山猫日記

三浦瑠麗 山猫総研

小泉進次郎環境大臣が直面する困難

次代を担う政治家が取り組むべき課題

今般の内閣改造の目玉の一つは、小泉進次郎環境大臣の任命でした。強烈なカリスマ性と強いリーダーシップで、自民党をぶっ壊すと言いながらも長期政権を築いた父の小泉純一郎総理の引退以来、進次郎氏は一貫してメディアの注目を集めてきました。父親譲りのワンワード・ポリティクスは、識者からは内容が薄いと批判されがちではあるものの、国民一般には十分に雰囲気が伝わっており、世論調査からは今やポスト安倍の筆頭格に位置づけられています。小泉大臣の一番の特徴であり、武器は、民意がどこにあるかを探り当て、それに合わせたわかりやすいコミュニケーションを行う能力でしょう。それゆえに、期待先行と言われながらも、政治に期待を抱かせることができる数少ない存在となっているのです。

そして、大臣への就任後最初の訪問先に選んだ福島において、この能力がさっそく発揮されました。メディアの注目を浴びることとなったのは、福島県庁への訪問に先立って、小泉大臣が福島の漁協をはじめとする漁業関係者を訪問し、前任者の発言を否定したことでした。前任の原田前環境大臣福島第一原発の跡地にどんどん積みあがっている処理水について、「海洋放出しかない」と発言したことを謝罪したのです。ハフィントンポスト紙によれば、小泉氏は「この発言によって、お怒りになった方、またたいへん苦しい思いをされた方にまず会って、自分なりの気持ちをお伝えしたいと思った」と発言したと報道されました。

小泉氏の発言については、識者やメディアからさっそく大きな反響がありました。特に、一定期間、一定程度は原発を維持せざるを得ないと考えている識者は、発言に対して批判的です。小泉氏のポピュリズムのもっとも悪い部分が出た、あるいは、科学的知見をしっかりと国民に伝えるべき立場にある政治が感情に任せて発言しては、今後の仕事に支障が出るというものです。

原田前環境大臣の発言も注目されました。処理水について「海洋放出しかない」という発言を行ったのは失言ではなく、覚悟の投げ込みであったと。福島の復興にとっても、日本の環境行政にとっても、日本の国際的な評判にとっても、事態を先送りすることは許されないのは、積みあがっていくタンクを見れば誰の目にも明らかですから。

安心と安全をめぐる政治のウラにあるもの

最近の日本政治において、安心と安全の混同が見られることは事実です。科学的には安全であり、ある政策の方向性が許容されるにもかかわらず、安心は別であるとして異なる政策の方向性が支持されるのです。安心の名の下に、科学的な知見からは余計なコストが必要となったり、現状維持に伴うリスクが隠蔽されたりするのです。これは日本に限った現象ではなく、民主政治全般において問題となる姿勢です。ただ、安全と安心をめぐる政治には二つのパターンがあることを理解すべきでしょう。

一つは、しばしば政治的には不人気である科学的事実を丁寧に説明したり不利益を被るかもしれない人々を説得することを放棄し、結果的に公共のために必要な政策を放棄する姿勢です。根底には、政治家や行政の怠慢や事なかれ主義が根底にあります。まあ、ある意味日常茶飯ですが。日本社会は物事を変えようとする側に加速度的に重い説明責任が課される社会になってしまっています。処理水を海洋放出するという決断のリスクが高く見積もられる一方で、現状維持の延長線上にある処理水が積みあがっていくことのリスクは軽視されるのです。メディアも物事を変える側、判断を行う側の説明責任を、やいのやいのやるわけです。

もう一つのパターンは、安心と安全を混同しているポーズを取りながら、ウラで政治的な闘争が展開されているパターンです。小池都知事による豊洲移転の延期をめぐるごたごたはこちらの部類でしょう。彼女は、石原慎太郎氏以来の歴代の知事たちによって進められていた豊洲移転への「不安」を、自らの政治的利益のために利用したわけです。リーダーが安心を否定すれば、当然、国民は不安を覚えます。前任者を否定し、事態に果敢に対処するという姿勢を示すことで、政治的求心力を高めることができるわけです。実際、豊洲の問題は、結局は元のサヤに戻ることになり、コストと時間だけが費消されることとなりました。それを、「民主主義のコスト」と単純には割り切れないのは、誰の利益のための誰のコストであるか、という部分にダークなものを感じるからです。

小泉環境大臣の意図

福島第一原発の処理水をめぐる問題には、原発政策全般をめぐる路線対立が色濃く反映されています。一方には、処理水を薄めて海洋放出することは科学的に安全であり、各国で当たり前に行われている政策であるという立場があります。当然、この立場の延長線上には現状の原発を維持する政策があります。同じく新任の菅原経済産業大臣は、原発ゼロについて、「将来的に考えても現実的ではない」と発言していますから、現状の政府の基本的見解はこちらでしょう。

他方には、処理水を「汚染水」と呼び、海洋放出することの不安を強調する姿勢があります。例えば、福島の漁業者が被る風評被害を強調し、原発を維持するコストを限りなく高めていくことで、事実上は原発を維持することを不可能にしようとしているわけです。原発をめぐる安全対策がどんどん高まっているのは、この路線が一定程度奏功しているからです。兆円単位で文字通り積みあがっていく安全対策を勘案した際には、おそらく原発はすでに安い電源ではなくなっているのではないでしょうか。

本来であれば、福島の漁業者が被るコストと、処理水が積みあがっていく現状を放置するコストが対置されます。漁業者の被害に多少のイロをつけて補償することで事態をおさめてきたのが、日本的な保守政治でした。それに対し、漁業者の被害ではなく、「不安」や「怒り」を強調すれば、もはやコストは定量化できません。結果的に、それに対置される現状維持のコストまでが、いくらでも構わないというロジックになってしまうわけです。現状維持のコストも、電気料金や税金という形を通じてめぐりめぐっては国民が負担するものなのですが。

小泉環境大臣の発言が、どちらのパターンに当てはまるのか、実はこの点ははっきりしません。「国民の期待」を重視する姿勢から、まずは、そこに寄り添うという政治姿勢の次元での言動なのか。それとも、原発の安全対策にかかるコストを吊り上げることで、現状の原発維持政策を事実上葬り去ろうという意図があるのか。はっきりとは答えられないのかもしれないけれど、メディアや識者が問うべきはそこのはずです。

エネルギー政策の意図された欺瞞

日本のエネルギー政策は、大いなる欺瞞の上に成立しています。国のエネルギー基本計画によれば、2030年時点での電源バランスの目標は、再生可能エネルギーが22%、原発が20%、化石燃料が58%です。再生可能エネルギーには水力発電が含まれていますから、多少かさ上げされた数字ですし、一口に化石燃料と言っても環境負荷が高い石炭から天然ガスへの移行が進められていく予定です。当然、カギとなるのは20%となっている原発ですが、この目標を実現できると思っている人は、ほとんどいません。当の経産省にも、電力会社にもいないでしょう。

安倍政権が誕生してからの6年間で、西日本を中心に多くの原発が再稼働しました。国家を存亡の危機にまで追いやった事故の後に、ここまで持ってきたことは、ある種の観点からは政治的な成果と言えるでしょう。ただ、日本の電力需要の多くをまかなう関東に電気を供給する東京電力管内では一つの原発も動いていません。東日本大震災で大きな被害にあった東北でも同様です。そして、原発を再稼働させる政治的困難は明らかです。何せ、福島第一、第二と並んで東電管内の重要な原発である柏崎刈羽原発を動かそうとするたびに、現職の新潟県知事の首が飛ぶのですから。福島県や、宮城県原発を動かそうとすることは、政治的には想像することすら難しいのではないでしょうか。

それでも原発で日本の電源の20%をまかなうという目標が維持されるのは、方便に近いのだろうと思います。仮に政府が正式に原発政策を放棄したとすれば、各電力会社において原発に関連されて行われた投資は、すべて損失として計上せざるを得なくなります。天文学的なレベルの特別損失が一気に計上されれば、多くの電力会社は事実上の債務超過に陥るでしょう。そこに大量の資金を供給している銀行の債権も、不良債権と見做さざるを得なくなるかもしれません。原発政策を引き金として日本経済全体が大混乱に陥るシナリオです。であるからこそ、無理だとわかっていても、原発維持の看板だけは掲げておかないといけないわけです。まあ、これも保守政治の知恵と言ってしまえなくもないのかもしれませんが。

2030年のその後

小泉大臣に期待したいのは、2030年の後の絵姿を描くことではないでしょうか。国民の期待を動員することで何が達成できるのか。ある種の保守の統治の知恵として原発を維持するのか。再生エネルギーについても、その普及と国民負担軽減のバランスをどこで取るのか。現状の延長線上に見込まれる2割前後の普及から、米英独などの他の先進国が掲げる5~6割水準に引き上げるにはどうすればよいか。その際の、コアな技術となる蓄電池をどのように普及させ、中韓勢に席巻されている現状をどのように打破するのか。もちろん、環境大臣の所掌を超える難問ばかりです。

世界的にも、持続可能な発展目標(SDGs)が掲げられ、各国がその実現にコミットしています。持続可能というキーワードを本当の意味で実現するためには、一つの役所を超えた政府全体の取り組みが必要であると同時に、国民の理解とコスト負担と意識や行動の変革が重要になります。次代を担う政治家が取り組むに値する重要なテーマです。

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* 本記事は9月18日付の三浦瑠麗の公式メールマガジン「自分で考えるための政治の話」から抜粋・編集したものです。