山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

コンパッションの思想

 三浦瑠麗(みうら るり)です。ブログ開設に当たり、読者の方々の参考と、自分の頭の整理のために、自分の思想のキーワードが何かを考えてみました。

 思想というと少々大袈裟だし、日々の出来事やニュースの中で感じることはそれぞれの特殊な状況を含んでいて、自分自身の考え方も当然揺れ動くのだけれど、一つ選ぶとするとコンパッションということかなと思います。辞書を引くと、哀れみ、思いやり、同情と訳されたり、共感という使われ方もするようですが、日本語にするとちょっとニュアンスが違います。哀れみや思いやりというように、他者の立場にたって感じることではありつつも、寄り添って同情するだけではなく、そのうえで、もう少し大きな全体最適に向けて考えるというか。実践しようとすると、共感というより、もう少し激しくて熱いもの、マザー・テレサや宗教家だったらそれを「愛」と呼ぶかもしれないけれど、絶対者の助けがない私は、時に揺れ動くので、コンパッションというのがしっくりくる。もともとのラテン語の意味の、「Con=共に、Pati=苦しむ」ということがやっぱり近いのかもしれません。新しいとは思わないけれど、実践するのは難しい立場です。

 ものを考えたり、書いたりすることを仕事にしている者として、時代認識ということもよく考えます。人間がどんなことを考えてきたかを文字にして、記録にとるようになって何千年かたって、日本という国でも千何百年かたったわけで、昔の人間の書いたものを読むことができるけれど、つくづく感じることは人間は変わらないということ。だからと言って、乱暴に政治的に分類してしまって、人間は変わらなくて良い=保守、ということではないし、人間は変わるべきで、進歩する=リベラルというのが無駄だということではない。政治的には、そこに時代性というものがあって、その時代の変えるべきこと、不正をただしたり、弱者に手を差し伸べたりすることはとても重要で、それそのものが繰り返されてきたということだと思います。思想的にも、真新しい課題というのはほとんどなくて、人間が繰り返し苦しんできた問題を時代の言葉で語るということだと思います。国際政治学者として、核兵器についてはよく考えるし、東日本大震災を経たわれわれ日本人は原子力についていろいろと考えさせられることが多い。原子力はテクノロジーとしては、人間がこれまで経験してこなかったレベルの課題だけれど、政治的、思想的な構造は、過去にも経験されてきた課題との類似点も多いということです。

 保守とリベラルという言葉も出したので、このあたりの立場を整理をしておくと、大事なのはコンパッションだと思っているので、いろんなものを二項対立に当てはめて、反対陣営を悪しざまにいう姿勢そのものに抵抗感があります。そのうえで、でも、話し合えばなんでも共感できるとも思わない。人間はそれぞれの出自を抱え、立場と利益を抱えて生きているわけで、最後まで妥協できないこと、合意に至らないことは当然存在する。だから、一定の価値観と政治信条をもった集団をグルーピングすること自体は意味のないことではないでしょう。特に、政党のように一定の集団がまとまって行動することそのものに存在意義がある場合はなおさらです。ただし、書くことを生業にする者となると話はもうちょっとだけ複雑にならないといけないはず。

 私は、例えば個人の趣味の問題としてはとっても保守的なんだと思います。新春ということで、今年も着物で初詣に行ったり、おせちを食べたりしたけれど、今年は自分で黒豆を煮なかったことにじくじくした、罪悪感にも似た感覚があります。何品ものごちそうをつくって家族をもてなす母に育てられ、自分自身、妻として、母として求められる生き方を意識してしまう。日本の文学なり思想なりの源流をたどってみると、一流の書き手の多くは女性ではあったはずなのだけれど、今の時代性の中では、ポジショニングがなかなか難しい。現在の日本は、かつて総理もなさった政治家の「日本女性には大いに活躍してほしい・・・特に茶道や華道の分野で」という趣旨の発言が別段問題にならない国です。でもこの発言によって、どれだけの人が疎外感を覚えたでしょうか。

 自分が保守的な趣味を持っているからと言って、他の人も保守的な考え方を持つべきだとはまったく思いません。昨年末の総理の靖国参拝についても、民主主義と戦争の関係性を研究してきた者としては、兵士への何らかの慰霊ということは当然必要だと思っていますし、桜の名所でもある都心のあの空間にはある種の美しさがあると思います。けれど、そこに抵抗感を覚える人がいるのは分かるし、多くの国民を疎外し、国民に分断を引き起こすことを承知の上で総理が参拝することに違和感はあるので、政治的にはごくリベラルなのだと思います。

 現代という時代性の中での重要な対抗軸には、保守とリベラル、生産と分配、グローバルと伝統、同盟と独立、官僚と民主主義、東京と地方、高齢者と若者、男性と女性、などといろいろなものがあるけれど、やっぱりそれを貫くホンモノとニセモノがあるのだと思う。ホンモノの保守は、国民の統合とか一体感とかを重要視するはずなのに、自分たちの主張に夢中で多くの国民に違和感を抱かせてこの国に分断を作ってしまっています。ホンモノのリベラルは、真の弱者に寄り添って彼らにこそ自由と自己実現が得られる環境を整備すべきなのに、自分たちの陣地を守ることに汲々とする。それぞれ、立場があってのこととは思うけれど、ホンモノにだけ備わっている、共に苦しむ感覚が足りなくはないかと思ってしまいます。

 

 当ブログでは、私が見聞きしたホンモノだと思うものをご紹介するととともに、自分自身が感じたことを綴らせていただきます。