線を尊重すべきと言うのは、戦後の一種の知恵です。民族、宗教、資源などの現実をもとに国境線を引き直していては紛争が絶えないから、現実の利害を、国境線という国際法に無理やり合わせるという方便を編み出したのです。

 しかし、多くの識者も指摘するとおり、現実と国際法の齟齬があまりに大きくなった場合には、国際法=国境線の方を変えることも例外的には行われてきました。プーチン大統領が演説の中で指摘するように、コソボとクリミアの事例を明確に区別するロジックがあるのかどうか。どちらの事例も、大国あるいはその連合の軍事的圧力の下で、現実にあわなくなった国境線を変更した事例と言ってしまえば同じになってしまいます。オバマ政権は、手続き論の乱暴さを主張していますし、それは部分的には正しいのですが、現実のクリミア住民の意思はどのように斟酌されるのでしょうか。仮にクリミア独立を許すのみで編入しなかったとしても経済的に自立しえないでしょうし、政治的軍事的にロシアへの便益供与と見返りとしての庇護が必要なことは火を見るより明らかです。

 欧米が発動したロシアの政権中枢にいる人間の海外資産の凍結は、現代社会ならではのスマートな制裁と評価されています。効果もある程度あるでしょう。しかし、政治的信条と経済的権利を分離し、所有権の不可侵と法の支配を尊重する、かつての西側の倫理的正当性は傷つかないのでしょうか。70%以上がプーチン大統領を支持するロシア国民の感情はどのように推移するのでしょうか。

 オバマ大統領はレトリックの人です。黒人初の大統領という象徴性とイラク戦争金融危機で疲弊した米国に、新しい言葉で新しい空気を作り出しました。米国を外から見ていると、例えば国民皆保険への挑戦と挫折などには一定程度同情心も覚えるのですが、外交や安全保障分野に関する限り、誇るべき成果はほとんどありません。ノーベル賞受賞に繋がった核軍縮も、TPPや米欧の自由貿易協定を通じて国際経済秩序を再活性化する試みも、二期目の成果として力を入れている中東和平も、中国の台頭を踏まえたアジア重視への転換も、すべて言葉であって成果ではありません。指導者がどのような動機に基づいて政策決定を行うかはとても重要です。レトリックとイメージ戦略を重視するオバマ政権になってイラクアフガニスタンでの闘い方は確かに変わりました。しかし、インテリジェンスの専門家には常識でしょうが、ブッシュ政権時に批判された米軍の拷問のような問題も、実は地下に潜ってしまっているだけであり、米軍の情報公開に対する姿勢はかえって後退しています。本質的に危険を伴う世界において、イメージを重視しすぎるとそうなってしまうのです。それこそ、偽善主義を国内外に広めることの代償です。

 私は、政治や外交の分析をするに際しては、具体的なリーダー個人や政権の性質ばかりを取り上げて、構造を見失わないことを重視しています。けれど、歴史の決定的な瞬間には政権の中枢にいる個人の性質がものをいいます。米国の大統領が演説家であり、法律家であるオバマ大統領でなかったならば今回の危機はどのような推移をたどったでしょうか?例えば、2008年の共和党大統領候補であったマケイン氏だったなら、外交的には強硬派でありながら、自身のベトナム戦争の捕虜体験も糧としてロシアとの協力関係の持つ戦略的価値を理解したのではないでしょうか。2012年の共和党候補であったロムニー氏だったならビジネスマンとしての経験からロシアをはじめとする旧東側諸国がグローバル経済に組み込まれたことの利益を理解したのではないでしょうか。かつて、民主党出身のクリントン大統領は、冷戦を終結させた90年代の社会に広がった無限の可能性をさして、これは「先の幾世代ものアメリカ人が夢見た世界だ」と言いました。冷戦終結期に夫の政権を支え、外様の国務長官として一期目のオバマ政権を支えたヒラリー氏が大統領の座にあったならどのように行動したでしょうか。歴史に、「もし」はありませんが、歴史の「もし」を検討することは、しばしば現実への処方箋を示唆してくれるものではあります。

 日本の対応についても少しだけ触れます。一番気になるのは、現実主義を標榜する専門家の一部が、欧米の論調に同調した冷戦ノスタルジーとも思える世界観を持っていることです。冷戦時代の日本が、西側の一角として、ある意味、実際以上に重要視された牧歌的な時代の記憶が抜け切れないのかもしれません。現代は、グローバル経済の競争はより激しく、日本の重要性は相対的には低くなったけれど、それでも、冷戦の緊張よりはよほどマシな世界なのに。その大局観を忘れてはいけません。相変わらず、情報を完全に欧米に頼っていることは課題でしょう。欧米と寄り添うことを中心としたメディアの論調にも違和感はあります。しかし、政権が現実に取っている独自の行動や制裁は、毒にも薬にもならない程度のものです。このような姿勢から理想や大義は感じられないけれど、うまく立ち回るという意味では大人な対応であり、現在の官邸の仕事師的な手腕として評価すべきでしょう。

 かつて、中東戦争の英雄でありながらパレスチナとの和平を一番熱心に推し進めたイスラエル首相のラビン氏は、「平和とは友との間に結ぶものではない、敵との間に結ぶものだ」と言いました。平和を通じて、敵が友になるのだと。とすれば、その反対に、「制裁」とは本来は、友だった間にこそ成り立ち、やがて敵を作り出すものなのです。我々の世代と、日本が肝に銘じるべきは、ロシアとの間で制裁の火遊びをして、敵を作り出してはいけないということです。それは、我々の前に生きた世代が、耐え難きを耐えてソ連との間に平和を結んだことへの裏切りであり、我々の後を生きる世代に禍根を残すことに他なりません。