山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

日本の右傾化?(2)―籾井NHK会長発言、安倍総理ダボス会見など

 前回のエントリーで、盛んに喧伝される「日本の右傾化」の本質は、戦後のリベラル系メディアが社会的な踏絵を迫ってきたことに対する、反左派的な気分であると申し上げました。加えて、実際の政策において日本の戦後リベラリズムは、国民の幅広いコンセンサスの下に盤石で、歴史認識問題が突出して不満のはけ口となっていること、そして、メディアや識者がそこに飛びついている状況について指摘しました。その後、多くの賛同と、多くの反対をいただきました。「山猫日記」は、日本と世界の幅広い課題について問題提起をすることを目的にしておりますので、筆者としてはうれしい限りですが、舌足らずの部分もあったかと思いますので、直近の事例を基に補足させていただきます。

  NHKの籾井新会長の従軍慰安婦を巡る発言が一部メディアにおいて問題とされています。公共放送のトップとして政治的中立性が求められる中で、不適切な発言であると。そもそも、「政治的中立」の中身ははっきりしません。もう少し、リベラルな、例えば、従軍慰安婦を巡る問題ならば「河野談話」に沿ったような発言をすれば中立性のテストに合格できたのでしょうか?それもおかしな気がします。仮に、政治的に中立というものが存在するのだとすれば、それはなんらかの「特定の意見」に収斂することではなく、幅広い意見を紹介することでしかありえない。民主主義が内在的に有している競争的側面を、あまり戦闘的に解釈するのは日本人の国民性に合わないのかもしれないけれど、なんとなく予定調和な報道だけでなく、対立する意見の存在を意識した報道にも意味があるような気がします。

 籾井氏は「放送法を守る」ということと、「個人的な意見」であることを繰り返し強調しています。これは、自分がどんな意見を持っているかに関わらず、公共放送の中立性を守るというプロ意識の表明でしょうから、それでもこの発言が問題になるのだとすれば、特定の思想を持った人間を糾弾することに他なりません。そもそも、就任の会見においてそのような質問がなされること自体が典型的な「踏絵」です。就任会見で思想チェックの「踏絵」を踏まされ、批判された人が、その後リベラルな勢力に対して、どれほどの恨みを抱いて生きていくことになるか、人間性に対する多少の洞察があればわかるのではないでしょうか。

 私は、国際政治を研究する者として、従軍慰安婦の歴史的な実態を巡って争われている論争もそれなりにフォローしてきましたし、具体的な元慰安婦の方の証言を読むことで、女性として憤りを覚えることもあります。だから、籾井氏の発言には賛成できないところも多い。この問題は、そもそもどのような歴史的実態があったのか、その歴史をどのように記憶し再生産すべきか、その責任を後世の人間がどこまで負うべきか、戦後の人間の一つの知恵である一括賠償という仕組みをどのように捉えるべきか、などなど難しい論点を多く含んでいます。加えて言えば、形はどうあれ実際に存在した過去の性暴力、性搾取への姿勢を通じて、現代の問題とも響き合っている部分がある。例えば、日本社会は長らくDVの扱いに及び腰でした。それは、「法は家庭に入らず」の原則に盲目に従って、具体的な女性の苦しみに鈍感だったという部分もあったのだと思います。しかし、だからこそ、多様な広がりを持った問題に、善悪二元論的な踏絵を迫ることは生産的でないばかりか、不必要な不信と敵意とを醸成することで本来のリベラリズムの理想にも反しているように思えてなりません。

 これと対照をなす意味で言及したいのが、同じくNHKの経営委員の長谷川三千子氏による、女性に社会進出を促す男女雇用機会均等法の思想は個人の生き方への干渉だと批判し、政府に対し「誤りを反省して方向を転ずべき」との意見です。もちろん、彼女がご自分なりの意見をお持ちなのは結構なことですし、男女雇用機会均等法は戦後リベラリズムの一つの金字塔として盤石ですので、キワモノのおばさんの意見として無視すればいいのだと思います。加えて、実態は今後判断する必要があるものの、安倍政権成長戦略の大きな柱として女性の社会進出を掲げており、長谷川委員の立場とは全く異なることも指摘しておく必要があるでしょう。ただし、万が一、長谷川委員のような立場が勢いをもち、国民の権利であるところの均等法の趣旨をないがしろにするような動きがあった時には、それこそ、いざ鎌倉!ということで、リベラル勢力の結集と総攻撃を期待したいところです。

 最後に取り上げるのが、安倍総理が現在の日中関係第一次大戦前の英独関係に例えたと報道されている点です。こちらについては、その後、政府から発言の趣旨について釈明と補足説明が出されています。発言の趣旨は、大戦前夜の欧州では経済的相互依存が進んでいたにもかかわらず戦争となったのだから、日中間でも経済相互依存に胡坐をかかずに現在の平和の維持に向けて努力すべき、ということのようです。実際の発言のニュアンスはわかりませんが、仮に、補足説明のとおりであるとすると非常に重要な点を指摘しており、ある意味「よく勉強された意見」ではないかと思います。安倍総理の発言を、私からすると多少意地悪く切り取った印象のファイナンシャルタイムズは、直近の記事で経済成長や経済の相互依存がすべての問題を解決するわけではない、とのオピニオンを掲げており、普通に見れば首相の意見と同趣旨です。

 もちろん、今回の安倍総理の発言への反応は、もともと総理に向けられていたナショナリストという懸念を裏書きしたものとして大きな反響を呼んだものです。「金槌を持っている人はすべてのものが釘に見える」の格言のとおりです。海外の識者の多くは、あからさまな悪意も含めて、安倍総理は危険なナショナリストであるという金槌を持っていますので、彼の言動がすべて釘=危険に見えてしまう。私の外国人の友人にも、「現在の日本の政権は主要国のどの政権と比べても右だ、極右だ」という誤認があるようです。前回のエントリーでも指摘したとおり、最近の米政権の中では相当リベラルな部類のオバマ政権でさえ、日本の政治文化から考えれば相当右です。経済における貧富の格差や、アフガニスタンでの戦争、最近話題の国家機密を巡る考え方などなど、例を挙げればきりがない。繰り返しますが、それは日米間で左右対立の中心線が全く違うところに引かれているからです。

 安倍総理にせよ、籾井会長にせよ、そういう批判が起きることは予想できるだろうから脇が甘い、という批判は成り立つでしょう。しかし、本ブログが何度も強調するように、人々の価値観の問題である歴史認識を、「そんなことを言ったら損するからやめておこう」、という功利主義の観点だけから抑制することには限界があります。人間は損得だけで生きているわけではないし、右傾化と指摘される言動の根っこには、功利主義を理由にものごとを進めてきた日本のエスタブリッシュメントへの反発があると思うからです。

 仮に、歴史認識の問題に解があるとするならば、相手の立場に立って歴史を見ることができるかどうかでしょう。歴史には、必然的に視点があり、その視点は往々にして自分達と他者を分かつものです。そして、自分達の歴史を大切にし、そこに、愛も誇りも感じながら、他者の視点も受け入れることは、他者の苦しみに共感することでしかありえない。それは、猛々しくはないけれど、静かな、凛とした人間としての強さです。

 日本を非常によく理解する外国人であるビル・エモット氏は、最近の日本の傾向にある種の弱さを嗅ぎとっている。(⇒世界が憂う「アベノミクス」の行方:日経ビジネスオンライン

 日本の右傾化を巡る批判の多くは、いたずらに分断と対立を作り出そうとしているか、あるいは、偏見に基づく誤認であると思うけれど、この一点には真摯に耳を傾けるべきと感じました。