山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

維新運動は何に敗れたのか?

大阪都構想の実現を目指す2回目の住民投票が終わりました。結果は、5年前とほぼ同じで、僅差の否決。住民を巻き込んだ10年越しのチャレンジは何に敗れたのか。地方自治のあり方や、政界の構図を揺さぶった維新運動はどうなるのか。改めて考えたいと思います。

維新運動の創始者であり、5年前の都構想の住民投票に敗れたことで政界を去った橋下徹氏は、一夜明けた報道番組において市民の「変化することへの不安」に敗れたのだと総括しました。そのとおりでしょう。前回からは多少傾向が和らいだものの、20~50代の現役世代は賛成が過半、60代から反対が多数となり70代以上では6割以上が都構想に反対票を投じました。高齢者を中心に、有権者の多くがもっている「そこそこの生活を維持したい」という思いの前に、改革は挫折したのでした。

有権者の多くは、広域行政の下での成長戦略のあり方についても、大阪の国際的な競争力にも、関心はありません。子供や孫の世代の、生活や財政に責任を感じている方も、ひょっとすると少数派かもしれない。さらに残酷なことを言えば、現在の大阪は既に一地方都市に過ぎないという部分がある。成長、チャレンジ、国際競争力に関心のある層のどれだけが大阪に留まっているのかという現実があるわけです。

維新が大阪に投入した改革の熱量は、日本の地方自治にかつてなかったものでした。しかし結果から言えば、その熱量さえがこの国に変化を起こすには十分ではなかった。この国の高齢化に伴う硬直化はそこまで進行しているのです。

維新運動は、大阪市役所に巣食う公務員利権への反発に起源をもつ政治運動です。この間、大阪市長選、大阪府知事選で連勝し、市議会議員選挙、府議会議員選挙においても第一党となるなど、反利権と改革姿勢を旗印に支持を集めてきました。ただ、首長選挙や代議員選挙において見せた強さを住民投票では発揮できなかった。現状の枠組みの中で行政が改善されることは支持しても、より構造的な変化には抵抗を覚えたのです。

直接民主制の危うさ

そこからは、民主主義の弱点と住民投票という手法の限界も見えてきます。現代の民主主義に限らず、ある集団が意思決定をするために必要な条件は、利害関係者が十分な情報をもって判断できることでしょう。

ただし、この種の条件が満たされていることを判断することは現実的には難しい。結果、多くの国では一人一票の原則によって代表者を選び、その代表者が意思決定を下すという方法が取られています。それが、議会制民主主義の核心であり、もっともマシな制度であるとされているのです。今回は、その原則から逸脱して住民投票という方法が採用されました。そこには、都構想という構造を超えた問題があります。

例えば、今回の有権者大阪市民に限られました。大阪市民ではない大阪府民は意思決定の対象とされなかったわけです。大阪府民は都構想に賛成が強いことは既知のことですから、この点は選挙戦略上の論点でもあるし、利害関係者の集団にどこまでを含めるべきかという倫理的な問いでもあります。選挙戦では、堂々と大阪市自治体としての既得権を維持すべきかどうかが問われましたが、メディアも識者もその点を正面から問題視する風はありませんでした。

さらに、長期的な意思決定において一票の価値は平等であるべきなのでしょうか。今後50年を左右する問題に対して、70歳の有権者と20歳の有権者の投票価値は平等であるべきでしょうか。大阪の中長期的な未来に大きな影響を受けるはずの子供は選挙権すら与えられていません。実は、現在正当とされている民主主義は、世代間による利害対立を乗り越える術を持たないのです。この構造は、社会保障問題にも、気候変動問題にも存在します。

 そもそも、行政機構の変更という複雑な問題を単純な賛成/反対という投票に集約すべきかという問題もあります。意思決定を下す大衆が、現実の問題として適切な判断を行うだけの情報を入手することは可能なのかという問題があるからです。現に、選挙戦の終盤に行われた財政に関する毎日新聞などの報道に一定数の有権者が影響を受けた可能性が高い。

複雑な問題を単純な判断に集約し、誤情報が流れる状況も阻止できず、しかも、結果は一発で決まる。重要な判断であればあるほど、そんな方法論に委ねるべきなのかという疑問がわくでしょう。永田町では、維新運動に同情的な人々の間でも住民投票という方法論に疑問を持っている方が少なくありません。

維新運動の存在意義

維新運動の典型的な批判者は、彼らをポピュリズムと断じがちです。維新運動とは、その名から明らかなように構造的な変化を標榜する部分があります。その指導者達は、選挙をしばしば「けんか」や「戦い」に例えます。そこには、「平時の革命」を目指す思想があるのだと思います。そして、戦いである以上勝つことそのものに正義が宿る。5年前の橋下氏もそうであったし、今回の松井氏もそうであったけど、彼らは敗戦において実に清々しい顔をしている。

役所を中心に存在していた既得権の跋扈への怒りをエネルギーに変え、大阪の停滞の核心には府と市の二重行政があると喝破して10年越しの改革を提起したにも関わらず、彼らは敗れた。大阪市の行政機構につらなる既得権を維持したい人々と、地名への親しみや、手続きのめんどくささといった理由に敗れたわけです。それでも、維新運動の特質から言って民意は絶対であり、敗北にも不思議な清々しさが伴う。それはリーダー達の個人的な美学でもあるだろうけれど、自民党には決してないアマチュアリズムなのだろうと思います。

政治は短距離走ではありません。実は、マラソンですらありません。永遠と続く駅伝のようなものです。決して止まることなく、永遠と襷をつないでいかなければならない。統治とはそういうものです。維新運動には、平時の革命勢力としての側面と、大阪において10年以上にわたって統治を担ってきたという二面性があります。個人的には、後者の改革を志向する統治者としての側面がより強くなってほしいと思っています。

端的に言えば、維新運動の歴史的意義は、改革への熱量と統治の実績を両立させてきたことです。もちろん、不満がないわけではありません。改革への熱量が妙にマッチョで内向きなヒロイズムと結び付いているような事例には鼻白むこともあります。世界は改革の事例が満ちているし、未来を生きる世代が直面するのも世界です。明治維新の志士たちがすぐに悟ったように、内向きの情熱だけで解ける問題なんてほとんどないのですから。そして、「男の美学」を超える多様性の信奉者となる文化を育んでほしいと思います。

2009年の政権交代と、2012年の自民党の政権復帰を経た日本政治は55年体制へと逆戻りしてしまったように停滞しています。自民党は漸進主義で、野党は少数者を代表することに満足してしまっている。そんな政治空間であるからこそ、自由と、成長と、独立を正面から主張する政党の存在意義は大きいと思っています。大阪を愛するのであれば、元の利権とイデオロギーが渦巻く大きな田舎に戻して良いはずがありません。日本を愛するのであれば、このまま座して衰退を受け入れることが良いはずがない。

日本の抱える問題は、すこぶる深刻であって、一発逆転はありません。グレートリセットも、ゼロクリアもない。あるのは、永遠とつづく統治の駅伝です。しかも、日本が直面する課題は多様です。デジタル化を進めて、20年遅れの生産性革命を成し遂げる。戦後最大の経済の落ち込みをグリーン・リカバリーとすることで化石燃料中心にできている経済構造を転換する。いずれも、既得権とのすさまじい戦い抜きには進まない政策です。「伝統的な家族像」を押し付けず、家族や夫婦の在り方に多様性を積極的に受け入れる。超大国の座を維持する意思も能力も失いつつある米国に頼り切らない外交・安全保障政策を構築する。

関西以外にも、名望家支配が強固な田舎とは異なり、東京、神奈川、埼玉、千葉には維新運動を展開する余地が大きいはずです。そこで新たな統治の実績を積む中で、次世代のリーダーを育ててほしい。二度の住民投票の結果を受けて維新運動は橋下、松井の二枚看板を失うこととなりました。個人的には、心からお疲れ様でしたと申し上げたい。ただ、幸いにして、平時の革命においては命までは取られないのだから、才能と経験を次世代へと繋いでほしい。そして、次世代には彼らを乗り越え、清々しいアマチュアリズムも乗り越えてほしいと思います。

明治維新のヒーロー達については、それぞれの贔屓があるでしょう。高杉晋作坂本龍馬などの若くして散った人々には特別の魅力があります。権力の頂点に立ちながら、夢半ばにして散った西郷さんの美学にも、共鳴するものはもちろんあります。

けれど、今の日本に求められているのはちょっと違う才能ではないでしょうか。日本が直面しているのは、150年前の植民地化の危機でもなければ、75年前のリアルな荒廃でもなく、緩やかに進む平時の衰退です。その核心には、持続不可能な現状をとにかく維持したい硬直化した有権者構造があります。それを乗り越えるチャレンジは、一生を捧げるに足る大義であろうと思います。

*公式メールマガジン三浦瑠麗の「自分で考えるための政治の話」2020年11月4日付配信記事より一部転載。三浦瑠麗の「自分で考えるための政治の話」公式メールマガジン|PRESIDENT Inc.

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