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山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

ウクライナ情勢について

 ロシアのウクライナの内乱に際してのクリミア介入が争議を呼んでいます。欧米メディアの論調は、「新冷戦」を予測する者から、以来の地政学的なショックというものまで、冷静な分析とそうでもないものが入り混じっています。日本の論調は、事実関係については、欧米の情報に頼ったうえで、関係者全員に平和の尊さを訴えるものと、領土問題を抱える日露それぞれに安倍総理プーチン大統領という強いリーダーがいる現在の好機を逃したくないという間で揺れているようです。いうまでもなく、外交の基盤は情報ですし、情報の基盤は分析です。ウクライナの本質はどのように捉えるべきでしょう。

 ロシアが行っていると思しき軍事行動が果たして治安維持にとどまるのか、ウクライナの新勢力や軍との間での激しい軍事衝突に繋がるのかは、今後の展開を見なければわかりませんが、我々がここでまず押さえておかなければいけないことは、ロシアとウクライナウクライナとクリミアとの衝突、ウクライナ内部での政変に伴う武力衝突という問題群の塊と、EUや米国、また国連の行動や動静とを分けて考えなければならないということです。

 ロシアがウクライナを勢力圏として扱うことやクリミア自治共和国の要請、自国民保護による出兵が果たして正当化しうるかどうかはともかく、この介入は今のところ戦争には至っておらず、まだ治安秩序の維持にとどまっています。すぐに「侵攻、侵攻」となるあたりは、メディアのセンセーショナリズムと全般的な軍事音痴ぶりの結果でもあるのですが、現在のところは治安維持のための先制的な展開と見るべきです。

 自国に縁の深い少数派住民の安全確保や、階層的な国家間関係理解を前提とした進駐は、大国が介入に際してしばしば援用してきた伝統的な理屈ではあります。ただし、冷戦後ユーゴ等で見られた秩序の崩壊、それに伴うジェノサイドや民族浄化の危険に対して、先制的な治安部隊の展開にも理があると理解されつつあるというのもまた事実です。本来であれば、EUにも、NATOにも、米国にもそのような視点もあるべきなのですが、ロシアとのパワーゲームのスタンスが前に出すぎてしまうという構造があります。

 グルジア紛争に伴う南オセチア紛争とは異なり、今回先に手を出したのがロシアであることは明白ですが、それはメドベージェフ政権下、南オセチア介入に踏み切るのが遅れたことへの軍幹部の学びが影響していることは間違いないだろうし、南オセチア紛争でも介入を決定するのに指導力を発揮せざるを得なかったプーチンが現在大統領の地位にあることと因果関係があります。南オセチア紛争が終わってしばらくすると、退役直後のロシア軍幹部はメドベージェフ批判を公の場で隠そうともしませんでした。それはロシアでは他の成熟したデモクラシーと比べてまだ軍の権力が強いことの証左でもあるけれど、政治・外交上の利害を優先したことによって、そもそもの目的としての住民保護、ロシア系住民の共同体の保全が部分的にしか達成されなかったこと、軍事的合理性の観点からの批判という意味では、軍の批判はある程度筋は通っています。

 もちろん、武力紛争は起こらないに越したことはない。今回の件でもウクライナの国内紛争が沈静化し、ロシア軍が撤退することが一番望ましいけれども、治安維持や国内の自治国の取り扱いの問題はそれほど単純ではありません。プーチン大統領は、ここでは彼の冷戦期から培ってきた洞察と決断力を行使し、地域の安定のために働いている指導者であると見ていいでしょう。つまり、あくまでもロシアの指導者であるがゆえに利己的ではあるのだけれど、国際法を踏み外しすぎることはしないし、個人的な小さな政治的利害や外交上の勝ち負けを気にして動いてはいないということです。

 私が非常に気になるのは、ウクライナ全体の安定と人々の安全が問題の核心であるべきなのに、EU諸国やアメリカが、益がないばかりか非現実的で害しかもたらさないような対応をしていることです。まず、欧米の指導者や識者の頭の中には、民衆革命のファンファーレが高らかに鳴りすぎている。これは、欧米の指導者の自国の歴史の自画像が作り出す、根強い、往々にして害のある思考パターンです。

 フランスにおける革命の暴力は事後的に正当化されたに過ぎないし、その後独裁や王政、腐敗した政治が繰り返し現れたことは周知の事実です。革命ではなく独立戦争を戦ったアメリカはもう少しましな歴史を持っているだけに、さらに民衆革命の幻想に浸されている。20世紀前半のドイツの歴史を紐解けば、ウクライナの新政権で多数を占めている勢力との親和性が少しは発見できるはずです。ところが、米欧諸国は物事を綺麗に切り分けたがる傾向にあり、オランド政権のマリ介入と今回の介入との間に連続性があるかもしれないという自省が働かない。

 明らかに、アフガニスタン戦争やイラク戦争に比べ、今回のロシアの介入はNATOの一連のユーゴ介入やフランスの旧宗主国としてのアフリカ介入に似ています。ただ、ロシアが武力で滅ぼそうとするほどの敵がウクライナにはいなくて、戦争にはなっていないという点が違います。ロシア人はウクライナ人や新政権を「悪魔化」してはいません。気に入らない勢力、言うことを聞かない手の焼ける隣人だと思っているのに過ぎない。そこには、善悪二元論では割り切れない、大人にならないと生き抜けない世界があります。

 EUはもちろんのこと、米国も、この紛争に武力で介入したりする能力も意思もありません。そもそも外交、軍事に携わる実務家の認識からして、ロシアと戦ったりすることが想定にあるわけがないし、ウクライナの新政権のために命をかけたいはずもない。メルケル独首相など、頼むから勘弁してくれというのが本音でしょう。ただし、米欧に介入するつもりがないということと、ロシアに対する脅威認識が肥大化することや、外交的に恥を欠かせようとすること、漁夫の利を得ようとすることはまた別です。

 19世紀半ばに、現代ではクリミア戦争と呼ばれている戦争がありました。これはイギリスで当時は”Russian War”と呼ばれたものです。この戦争は、黒海オスマントルコ帝国における権益をめぐる大国間パワーゲームによって引き起こされたと通常考えられています。フランスのナポレオン三世の好戦性は特筆すべきものがありましたが、最も強大な軍事力を提供した英国の対露参戦が、この戦争を大規模な戦争に拡大させたのです。そして、当の英国はといえば、誤った脅威認識に基づき、「ロシア恐怖症」に人々が煽られて、自ら不要な戦争に突入してしまった。参戦前、最後にウィーンの会議で紛争調停の折り合いに失敗した時、外交官は万策尽きたと本国に報告しました。もう引き返せないと。ですが、戦争において、相手が自国を滅ぼしに総力戦でやってこない限り、引き返せないなどということはないのです。

 しかも、その戦争にかかっているとされていた権益はなんだったのか。正教と旧教の僧侶の間での聖地の鍵の管理をめぐる争い、オスマントルコ帝政下で属国にとどまっていた公国の地位、トルコ宮廷における側近同士の権力争いへの肩入れ、建艦のための木材供給の一部が通る黒海の管理、そして、イギリスに比べればたいしたことのないロシアの黒海艦隊の能力向上、当時もさまざまな点が挙げられました。フェアに言って、当時のイギリスにとって蒸気船の建艦競争相手はフランスであったし、イギリスの自由主義の観点から行けば、肩入れした先のオスマントルコもロシアと同程度の脅威だったはずです。ですが、イギリスにとってのクリミア戦争は、専政ロシアという「野蛮な熊」から「乙女トルコを救う戦争」となり、ナイチンゲールのように良き魂を持つイギリス国民が自由の戦士らを支えて果敢に勝利した戦争、となったのでした。

 実態はといえば、下層民を強制的に動員して戦い、コレラが蔓延し、人々が死ぬ前から腐って行く戦場で、そもそも戦争を終わらせる以外には殆ど意味のないセヴァストーポリ要塞戦で両国が死者の数を競っただけでした。この戦の帰還兵であるロシアの文豪、トルストイが徹底した平和主義者になったのは有名な話です。

 相手側から見てみる時、戦争の風景は変わります。これまでの興味深い研究が示しているとおり、ロシア皇帝が実は権益のためではなく真に正教徒であるオスマントルコ領民のための正義を求めてオスマントルコに対し開戦したというのが最も今回の件に照らして示唆的な事実でしょう。ロシア皇帝の正義感はムスリムカソリックには同様に向けられてはいなかっただろうけれども、守るべきものがある時、人はそこに偽りのない権益を持つものです。それに比べれば、イギリスの参戦は守るべきとされたものすら、偽られていたのでした。

 言ってしまえば、彼らを突き動かしていたのは、競争相手の足を引っ張ってやりたいという気持ち、以前自分に利益をもたらしてくれた人に対する肩入れ、自分が常に正しく、正義の側でありたいと思う独善主義、それを自らがコストを負うことなく唱えることで何らかのお得なご褒美をもらおうと言ったような感情です。現在の紛争とそれに対する諸外国の対応との類似性を感じるのは私だけではないはずです。

 核抑止があり、国際法が発展した現在の世界では、クリミア戦争のような大規模な戦争にはならないでしょう。ロシアに対しては、まともな制裁すらできないはずです。けれども、オバマ米大統領の行動に期待するメディアや識者がほとんどを占めているのには驚いてしまいます。確かに、自由の番人として、米国が占めている影響力は計り知れないものがあります。しかし、口先だけならなんでも言える世界で、大人になりきれない子供として無い物ねだりをする米国の現政権に、同盟国ではあってもその動静ばかり追いかけるのはいかがなものか。苦しい時にこそ、友人を支えなければならないと言います。米国はそういう意味では、今は苦しいところにいるわけではありません。

 我々が米国の同盟国としてすべきことは、むしろ彼らを諌めることではないでしょうか。かつての敵に対して、その失点を喜ぶような人は了見が狭い。我々はかつての敵であったロシアとも、今ではある程度の友人です。また、ウクライナとの関係はそこまでは深くないけれど、同じ人間として国内の信頼が低下し破綻しゆく国家の不幸を見殺しにすべきではない。新冷戦、新冷戦とはやし立てるのでもなく、とにかく平和が大切だと思考停止するのでもなく、もう少し政情不安のウクライナの諸民族のためにできる最善のことを提案してはいかがでしょう。