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山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

維新ムーブメントの盛り上がりと、失速と、再盛り上がり?について

 日本維新の会の政策実現が曲がり角に来ています。維新ムーブメントの生誕地である大阪では、看板政策である大阪都構想が他政党の積極的及び消極的反対にあって停滞しているため出直し選挙が計画されています。他主要政党から有力な候補者が出てきそうにない中で、実質的な橋下市長の信任投票となると思われます。対抗馬がいない以上、民主主義のルールからすると必然的に信任が与えられたこととなるわけですが、選挙後も市議会の構成が変わらない中で、次の次の一手をどのように打っていくのか注目されます。また、中央政界では野党再編に向けた動きがソロソロとはじまっていますが、外交安全保障政策でよりリベラルな結いの党、より保守的なみんなの党の双方からアプローチを受け、野党再編の台風の目にもなっているようです。民主党の中で、保守的と言われるリーダーの幾人かとも、安倍総理をはじめとする自民党の一部とも関係があるようですので、憲法改正論議をはじめ重要政策の実現に向けてもその動きが注目されます。日本政治の今後を考える上で、改めて、維新とは何であるのか、その盛り上がりと、失速と、再びの盛り上がり(?)に何を見るのかについて考えてみたいと思います。

 橋下氏が大阪府知事として政界に登場した時点では、普通の有名人知事の誕生でした。若くして当選したという違いはあるにせよ、その登場を横山ノック府知事や青島東京都知事と区別すべき本質的理由はないように思えました。2008年当時は、大阪市の職員厚遇問題が盛んに報道され、景気はまだよかったもののリーマンショックに至る不安が高まりつつあった時期でしたので、アウトサイダーが得票しやすい環境が整っていました。当選後、橋下知事のわかりやすい弁舌と、複雑な問題を明確な対立軸に落とし込む手法が真価を発揮し、府民の高い支持を集めます。この時までは、しかし、期待以上のパフォーマンスを見せた異端者でしかなかった。外国メディアの論調も「焼印のない牛」という意味にも使われるMaverick(=一匹狼)という位置づけでした。橋下氏と維新を評価するエネルギーの源は反公務員という形の反エリート感情であり、大阪の地盤沈下へのフラストレーションであり、後には、決められない中央政界への不満です。橋下氏の言動のスタイルも、この反エスタブリッシュメント感情を掻き立てる上で非常に効果的でした。

 これまでも「民間」の感覚を持ち込んで行政の体質に挑戦した首長は存在しましたが、彼らのインパクトは長続きしなかった。日本の政治/行政の文化は、明治以来100年以上かけて築き上げられてきた岩盤であり、ちょっとやそっとの大波をぶつけても飛沫が飛び散る程度でした。維新ムーブメントが面白いのは、自分達の運動を一過性の波として終わらせるのではなく、組織能力の高さを見せつけたことです。大阪府大阪市の議会に一大勢力を築き、もろもろの理由から既存大政党の中に居場所がなくなった政治家達を引き付け、政治塾という形で新兵を募って国会に議席を確保します。既存政党の有力者と接触では、タイミングに応じて持ち上げてみたり、距離をとってみたりしながらそれぞれから譲歩を引き出してくる交渉巧者ぶりも見せます。この、組織能力の高さがこれまでの政治的な動きと大きく異なります。

 この反エスタブリッシュメント感情と、意外に高い組織能力が組み合わさることで維新エスタブリッシュメントにとって本当の脅威となります。維新が先の衆議院選挙の前後に、多少「失速」したように見受けられるのはエスタブリッシュメント側及びエスタブリッシュメントに寄り添うことを好む「上品な世論」の感情が逆噴射しているからです。国際政治学者という個人的な立場上、政・官・学・メディアのエスタブリッシュメントのど真ん中にいる方々に接する機会が多いのですが、彼らの反維新の感情は、憎しみと形容してもいいくらい激しいもので、ときにびっくりします。橋下氏にせよ石原氏にせよ強烈なキャラクターの持ち主ですので、接する人に強い好悪の感情を惹起するのは当然でしょうが、おそらく、直接維新関係者と触れ合ったことがないだろうと思われる方々にさえ、強烈な感情を呼び起こす魔力を持っているようです。

 維新は、中央政界に進出するにあたっては、外交/安全保障やエネルギーなどの重要課題に対して態度を明確にしなければなりませんでした。しかし、維新のキーパーソン達が自ら明言しているように、彼らはもともとこれらの分野に定見を持つ集団ではありません。結果として、彼らの支持基盤が評価しそうな政策、支持層のエネルギーを動員できそうな政策が選好されます。それは、原発推進路線の経産省に対する反原発の主張であり、日中/日韓友好路線の外務省に対する中韓への毅然とした姿勢です。政策の中身よりも、反エスタブリッシュメント感情に適う政策であることが重要ですので、原発や歴史問題など感情的に訴えやすい問題がクローズアップされる所以です。今後の展開如何では(現在どのような政策を掲げているかに関わらず)、例えば、反公共事業、反ODA、反移民、等の論点にも焦点が当たるのではないでしょうか。エスタブリッシュメント層は、これらの問題について国家百年の計で取り組んできたという自負がありますので、自分達の領分に素人集団が土足でずかずか上り込んでくることに我慢がならないのでしょう。

 維新ムーブメントが盛り上がったのも、失速したかのように語られるのも、反エスタブリッシュメント感情が源泉です。もちろん、エスタブリッシュメント側の指摘や批判の多くはあたっています。維新の掲げる政策の地方自治や中央と地方の関係に関する政策以外の部分は、何人かのブレーン達の作文以上のものではないでしょう。また、この指とまれ方式で募った維新の候補者や議員達は、よく言っても玉石混交で、どちらかと言えば玉よりも石が多い。人間の不満、怒り、嫉妬を刺激するスタイルや政策の多くが、「反○×」であることも、乱世にはそういうリーダーも必要だということを割り引いたとしても、気にはなります。

 しかし、私がより本質だと思う点は、維新が支持され続けているという現実です。「維新は終わった」という発言の主は多くの場合エスタブリッシュメントの側から来ていますし、出直し選挙で橋下氏の圧倒的勝利を予想しない人はいません。既存政党の、選挙の大義がないという主張はともかく、仮に大義があったとしても橋下氏に挑もうとする候補者すら見つからないのが現実でしょう。大阪都構想の政策としての筋の良し悪しや、維新国会議員団への評価を超えて、維新ムーブメントは本質的には失速しておらず、再び盛り上がりつつあります。維新が吸収し続けるエネルギーの根源に何があるかが重要なのですが、永田町や霞が関エスタブリッシュメント層は、橋下人気にあやかろうとはしても、その本質と向き合おうとしない。

 維新は、地方自治と中央と地方の関係以外の面では素人集団なのだとすると、彼らのこの部分を批判しても建設的でなく、むしろ、彼らの本丸の地方経営における成果に目を向けるべきです。そして、この分野には中央のメディアでは細かく報道されることは少ないけれども、見るべき点が多い。維新は、大阪府大阪市の放漫な財政を大幅に改善しました。火の車の財政を改善するためのコストカットには無慈悲な一律カット的要素も必要ですが、彼らはもっと本質に踏み込んでいます。例えば、行政の諸施策の評価については、(1)施策と事業の関係の明確化、(2)施策目的の達成度(成果)の数値化、(3)達成度による事業撤退判断のルール化が必要だと言っています。これは、新自由主義的な発想に基づき、先進的な組織では一般的になっているGood Governanceの諸原則を取り入れた動きです。アカウンタビリティーという概念は、日本語では説明責任と誤訳されてしまうのですが、政策の目標と、過程と結果のそれぞれにきちんと責任を持つという考え方であり、日本の行政にもっとも足りない部分です。他にも、維新は「トライ・アンド・エラー、エラー・アンド・トライアル」を標榜しており、日本の行政の「無謬性の原則」からからくる諸々のトンチンカンな結果にも挑戦しています。多数決の原理を強調するのも、日本の政治/行政が一部の少数既得権益層に事実上の拒否権を与えてきたことに対するアンチテーゼであり、時代の要請に適っています。

 彼らの看板政策である大阪都構想についても、まず、二重行政の無駄を解消したいということにはわかりやすい大義があります。都構想は、「成長は広域行政で、安心は基礎自治体行政で」をスローガンにしており、地盤沈下が止まらない都市としての大阪の地位の回復は集権制の高い都で行い、住民へのサービスはより分権化した区で行うという発想です。経営学がいうところの「組織は戦略に従う」の原則に照らせば、政策の中身があって、その後にそれを実行に移す組織の議論をすべきというのが筋論でしょう。しかし、民間にあっても、政府にあっても、改革のエネルギーというはわかりやすい組織変革に向かい、その後に徐々に本質的改革が行われるというのはよくあることです。都市間競争における大阪の地盤沈下は深刻であり、大阪市役所から飛び出してきた役人のやり口にはひどいものがありました。教育にせよ、医療にせよ、治安にせよ、大阪が種々の全国ランキングでも下位にあることも事実です。そして、維新が登場するまでの既存政党はそれらの問題に本質的な手を打てずにきたことも否定しにくい。

 都構想に対する自民党以下の既存政党の反論も本質を物語っていて面白い。例えば、「今の制度の中で、やれることをやってから改革すべき」というのは、あらゆる制度改革をつぶすために繰り返し用いられてきた万能の論法です。「新制度になって(住民に)不利益がないか証明すべき」というのも、不存在の証明=悪魔の証明を要求しており、無理を承知の難癖に近い。「都構想区割り案及び最終案の二回の住民投票」をすべきというのは、手続き論のハードルを上げることを目的にしており、議会における政党の政策調整機能の放棄でしょう。「道州制との整理が不十分」というのも、「財政調整制度等の詳細が不明確」というのも、もちろん、ごもっともという部分があるのですが、まず否定ありきで、その後に理屈を考えているという姿勢に見えてしまう。現状の課題がリアルであり、成果が上がるか確証はないが勝算はあるくらいの改革案が俎上にある中で、とにかく否定の一点張りということでは、現状に利益を見出しているのではと勘ぐられてもしょうがない面があります。

 どんな政党も政治集団も、国民と時代の本質的なニーズを満たしていない限りは一時の熱狂を超えて存在し続けることはできません。維新が汲み取っているニーズは、抽象的には日本の政治/行政におけるアカウンタビリティーの欠如への不満であり、既得権益に寄り掛かった政策判断であり、そうこうしているうちに日本そのものが地盤沈下していくことへの苛立ちです。思えば、小泉政権が支持を集めたのも、民主党政権交代できたのも、この不満のエネルギーを吸収することに成功したからです。以前私は、日本政治は保守系の二大政党によって担われるべきと申し上げました。その意味では、維新の挑戦は自民党安倍政権へのもっとも本質的な脅威です。維新ムーブメントの核心を担う人材は、自民党にあって、そのあり方に絶望した人々です。自民党がその脅威に打ち勝つ方法は、かつての自民党が幾度も成功させてきた方法であり、維新の政策を率先して実行することで、その大義を奪うことです。