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山猫日記

国際政治学者、三浦瑠麗のブログです

地方経営における共感と想像力―日本維新の会が回帰すべき方向

 先日の日経新聞に、日本の特に地方部の人口動態について興味深い記事がありました。現在のトレンドで推移すると日本の多くの地方は人口がどんどん減っていき、共同体として存立し続けることが難しくなるという、とても深刻な内容でした。株価、為替、成長率等の予想数字と違って、人口予測については出生率や死亡率が数%以上ずれることはほとんどありませんので、ほぼ確実に当たるという意味でさらに深刻だと感じました。

  ただ、本日取り上げたいのはその予測そのものではなくて、当該レポートの作成を主導された増田寛也岩手県知事・元総務大臣東京大学公共政策大学院客員教授)が日経の取材に対して寄せたコメントについてです。当該レポートでは、人口増加を考える上で重要なのは、妊娠適齢期の女性がどれだけ存在するかであるということを強調されています。そのことを念頭に元知事は地方の人口が健全に推移するためには、「若い女性を地方から東京に出さないようにしなければならない」と総括していらっしゃいました。直感的に感じたのは、この方は、自由主義や、個人の選択ということについてどんな感覚をお持ちなのだろうかということです。「出さないようにしなければならない」と言われた若い女性が、どのように感じるかについて考えたことがあるのでしょうか?どんなに好意的に捉えても「余計なお世話」ですし、女性がどこに住み、子供を生むかどうかというこれ以上ないパーソナルな判断を誰かがコントロールしようとしているという感覚はなんとも寒々しいものに思えます。まさに、女性を「産む機械」として捉えた発言であり、数年前に問題になった柳澤伯夫元厚労大臣と同根だなと感じて暗澹たる気分になりました。

 この二つの発言には、共通する二重の悲劇性があるような気がします。一つは、柳澤元大臣にせよ、増田元知事にせよ、一般的に改革派であり、良心派であると認識されている方であるということです。「生む機械」発言の折も、国民として大切にすべき良心的な政治家の発言の「揚げ足」をとって糾弾しては、かえって個人の自由や女性の権利という大義のために良くないという声も聞かれました。一見、もっともそうに聞こえる意見ではありますが、そこに二つ目の、より本質的な悲劇があるのではないでしょうか。つまり、先進的であり開明的だといわれるリーダーでさえ、自分とは違う集団(=ここでは女性)に対し共感を持つことがいかに難しいか、ということです。

 人口問題を科学的に捉えることは当然必要ですので、純粋なファクト(=事実)とロジック(=論理)を否定したいということではありません。例えば、「出生率2.2を下回ると現状の人口を維持できない」という科学的命題に対して自由を害されたと感じる向きは少ないと思います。けれど、女性を産む機械にたとえた上で、機械一台あたりの生産性について云々するのはまったく別です。人口問題において重要なのは出生率と死亡率です。仮に、科学的に事実であったとしても、責任ある立場のリーダーが「日本の少子高齢化の進捗を緩めるには、もう少し老人に早く死んでもらわないといけない」と発言することはありえない。それが人間性に反することが一目瞭然だからです。我々は、誰しもが老い、死にゆく定めにありますので、共感することができる。まだ、若ければ自分のこととしてではなくとも、父母や祖父母のこととして共感できるということでしょう。良心的なリーダーさえもが、女性の自由について共感できないということに絶望感を覚えざるを得ません。「生む機械」という発言がうっかり出るということは、残念ながら共感の欠如という本質を示しているのです。

 日本の地方経営は、しかし、そのようなリーダー達によって担われています。複雑に積み重ねられた仕組みを統治の名の下に操るプロたちー例えば旧自治官僚は地方の利益代表であると認識されているものの、それは自分たちのコントロールが効く限りにおいてということ。もちろん彼らにだって共感を寄せる対象はあると思います。中央から地方のリーダーに転進された方には、その地方の出身者が多いし、彼らは一様に故郷を何とかしたい、元気にしたいとおっしゃる。彼らが共感を寄せやすい対象として、商店街があり、地場産業があり、医療や介護の現場がある。そして、地方の生活の中核をなすそうした集団や団体を守るために、女性には「生んでもらわないといけない」となる。個人の自由と幸福を持続させるためにこうした集団や団体が重要なのであって、逆ではないはずなのに。

 私は、男性のリーダーは女性の立場に共感できないということを言いたいのではありません。最近の、いわゆる女性の保守論客の中には、自らは仕事と子育てを両立した経験を持ちながら、ワーキングマザーをあしざまに言う方もいらっしゃいます。自らの恵まれた出自の特殊性を棚に上げ、隣人への共感が持てないらしい。悲しいことです。

 戦後の日本の地方経営には誇るべき成果も多いけれど、著しい想像力の欠如があります。他の先進国と比較して、日本の地方は近年まで貧しかったし、インフラの整備も不十分でした。日本国民として最低限の文化的で健康的な生活を保障することも重要でした。しかし、1964年の東京オリンピックの頃には、地方都市間の人口移動が進行すれば地方経営が立ち行かなくなることは見えていたはずなのに、地方の自立はまったく改善していません。公共事業というモルヒネを打ち続けても自立にはつながらないことは、皆わかっているのに、ある種の福祉政策と強弁して地方経済を支え続けた。多様性に満ちた歴史を持ちながら日本の地方はどこに言っても画一的な町並みが広がり、少しずつ違う特産品を似たようなセンスで売っています。そして、2000年以降、日本全体の経済資源の限界から公共工事をはじめとする地方への分配を減らさざるを得なくなると、その分だけ貧しくなってしまう。景気が多少良くなると、もともと不均衡に大きくなっていた建設業の担い手が足りないとして右往左往する。

 私は、日本国民がその不毛さに気づいていなかったとは思わない。けれど、ではなぜ支持を続けたのでしょうか。それは、これらのリーダー達が曲りなりにも共感を語ったからだと思います。地方の疲弊が深刻化すればするほど、その現状を打開する能力があるかどうか別にして、そこに共感を寄せるリーダーが支持される。そんな構図を繰り返してきたような気がします。維新の橋下代表は、そんな中ちょっと毛色の違うリーダーとして地方経営の舞台に登場します。

 地方経営の推進者としての日本維新の会には、現状を打開できるかもしれないという期待値がありました。橋下代表がわかりやすく、地方公務員の無駄と無策を攻撃する有り様は一種の政治的なカタルシス(=高揚感)を呼び起こします。反エリートの怒りのエネルギーは、次元の高いものかどうかは別にして、共感の形態として強いものがあります。先日来話題の大阪市長の出直し選挙は、東京の大手メディア、主要政党幹部から総スカンの評価です。全国政党としての維新には、正直、有象無象の方々も集まっておられるし、なにやらマッチョな雰囲気も漂っていて好き嫌いはあるでしょう。橋下代表は、党大会の演説で、維新での活動は政党を維持するためでも、議員の地位を維持するためでもないとおっしゃった。毛色が違うだけのリーダーではなく、有象無象を引き寄せるカリスマというだけでもなく、地方経営の現状を打破する共感と想像力を持てたならば、真に「維新」の名に値する政治運動となるのではないでしょうか。

 次回以降、東京ではあまり報道されることのない、大阪維新の現場で何が起こっているのかについてもご紹介していきたいと思います。