山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

弱者認識の奪い合い(1)―総理の靖国参拝に考える

 昨年暮れの総理の靖国神社参拝は多くの識者が分析されているように、参拝から生じるであろう負の側面を最小化するタイミングで行われたように思います。参拝時期がマスコミ関係者の多くが実質的に休暇モードに入っているタイミングにあり、予め準備された特番や紙面編成に入り込む余地が少なかった結果、いったんは鎮静化したようにも見えます。もちろん、本年の内政課題や、厳しさを増すと思われる中韓との外交関係と絡み合って、2014年を通じてじわじわと意識されるテーマにはなるでしょう。

 マスコミの論調でいくと、5大紙では、産経が好意的、読売は中間的な立場で、朝日・毎日・日経が否定的に取り上げていました。Web上の論調は、もちろん各論者の色分けに応じて千差万別ですが、参拝反対の論調の多くは、①外交関係の悪化-特に対中韓だけでなく対米国や国際社会での立場を弱めたことへの懸念、②デフレ脱却、経済強化に集中すべき中で無用の雑音への懸念、③そもそも保守的性向を有する首相個人及び現政権が有する歴史観、国家観への嫌悪感に大別されるように思います。もちろん、靖国参拝が内在的に有している政教分離の問題等を従前どおり指摘している論考もあり、引き続き重要な視点を提供しているように思います。

 さて、私は、靖国問題を①の外交関係や、②経済・景気の視点からだけらえることは、その本質を見誤るのではないかと思っています。外交関係から、あるいは経済・景気からの視点は、基本的には功利主義的な立場(靖国総理が参拝することが日本にとって得にならない)です。反対に、靖国参拝を積極的にとらえる立場は、基本的には思想信条の問題です。総理の参拝を受けて、特に、経済人のコメントの中には、思想信条の問題にはコメントせず、功利主義の観点から懸念を表明するというものもあり、このあたりが意識されているように思います。戦後、特に80年代以降でしょうか、日本のエスタブリッシュメント自民党の主流派、官僚機構、一部メディア)は、思想信条はいったん脇において、功利主義を前面にたててこの問題と向き合ってきました。過去、靖国参拝に積極的だった中曽根総理、橋本総理等は思想信条としては靖国参拝を一貫して肯定していたにもかかわらず、功利主義の観点から矛を収め、落としどころを探ろうとしました。

 思想信条の問題を功利主義の観点から解こうとすることは、いわゆるリアリスト的な思考に基づくプロの論理です。対して、靖国神社を総理が参拝することを好意的にとらえることは、政治家個人、ひいてはその政治家を選んでいる国民の思想信条を優先するアマの選好です。ここ数年、この二つの政治力学の間の重心が変化しているように思います。その変化を指して、日本の右傾化を指摘する論者も多い。ただ、より影響が大きいのは、プロの論理を繰り出す、プロそのものへの信頼感の喪失ではないかと思います。小泉総理は類まれな政治的嗅覚に恵まれた政治家でしたので、敏感にそのあたりを感じ取って、プロの論理よりもアマの選好を重視して政権の最後まで靖国参拝を続けたのではないでしょうか。小泉総理の「靖国神社参拝をやめて日中関係、日韓関係は良くなったか」という少々乱暴な、それでいてズバリと本質を突いた指摘は、国民の多くの認識と合致しているように思います。

 幸いにも、戦後の日本には、数としてはごく一部の殉職者を除いて、新たな戦死者はいないわけで、新たに靖国神社に個人的なつながりが生じた人はほとんどいないはずです。とすれば、靖国神社は、自分たちの国のために命をささげた軍人・軍属を敬い、自分たちの国の歴史を好意的にとらえたいという心情の象徴であり、今現在、国のために一定の危険を承知で働いている自衛隊員に代表される方々の生き方への尊敬の念の象徴となっているのだと思います。それはまた、功利主義を前提とする資本主義の論理から逃れたいという金融危機以後に各国共通で広がっている姿勢とも呼応しているように思います。

 ところが、参拝に賛成する立場における問題は、国内における正義が国際関係でも認められるべきだと考えていて、しかも国内における正義はただ一つであると考えている傾向にあります。私が違和感を感じるのは、このような参拝賛成の立場に見受けられる、アメリカを説得し、参拝は決して危険な行為ではないということを分からせようというキャンペーンは、ナイーブすぎるのではないかということです。

 国際関係において、戦争が起こるほどの対立は、実は稀なことです。核ミサイルを相手に突きつけあっている相互核抑止の方が、歴史的な怨恨や敗戦した攻撃国に向けられる非難より、ある意味ではよっぽど過激なことです。東アジアにおける歴史問題は、国境紛争や宗教的シンボルたる聖地管理をめぐる争いなどとは違って、日本と中韓が戦争を構えるに至るようなたぐいの話ではない。もちろん、相手が感情を害するかどうかとは別に。

 加えていえば、アメリカだって日本は第二次世界大戦の交戦国なわけだから、客観的な判者に仕立てようとしても無理です。しかも今のオバマ政権は、力を失っているばかりか、外交政策を国内問題と政争が凌駕している状況だということも見てとらなければ、見誤ります。

 世界は摩擦に満ちており、互いへの無理解と反感は当分なくなりそうにない。だからこそ、私たちは自分の立場を相手に分かってもらおうというナイーブさをある程度あきらめなければならないのです。今ここにあるのは、戦争が起こりそうにないと感じられているからこそ東アジアの人々が互いに摩擦を高めようとしている現状であり、それは望ましくはないかもしれないけれど、当分付き合っていかなければならないリアリティであると言えます。

 違和感というよりももっと深いレベルの話でいえば、私たちは死者をどのように悼むかということに加え、国家が動員して戦争を遂行させる兵士をどのように扱うかということに対して、ずっと目をつむってきたのだといってもよいでしょう。それは「目を開け」れば、すぐに現況の靖国神社のあり方と公式参拝が正当化されるということではなくて、ここまで普通に文中に出してきた「私たち」とは何なのか、を再び問うことが必要だということです。それも、同化政策や社会的な晒しものとしての厳罰などの苛烈なやり方ではなく、日本的な曖昧さ、ないし甘さの中で、でも最低限、あの戦争を導いた要素や、愚かしい判断が下された理由を問うていくことであり、同時に加害者でもあり被害者でもある兵士や国民の姿を曇りなき眼で見るということです。

 今の社会における論調を見る限り、右から左まで、まるで日本には弱者しかいなかったがごとき状況です。当たり前といえば当たり前かもしれないけれど、戦中の嫌われ者の代表格としての憲兵は、一向に自分が同朋を虐待しましたと反省して名乗り出る傾向にはないでしょう。

 さて、2013年を通じ、海外のメディアは橋下市長による歴史問題関連の一連の発言が引き起こした反応の余波もあり、保守政治家率いる自民党の大勝を日本の右傾化を示すものとして取り上げてきました。外交問題の専門家は、デフレ脱却・財政健全化政策の方を優先するならばよいが、総理の長年の懸案である憲法改正や、広く日本の誇りの回復を優先するならば中韓のみならず、親密な日米関係さえ危ういだろうと警鐘を鳴らしています。

 もちろん、こうした外交・国際政治の側からの懸念には、常に国内から反発が寄せられる運命にあります。一番大事なのは自らの意志であり、他人の意見ではないと。それに内政上の論点は民主的に決定すべきだというのに、外交だけをプロの世界にとどめ置いて特別扱いすることには疑念が付されてもおかしくはない。誇りには自己評価だけでなく、他者からの評価も影響するのだから、海外の日本に対する評価は関係ないとまでは言えないが、敗戦以後、人目を気にしてきた日本人の心の奥底に、自分の意見を持ちたいという欲望があることは否定できないでしょう。

 肝心なのは、表面上歴史問題や外交問題として表れてはいても、今の日本人が意見を表明したいと考えていることの核心は、国内における自らの信条や利益の擁護であり、自らの国内における敵と戦っているという点です。戦後、メディアを中心としたリベラルな勢力は、右派的な傾向を秘めた政治家に対して、靖国に参拝するかしないか、歴史認識はどうなのか、という踏み絵を迫ってきました。それによって、リベラルが大勢を占めていた戦後日本社会において、明らかな右派を排斥し、マージナライズすることができたのです。ところが、それによって日本社会は右派を弱者の側に追いやってしまった。今の日本における右派は、リベラルな支配的勢力が作り出したものであるとさえ言ってもよいでしょう。そして、いま日本国民は安倍晋三さんという方の歴史認識や保守的な人となりをよく理解したうえで、二回にわたって総理に選んだ。こうして、思想的には決して本流を占めてこられなかったが、国民に選ばれた保守派は、長い間、弱者としてマージナライズされてきたことに対する「倍返し」的な気分で国内の敵と戦っているのです。こうした国内問題の分析なしに外交上の問題だけを分析しても、指導者の資質手腕や国民の右傾化といった一面的な理解にしか到達しえない。

 私が今の日本に感じるのは、自らが弱者であると認識する人々による、弱者の論理の奪い合い。日本はよく同質的な社会だと言われるけれど、実際には閉じた会社組織や地方色が多元的に存在し、小宇宙が点在しているような社会です。組織文化を守るという意味では共通の性質をもってはいても、それぞれの組織が交わることは少ない。そこにおいて、全国政党が競い合い、全国ネットのテレビ放送が存在し、中央集権的なカネの流れがあるというのが、今の日本の実態です。そこで、国内の利益やアジェンダを持つ人々は、「一面に載る」権利を求めて声を大にして自分たちこそが弱者であると発信してきました。でも、弱者であると自らを認識することは、国内闘争を呼び起こし、また全体の立場に立たないことを意味している。

 弱者ばかりの社会をもっと建設的な方向を向いた社会に変えるための方策ってなんだろうか。そんなことを思った年末年始でした。次回は、右派が弱者となった戦後日本の姿を考えてみます。

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